100のお題・千と千尋の神隠しより
070. 見て見ぬフリ
その日、油屋はちょっとした興奮状態であった。
なにしろ、久方ぶりに そう、現世でいうと数十年ぶりに
龍神夫妻がやってくるのだ。もっとも、狭間の
こちらは時間の流れがあいまいで、下働きなどの
小女や蛙男たちは次々に入れ替わっていくにも
関わらず、上役やら湯婆婆様やら坊やらはほとんど
変化がなく、彼らを見ていると時間というものの観念が
理解できなくなったりする。まあ、日々をこの世界で過ごしている
者にとっては、時間とは一日単位の流れをいうのであって、
年月を数えるなど意味がない事なのかもしれない。
それにしても・・・・
千尋は、久しぶりに会う坊を見ながら思う。
最後に会ったのはお披露目の時で、
たしかその以前は披露目から7年前だった。
その7年間のほうが、坊の成長を感じたように
思うのは気のせいなのだろうか。
「坊、かわらないね。」
「湯婆婆があせることはない、っていうんだよ。」
先ほど、玄関先で会った時の坊の言葉を思い出す。
始めてあった時の赤ん坊でこそないが、
最後に会ってから少なくとも半世紀近くの
時間が流れているはずで、しかし、今だ
学齢期にもたっしていないかのような坊。
まあ、客の出迎えに出る事を自分から進んでする
ようになったのだから、まったく成長がない
というわけではないのだろうが・・・
「ほっておけよ。」
とは、共に油屋にきたリンの言葉で千尋が何も
言わなくても、坊を見る表情で考えていることは
まるわかりらしい。
「でも・・・ねえ、はく。湯婆婆って何歳くらいなの?」
「さあ、魔女の年を詮索するほど無駄な事はないというよ。」
「じゃあ、坊はほんとはいくつなのかしら?」
「ん、そういうことは釜爺に聞いたほうがわかると思う。」
「そっか。」
「っこら。まずは、部屋に行かなければ。
案内のものが困っているよ。」
そのまま、ボイラー室まで駆け出しそうな千尋の腰を
寸前で捕まえると、琥珀主はたしなめるようでいて、
甘やかすような口調で言う。
「それに、そなたはエステとやらで寛ぎに来たのだろう。
湯婆婆のすることの中で一番手を出してはいけないのが
坊のことだ。余計な詮索はトラブルを招くよ。わかるよね。」
あの懐かしい離れにわざわざ部屋を取った琥珀主とて、
久しぶりに千尋と2人だけで過ごせる時間を楽しみにしていたのだ。
坊の事情ごときで邪魔をされるわけにはいかない。
さっさと自分の部屋に向かったリンに気付くと
千尋も夫の言葉にこくんと頷いて、お披露目の間過ごした
懐かしい部屋に案内されていった。
かちゃり
「どうであった?」
部屋の入り口が開くとともに、龍神が待ちわびていた姿が
余計な付属物とともに嬉しそうに入ってきた。
「すっご〜く、気持ちよかったよ。はく、ありがとう。」
エステサロン・油屋のスペシャルコースとやらを受けてきた千尋は
結局半日近くの時を一人で待たせてしまった夫に、すまなそうに微笑む。
千尋の隣で同じコースを体験してきたリンなどは、
『女に生まれて良かったぁ〜!!』
と、ボディートリートメントとやらを受けながら叫んでいたそうで
よほど満足のいくものだったらしい。そんなリンと
チラッと目を合わせた千尋はぽっと頬を赤らめると視線をそらす。
「あん?なに赤くなってんだよ。」
「だって、リンさんったらジャグジーであんなことするんだもん。」
「いいじゃん、減るもんじゃないし。俺のも
触らせてやったんだからおあいこだろ。」
うりうりっとじゃれている親友同士にピキッと固まった
龍神は、ゆらりと立ち上がる。
「リン?」
「うわっと、やべっ。じゃ、俺部屋に帰るし。
夫婦水入らずでごゆっくりな。」
「えっ?リンさん、夕食を一緒にとろうよ。」
「んにゃ、遠慮しとく。」
