龍神シリーズ第3部・第3章

小話・その19

(100のお題・千と千尋の神隠しより)

090. トリコ

 

この胸の中に、底知れぬ闇がある。

海闇の異形のモノがやってくるという

海神の神の伝達者達でさえもその底を

覗くことができない

海底の深淵よりも深い闇が。

 

人を呪い、神を呪い、この世のすべての理を呪う

不浄の存在。

かつては、確かに神の眷属として役目を戴いていた

その獣は、今では闇の眷属として

けち臭い悪さを働きながら

秋津島の人間に災いをもたらしていた。

人の心の闇を覗き込み

些細な悪意を嗅ぎ取ると、不和の種をまき

憎しみを育て、そうして連鎖的に

不幸が増殖していくのを

歪んだ笑みを持って眺めながら

楽しんでいたのだ。

人間の持つ闇を利用しながら

膨れあがった欲望を喰らう闇のモノ。

この秋津島に限らず、人の世ではこのような

闇につけこまれることはよくあることではある。

祟り神とまではいかない闇の眷属の中でも

下っ端に過ぎないその獣は、

しかし目をつけられた人間たちと

それに関わり合いのある小さな霊たちにとっては、

大いなる災いであった。

 

「千尋。ちょっといい?」

「はく。今日は早いのね。お仕事は終わり?

それとも休憩にきてくれたの?」

千尋は糸を組む手を止めると嬉しそうに立ち上がった。

そうして、アトリエとして使っている庭に面した

小さな部屋に顔を覗かせた夫のもとに歩いていく。

「きゃっ。」

森の主は手が届く場所に来た瞬間、待ちくたびれた

とでもいうように、千尋の腰を引き寄せると胸に抱きしめた。

「はく?どうしたの?」

千尋の髪に顔を埋めていた琥珀主は

しばらくして深いため息をつくと顔を上げた。

「ん。いや、なんでもないよ。

ああ、そなたの仕事の邪魔をしてしまった?」

いつもとはほんの少し違う琥珀主の動作に首を傾げる

千尋に、否定の仕草で首を振ると

腰を離さないまま千尋が今、はまっている

丸台と呼ばれる組みひも作りの道具のほうを覗き込む。

「だいぶ進んだようだね。」

その内心をなかなか覗かせてくれない夫に

ほんの少し寂しさを感じながら、それでも千尋をこうして

腕に抱いていることがこの力ある龍神にとって

何よりも大切なことなのだと自惚れではなく

事実として身をもって知っている

千尋は、素直に返事を返す。

「そうなの。もうすぐ、はくの髪を縛れる位の長さになるわ。

そうしたら、使ってね。それと、交換ね。」

そういうと、千尋は夫の髪を縛っている紐を

そっと手で手繰り寄せる。

「ほら、あちこち解れちゃってる。一番最初に作ったの

だから、組み方が甘かったに、毎日使うのだもの。」

「そなたの手作りのこれ以外は使う気にならないよ。」

ふっと、愛しくてたまらないというような微笑を見せる夫に

思わず、千尋は頬に血が上るのを感じる。

どれくらい、共に時を過ごそうと、

この美しい顔は心臓に悪いのだ。

「あ、ありがとう。でも、やっぱり恥ずかしいから

外出するときはちゃんとしたのをつけて。

今作っているのもまだ、あんまり、上手じゃないの。

ねえ、もう一度、銭婆おばあちゃんのうちに

教わりに行きたいな。ほかの色の糸もほしいし。」

日帰りでもいいのだけど、だめ?

甘えるように首を傾げてくる千尋は

秋の祭祀の忙しさが終わってすぐの、つい先日も

銭婆の家に3日ほど「しゅぎょう」に行ったばかりなのだ。

そうして、糸紡ぎや機織、染色など様々な技を教わってきては

こうして自分で作ってみる。そんな道具類が、

所狭しと占領しているこの部屋は、千尋が冬の間

時を忘れてよく篭っては龍神を嘆かせるのだ。

いつのころからか、そんな風に様々なモノを

手づから作り出すことに喜びを見出すようになった

千尋は、今ではいろいろな技を習得していて、

しかも、今度は組紐作りに挑戦しているらしい。

「・・・そのうちね。しばらくは、銭婆殿も忙しいようだから。」

この妻は銭婆のところに行くと、数日は泊り込んで、

帰りを待ちわびている夫のことなど忘れてすっかり

「お弟子さん」モードになってしまうのだ。

龍神がしぶしぶ許す何年かに一度のこととはいえ

そんな不在中の寂しさを思い出した龍神は

小さくため息を吐くと、自身の髪を持っている細くて小さな、

しかしたくましい手にそっと唇を寄せる。

「それより、今日はこの後、私と午後を過ごそう。」

「え?いいの?じゃあ、すぐにお茶にするね。

あ、でもよかったら先にお庭に花を切りに行っていい?

