100のお題・千と千尋の神隠しより

 

072. 波の花

 

きっかけは、例のごとく何気ない千尋の呟きだった。

ささいな事であっても、千尋の望みをすべてかなえる

ことを、密に至上の目標としている琥珀主は、嬉嬉と

して、準備に取り掛かる。もっとも、内緒ですすめられ

た準備の中身はたいしたことではなかったが、龍神

夫婦以外のものにとっては、目を丸くするに十分な事

態であった。即ち、この森の主が台所でおにぎりを握っ

ているのだ。真っ白な炊き立てご飯に塩をふっただけ

のシンプルなおにぎりに飲み物を用意すると、呆然と

している木霊たちを残して、眠っている千尋を

驚かすべく、琥珀主は寝室にむかった。

「千尋、起きて。今日は出かけるよ。」

んんん、と目を瞬かせている妻の頬に口付けを贈ると

そのまま背中に手を回してひょいっと起してしまう。

そうして、早く早くと支度を急かすとクエスチョンマーク

を浮かべたままの千尋を龍身の背中にのせ、暁まで

間がある空を、いずこかへ飛び立っていったのだ。 

「た、たま。」

「きくな。」

唖然としたまま、取り残された木霊たちは、あの主の

  底のしれなさに首をふりながらため息を吐くのであった。

 

「はく?どこに、行くの?」

真夏の一日の一番過ごしやすい時間帯。夜が明ける

間際の新鮮な空気の中、千尋は夫の背中の温みと涼

しい空気のコントラストの心地好さを全身で満喫しなが

らたずねる。もちろん龍身でいるはくから答えを期待し

たわけではないのだが、しかし、その問いにスピードを

あげることで答えた夫に、くすくす笑いをこぼした。背の

温みからは、はくが わくわく?しているらしい興奮が伝

わってきて、そんな気持ちは伝染してくるものなのだ。

千尋は、鬣(たてがみ)に頬をよせ夜明け前の空中散歩

を楽しむ。そういえば、はくと完全に二人きりというのは

久しぶりのような気がする。以前、千尋がまだはくの妻

になる前は、森の中で二人だけの空間を過ごしたもの

であったが、同じ森とは思えないくらいの賑わいを見せ

ている現在の森は、命の輝きに満ちていて『誰の気配

も感じない場所』では、なくなっている。そのことに文句

があるわけではないのだが、それでも世界にただ二人

しか存在しないようなそんな時間と空間が懐かしくなる

ことがあって。錯覚であっても、あの時共有した、あの

時間と空間は千尋の中で輝かしい

思い出となっているのだ。

『はく、大好き。』

心の中で呟いた、そんな想いも伝染するの

だろうか。龍神が僅かに身を震わせる。

 そうして、一段と速さをますと、夜が明け

染める前に目的の場所についたのだった。

 

断崖絶壁の足元からは波が砕ける力強い音が聞こえて

くる。雲ひとつない真夏の夜明けの空と、透明な黒と蒼

の溶け合っていた水平線が薔薇色に染まり始めるさま

を、千尋は髪をなびかせながら、言葉もなく見つめてい

た。傍らに立つ夫の肩に無意識に身を寄せると、そっと

肩を抱き寄せてくれて。水平線から、日輪の端が揺らめ

きながら顔を覗かせると、真っ白い輝きの矢が放たれ、

二人をめがけて飛んでくる。有無を言わさぬ容赦のなさ

と、命そのものを手の中に握っている傲慢さ。そうして、

すべての生命の源としての完全なる許容と恵みを湛え

次第にその威容を現わしてくるその瞬間を二人は輝き

に包まれながら瞬きもせず見つめつづけたのだ。

「はく、ありがとう。」

太陽が完全に昇りきり、今日も真夏の晴天が約束された

そんな空のもと、千尋は深いため息をついた後、

ぽつりと呟いた。

 