それこそ、残像が残るほどの逃げ足でさって行ったリンの背中に
千尋に対するものとは全く異なる視線を送っていた琥珀主は
リンの姿が消え去ると同時に、身体ごと千尋に向き直る。
「おいで。」
てこてこと近寄り、差し伸べられた手を取ると、
千尋はそのまますっぽりと夫の腕に
はまり込んで、こてっと頭を胸に寄せる。
が、すりすりと甘えてくる妻を愛しく思いながらも
先ほどのリンの言葉を見逃すほど寛大な龍神ではなく。
琥珀主はぎゅっと胸の中の存在を抱きしめると
その胸のうちに気づいていない千尋の髪に
大きなため息をわざとらしく吐いた。
「そなたは隙が多すぎる。いくらリンとはいえ
ともに湯に入るなど。」
渋い声にきょとんとした反応が返ってくる。
「え?やだ、はくったらリンさんにやきもちをやいてるの?」
あわてて顔を上げようとする千尋の頭を抱きこむと
その耳元に囁くように、しかし本気を滲ませて言う。
「そうだ、といったら、そなた2度とリンと
二人だけで会わないと約束できる?」
「はいぃ?ちょっとはく?」
どうしちゃったの?やっぱり一人だけで
ほうっておいたこと怒っているの?
抱き込まれていた腕の力が少しだけ緩んだのを感じると、
千尋は顔を上げて夫の顔を覗き込む。
そうして、眉をしかめるようにして言い募る夫を
唖然と呆然とを足して2で割ったような顔をして眺めた。
「どうせ、そなたには私の気持ちなど理解できないのだ。
私がどれほどそなたを愛しく思っているか。なのに、
そなたときたら、リン、リン、とリンに対して、あのように
無防備な顔をさらして、あまつさえこの油屋にくる時まで
リンを誘うなど。まあ、それはよいとしても、そなた
先ほどリンとジャグジーで何をしたのだ?」
「・・・・」
対する千尋の瞳には次第にやわらかい光が灯ってきて。
こういうときの恋人に対する態度で
女としての価値が決まるのかもしれない。
笑ってさりげなく流すのか、その独占欲を
怒るのか子供っぽさに呆れかえるのか。
しかし、千尋が取ったのはそのどれでもなく。
「・・・はく。」
「なに?」
「大好きよ。」
「・・・・・」
そうして、ぴきっと固まったように動きも表情も止めたてしまった
龍神の頬を両手で宝物を包むようにそっと包み込むと
先ほどまできつく寄せられていた眉の間に唇を落とす。
子供っぽい、しかし、力がある分、深刻な独占欲の塊の龍神は
そんな妻に思わずといった様子で膝をさらい上げ、
そのままその胸に顔を埋めるように立ち尽くす。
どのくらい時が止まっていたのだろうか。
顔を上げた龍は溢れんばかりの想いを瞳に湛えていて。
「千尋。」
「なあに?」
「愛している。」
「わたしもよ。」
ため息とともに囁かれた声に微笑みとともに返される声。
そうして、その姿は次の間の寝室に消えていったのだった。
特別室の上がり框の前で御用聞きに来た
ベテラン女中頭であるよりと
今行くととばっちりを受けるかも、
と心配して追いかけてきたリンは、
こっそり、聞き耳を立てながら顔を見合わせ、
どちらともなく深いため息を吐く。
普段無表情で、しかもこのところ一段と凄みをましてきている
龍神のすねている姿など見られたものではなく。
そうして、ごく当たり前のように
それをなだめてしまった元人間だった少女に
この夫婦の普段の力関係もわかってしまったりして。
「さ、さすがせん・・・」
「・・・あの龍神様がすねてらっしゃる・・・」
互いに自分なりに感じたことを顔に乗せたまま、
しかし、こっそり覗き見をしていたことを
互いに見てみぬ振りをする今だ恋人の
一人もいない女二人なのであった。
・・・・・
この湯屋で一番見てみぬ振りをしなければならない不文律は
客たる神々の普段の姿からは想像もつかない本性である。
おしまい
あはははははは・・・・
笑ってごまかしちゃえ。