テーブルのお花を生け変えたいから。」

「・・・・この季節に、何の花?」

「先生の椿のお花。今年最初の花はぜひ私にって

さっき、つぼみが色づいたからって、

カヤ姫が知らせてくれたの。」

「あのものが花を?」

「そうなの。ずいぶん元気になってきたのよ。はく、ありがとう。」

河西先生が大切にしていた木をつれてきてくれて。

 

庭の片隅に大きな椿の木が立っている。

2日前に、そこに出現したばかりのこの木は

実はとある人間の家の庭にあったものである。

椿にしてはかなり長生きでしかも、精霊が宿っているため、

長年その家のものに大切に守られてきたのだが、

いかんせん、このご時勢である。

直系の血が途絶え、遠縁のものが継いだ時、

この木を守ることが相続の条件であったにもかかわらず、

広い日本庭園をつぶして、土地を切り売りしたのだ。

千尋が人間であったときの知り合い?であった

この木の精霊の叫びを感知した龍神が、先日

その力でもってこの森に呼び寄せたのだ。

というわけでカヤ姫と呼ばれている椿の精霊は、

人間に痛めつけられた心と体を

千尋の庭で癒すことになったのである。

 

琥珀主は、庭に面したアトリエの窓から

千尋がカヤ姫に導かれるまま

花が開く前のつぼみのついた枝を

一枝切る様子を見守った。

無残なほど儚げだった精霊はそれでも、

ここに来たばかりの時と比べれば、

ずいぶんその存在が確かなものになってきた。

くたびれ果てた老婆のようだったその姿は

老いまでは隠せないものの、白髪交じりの長い髪の

艶も戻り、しわのよった頬にも血の気が戻ってきている。

千尋の言葉に笑い声を立てている表情は

一瞬、その盛りの美しい姿を思い浮かべることが

できそうなほど、若々しくて。

テラスに佇み2人を見つめている森の主に気付くと

椿の精霊は優雅に礼を取る。そうして、千尋に

対してまるで祖母が孫に対するような優しげな手つきで

頬に手を伸ばし、何か言葉を交わすと、そのまま

静かに木に中に身を溶かしていった。

残された千尋は、椿の木に向かって軽く頭を下げると

窓を振り返り、自分を見つめている夫に対し

その手の中の花のごとく顔を綻ばせた。

そうして、手の中の花を大切そうに抱えながら

駆け寄ってきたのだ。

 

ああ、千尋。

この胸のうちをどう表したらよいのだろう。

あまりに激しい想いは、自身でさえ

飲み込んでいってしまいそうで。

そのまま、そなたを巻き込んで

押し流してはしまわないかと

恐ろしくなる。

 

「はく。」

「千尋、どうしたの?そんなに慌てて。」

胸のうちを走る熱い激情を悟られないよう

静かに両手を広げて飛び込んでくる少女を受け止める。

しかし、次の瞬間には思わず想いがあふれ出て。

「だって、はくがいてくれて嬉しかったの。」

 

ああ、千尋。

そなたは、どこまで我をトリコにするつもりなのか。

 

ぎゅっと抱きしめる龍神の胸におとなしく抱かれていた

千尋は、腕が緩むのを感じるとそっと身を解く。

「今日は、ハーブティーにしましょうよ。」

微笑みながら肩に手を伸ばし、

その秀麗な顔を見上げながら

伸び上がって頬に唇を落とす。

そうして、これもまた、自身が作った一輪挿しを

椿の枝とともに持って、アトリエを出て行った。

 