『水平線から昇るお日様と

水平線に沈むお日様が見たいな。』

森の中で過ごしているかぎり日が昇ったり沈んだりする様

子は木々の向こうで行われていて、たとえ山の端で起きる

ことであっても、なかなか目にする事はできないのだ。昨

日 木の間から顔をのぞかせていた明星を見ながら、

ああ、もう、お日様が沈んでしまったのねと少しばかり寂

しさを感じて何とはなしに独り言を言ったのだった。なん

となく、嘆きとも願いともつかない、ないもの強請りにも感

じられる言葉をつい口に出してしまった後、小さく反省して

ペろっと舌を出したのであったが。周りには木霊たちも、い

なかったのに、はくは知っていたらしくて、そんなびっくりを

時々してくれるはくの気持ちが嬉しくて、愛しくて。瞳を潤

ませている千尋を龍神は微笑んで見つめる。そうして、

「お腹がすいただろう。」

と、取り出したおにぎりで千尋は、思わず笑い出しながらも

胸がいっぱいになって。そんな泣き笑いしている千尋にふっと

笑みをこぼした龍神は、絶壁の上の短い草の上にすとんと腰

を下ろすと、千尋を膝の上に座らせて ぎゅっと抱きしめる。

そうして涙をそっと拭うと優しく唇を合わせたのだった。

    

千尋の足元で、波がくだける。土用波にはまだ早いはずな

のだが、思ったよりも高い波が次々とやってきて、千尋は久

しぶりの海に大はしゃぎした。どこまでも続く白い砂浜は人

影もなく、波と太陽の日差しと海鳥の鳴き声だけが満ちてい

て、はくと2人だけのそんなひと時を、波と戯れたり、互いに

甘えたり、まるでかつて森で過ごした時間のように無邪気

に笑って過ごす。琥珀主といえば、千尋の幸せは直に自身

の幸福につながっていて、そんな満ち足りた想いはやはり

久しぶりに感じるような気もして。もし、この場をみているも

のがあれば、まさに相愛のカップルの戯れる様に呆れなが

らも、思わず微笑んでしまったであろう。他を牽制するため

ではない、心からのまさに全開の笑顔は、千尋だけしか引

きだすことができない貴重なもので、上位神がことさら強調

する、若龍だとか、若者だとか、お子様だとか、この龍神を

表すのに使う単語が、納得できる表情でもあるのだ。

「千尋、おいで。」

「もう、かえるの?」

ちょっとばかり不満を滲ませる千尋に、はくは笑って答える。

「いいや。日暮れまでまだ間があるし、夕日をみにいこう。」

「えっ、でも日本海側に行かなくちゃ見れないでしょ。

ここまでつれてきてくれただけで充分よ。」

夜明け前から飛んだのだから、疲れているでしょう?

案じる千尋に、龍神は微笑みながら首を振る。

「わたしの楽しみに付き合っておくれ。そなたに

見せたい 取って置きの場所があるのだ。」

そうして、若龍と娘は再び空を翔けていく。

日輪の軌跡を追って、西の海の方向に。

 

一日遊び戯れた砂浜とは、その趣を異にしている

岩の突き出た海岸が、荒れ狂う波しぶきに削られ

たその険しさを露わにしながら、ひと時の静けさの

中で屹立している。夕方の凪いでいる海はまるで

鏡のように光を乱反射させていて、夕映えに染まった

海水は、旭日の東雲色とはまた異なった茜色の空を

写し取っていて。千尋は息を呑みながら、その美しさ

に魅入られる。こんな落日を見たのは、まさに生まれ

て初めての経験で、水平線に没しようとしている日輪は

今朝より一段とその色を濃くしている。たくさんの命を

育んで、乾坤にあまねくその恵みを注いだ日輪の

一日の最後の仕事は、海を自身の血潮に染める事。

彼方に完全に没した後も、残光の色は空に残されて

いて。千尋はそんな名残が、完全に夜の支配下に

入るまで、海面に突き出た小さな岩に座っていた。

気が付くと、海面には月光の道が伸びていて、静かに

寄せる波の音はその月色の道にさざめいている。

震えるようなため息を吐いた千尋は隣に腰をおろし

ている恋人の肩に頭を乗せると、静かに笑む。

「はく、帰ろう。」

「・・・満足した?」

「ん、ありがとう、はく。」

見るべきものを見尽くしたようなどこか脱力するような

倦怠と、見てはいけないものを見たような畏怖の思い、

人間がその本能にインプットされている母なる海と

焦がれてやまぬ日の光は、その深さは異なっていて

も、小さな命の瞬きに過ぎない身には底知れぬ存在

であることに違いはなく。千尋は、傍らの温もりに

安堵のため息を吐く。はくは神様で 妻とはいえ、

その存在は敬して敬うべきもので。ことにそんな思い

を感じる事が多くなってきた昨今、二人だけの一日を

プレゼントしてくれたはくは、神様ではなく自分だけ

の愛しい恋人に戻ってくれたような、そんな気持ちがして。

神々の世界で寄る辺ない迷子のような存在に過ぎない

己をここまで、大切に思ってくれていることへの、

感謝と心底から湧き上がってくる慕わしい想い、この

想いに何と名をつければいいのだろうか。多くの

神が(ことに女神たちが?)感じているであろうなぜ

千尋なのか、という不信にもつながる思いなど、

圧倒的なこの想いの中では消え去ってしまう。

愛しさに 理由などないのかもしれない。

愛情以外の何物でもないはくの想いを注がれて

千尋は希(こいねが)う。

はくが幸せでありますように。

はくを幸せにできる己でありますように。

そして・・・

こんな日々が永劫に続きますように。

 

己の温もりを求めてくる千尋の願いに

応えながら 琥珀はほっとため息をつく。

神と人との決定的な違い。

神は不変を望み、人は変化を求める、ということ。

十年一日(いちじつ)のような日々は神にとっては

当たり前でしかも、望ましいもの。

千尋もそんな時間の流れに組み込まれ

楽しみながら日々を過ごしていて、自分への

愛情も深まりはすれ、色あせる事などなくて。

それを疑っていたわけではないのであるが、

そんな千尋が、呟いた一言は、琥珀をヒヤリと

させた、といえば言いすぎだろうか。

地に結び付けられそれを平らかに治めることが

役目の神とはことなり、人はもっと自由な存在で、

千尋の魂も深層では、そのあるべき姿を失っている

わけではないのだ。神が人を娶ったあと、くるであろう

限界は、龍が半身を求める本能と同じように人の魂に

刻み付けられた、その自由を求め自身が変わることを

求める、魂が持っている本来の姿。

それは、千尋を信じることとは

次元を異にしている問題で。

日をすごすごと深くなっていく

千尋への愛情と執着は、反面千尋を失うことへの

恐怖が深まっていく事でもあって。それゆえ、

琥珀は千尋から目を離せないのかもしれない。

水平線を通しての旭日と落日。

人の魂が輪廻の輪を通り生まれ

変わる象徴ともいえる事象。

千尋が無意識に口にした願い。

 

千尋、千尋、千尋。

ああ、そなたの望みはすべてかなえよう。

だから、どうか・・・。

 

『はく、帰ろう。』

先ほど千尋が口にした言葉。

この言葉が、魂が震えるほどの歓喜を呼び起こす。

千尋、千尋、千尋、ありがとう・・・・

 

龍神は、唯一無二の存在を、まるで自身に

溶け合わせたいとでもいうかのように固く抱きしめる。

そうして、膝を攫うとそのまま、抱き上げて

月道にその身を溶かしたのだ。

 

後に残された波は自身が崩した岩にぶつかって

繰り返し繰り返し、花を咲かせ続ける。

永劫などありえない世界の真理のなかで

そこに生まれては消え去っていく

そのこと事態に意味があるのだと、

あるいは、意味などなくてもただ存在している

それ事態が重要なのだと主張するかのように、

次々に生まれては消え去っていく波の花。

誰に見取られることもなくても、

しかし確かにあったその事実を

否定だけはできないのだから。

哀れで儚く美しい恋人達。

今、そこにある、それ事態が貴重なのだと

知ることができるのはいつになるのだろうか。

 

 

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涼しげに水中か水上散歩する2人を、という拍手メッセージでのリクエスト

から、始まった妄想が こんな方向にすすんでしまいました。

水中散歩か、つうとデートね。デートといえば海?でも海中だと竜宮から

なんか横槍が入りそうだし、んじゃ海辺のデートか、というふうに妄想が

広がって、本当ならいちゃこいたギャグ落ちにするはずだったのに、

お題に絡めようとした所から間違ってしまいました・・・

なんかいつまでたっても同じ所をループしているような気が。

まあ、けなげなはくが見られたから良しとしましょうか。

うんうん、なんか作者の願望入りまくりだよ。

つか、あんたたちいい加減に子どもを作って人の苦労を思い知いしれ!!