龍神は、ふとその動きをとめる。

「主様。」

いつの間に来たのか、先ほど木に還ったはずの

椿の精が部屋の片隅に控えていた。

そうして、静かに膝をつくと銀鼠色に萌黄色の

重ねを合わせた着物の袂を横に流し

ゆっくりと平伏すると、その姿勢のまま

ぴたっと止まる。

「花守の敵を討ってくださったこと御礼申し上げます。

この上は、わが命尽きるまでお仕えもうしあげること

お許しくださいませ。」

老いても張りのある声は凛としたその姿にふさわしく。

「そちのためにしたことではない。」

「で、ありましても・・・」

「去れ。」

つれない主に、しかしその行動から汲み取れる心情は

表に表れるものとは異なっていて。

命に反することではあるが、身じろぎもせず続ける。

「千尋姫命様のもとに身を寄せることを

お許しくださったことにも、合わせてお礼を。」

「そちのためにしたことではない。」

「はい。それでも3代前の花守の当主が大切に

思っておりました人間の娘ですゆえ。」

そう、子どもを持たなかったあのものが

迎えた養子と娶わせて後を継いでくれたらと

密かに心に描いていた娘。

時折、稽古にくるその娘の輝きに

そんな願いもさもあらんと、次代の花守として

認める心積もりはあったというのに。

しかし、娘は16のときに、突然姿を消してしまい、

一人勝手に描いていた夢をそのまま心の底に

しまいこんで、静かに笑んでこの世を去っていった

あの花守は、今までの中でも最高の当主だったと思う。

それから、3代。

大切なものを守ろうという思いはいつしか途切れ、

そうして、あの花守の家もついに途絶えてしまった。

跡を継いだ遠縁のものは、すでに闇に魅入られていて。

家守でもあった邪魔な椿を、真っ先に抹殺しようと

手を伸ばした所を、この龍神に助けられたのだ。

突然の助け手に混乱して、なぜ、との問いに

思いもしなかった名前が出て。

 

『千尋の願いゆえ。』

 

思いもかけず再会した娘は、最後に見たときから

更に輝きを増していて、今ではこの龍神の神人であり

唯一の妻として比売神として立てられていたのだ。

最初の驚きが消えて湧き上がってきた思い。

さもあらん。

ならばとて、あの時あの願いが叶っていたらという

詮無い思いがやっと諦められ昇華できたような。

ゆえに口から出た思い。

 

「去れ。」

老いた花の精霊は、森の主の命に今度は素直に従って、

妻の後を追うべく部屋を出て行ったその後姿を

見送りながら、その身を宿り木に溶かしていった。

 

敵を討つ、か。

琥珀主は、ふと立ち止まり、自身の右手を見つめる。

ついさきほど、その手で消したばかりの闇の眷属。

あの花の精はどのようにしてか、それを感知したらしい。

椿の精霊を追って、森の結界を突破した闇の獣。

身の程を弁えないその行動は、

千尋の庭に近寄ろうとしたこと事態が許しがたく。

標道を汚したことだけでも、制裁は当然のことで。

しかし、消し去る直前、闇に陥る前の残り香の

気配を感じ取った龍神は、この無謀な行動の

意の一端を知ったのだ。

 

『欲しい。』

『あれを、この手に。』

『欲しい、欲しい、欲しい。』

 

空の月に手を伸ばすがごとき、叶わぬ願い。

初めての恋の相手。

いつのことか、そう、カヤ姫とて知らぬうちに

寄せられていた淡い思い。

手の届かぬ花の精霊に恋をした神の眷属は

その思いを告げる前に仕える主を失って、

次第に、闇に落ちていった。

そうして、徐々に歪んでいく思い。

人間に破滅をもたらし、自身に力をつけていった

今までのすべての行動は、煎じてみれば

この花の精霊を手に入れるためだったのかもしれない。

精霊とて、老いるほどの時を経て、残っていた妄執。

宿り木から離れる一瞬にすべてを賭けて。

もう少しで、あとほんの少しで手に入った愛しい花の精。

そう、愛しすぎてその身を砕いてやりたくなるほどの。

自身のものにならないのなら、殺してしまおうと

願うほどの。

龍神にその身を消される直前、

闇の瞳に点ったのは、しかし安堵の思いだった。

 

『感謝を。』

辛く苦しい思いに終止符をうってくれたことに。

愛しいものを滅ぼさずにすんだことに。

 

・・・この胸の中に、底知れぬ闇がある。

海闇の異形のモノがやってくるという

海神の神の伝達者達でさえもその底を

覗くことができない

海底の深淵よりも深い闇が・・・

 

この龍神からみれば、取るに足りないほどの

ちっぽけな闇の眷属。

千尋の庭に入ろうとしなければ、自身の眷属たちに

処分を任せて、歯牙にもかけなかったであろう。

しかし、不浄の思いを持って千尋のそばまで

近寄ろうとしたことに激怒して。

怒りに任せて消し去ったあの闇の獣と

しかし、同じ闇は自身にも巣くっているのだ。

そのことに気付かされたあの一瞬。

自身が死ぬことでしか消し去ることができないほど

がんじがらめに囚われている妄執。

身のうちが震えるほどの。

 

千尋。

ああ、千尋。

そなたが、我の手の内から去っていこうとしたら

我とてあの獣になるだろう。

千尋。

そなたが、我の虜でなくなったら・・・

 

「はく?」

暗い思いに、しかし光が差し込む。

「テラスでお茶を戴きましょうよ。」

ガラス張りの光と温もりに満ちた場所に

夫と憩いのひと時を持つための用意を整えて。

愛しい娘は光の中から微笑む。

「カモミールにレモングラスとローズヒップを合わせた

特別ブレンドよ。銭婆お婆ちゃんに教わったの。」

椅子に座った夫にガラスの茶器で熱いお茶を注ぐ。

「カモミールにはリラックス効果があるのですって。」

そう、銭婆に教わるのは手慰みの遊びだけではなく

古くから伝わるこんな知恵もそうで。

重責を担う龍神に、少しでも安らぎを。

自分にできるのは、こんな些細なことだけなのだけれど。

癖のあるハーブティーを飲みやすくするため工夫を重ねて。

どうか、疲れが取れますように。

 

「千尋。」

 

一杯のお茶に込められるその愛情に

泣きたくなるほど満たされる想い。

底の知れない筈の深遠の深みにまで

差し込んでくる明るく暖かい輝きに

先ほどまでの暗く闇に閉ざされた思いは

跡形も無く消え去って。

 

「おいしい?」

「ああ、とても。」

 

庭に宿る椿の精霊は、その輝きに

眩しそうに目を細める。

幸福を体現したような夫婦神。

そこには確かに甘みだけではなく

舌を刺すような苦味が存在するのだけれど。

一度手にしたものは、決して手放すことなど

叶わぬほど、互いが互いのトリコになっていて。

椿の精霊はその輝きの恩恵を蒙って

また少し若返る。

そうして、穏やかな気に満たされながら

ゆっくり目を閉じたのだった。

 

 

千尋が長い眠りに入るほんの少し前。

この夫婦に刻まれた珠玉のひと時のお話。

あるいは・・・

互いを縛る楔がまた一つ締められた、

そんな出来事であったのかもしれない。

 

おしまい

 

目次へ  100のお題へ

 

ああ、難産だった。

書きたいことからどんどんずれていって

題名さえも数回変わったのは、まいりました。

おかしいなあ。

本当なら、遊佐もでてきて

闇の眷属を退治するお話だったはずなのに。

仕上がったらまったく別のお話になっちゃったよ。

アトリエ云々については、かなり前から

暖めていたことなんですが

やっと出すことができました。

拍手小話13で先行して言葉だけ出していて

気になるとのコメントをくださった方、こんなもんでしたが

いかがだったでしょうか。

普通の人の何生分も生きている千尋ですが、

不器用なりに時間をかけながらいろんなことに挑戦しているのです。

しかし、ちーちゃんってば。

竜宮から帰ってきてから

いつの間に銭婆のとこに行っていたの?

今度はリリアン?ですか。

(ちょっと違う?なんか、日本の組紐技術は

かなりのもんらしいですよん。やったこと無いですが。)

がんばれちーちゃん。早くはく様にまともな紐をやるんだ。

はく様がぼろぼろの紐で髪を縛っているって笑えるし。

まじ、世話をする眷属たちも困っているんだろうな。

ほんと、バカップルですね。

 

なお、このお話の一部設定について、

波津あき子先生の「異国の花守」(小学館文庫)を

参考にしてあります。