100のお題・千と千尋の神隠しより
100. Here in My heart
灯火の煌く部屋で、千尋は静かに手を動かす。
すでに眷属たちも部屋に下がり、しんとした
夜更けの空気の中、ほの明るい灯に
照らされた部屋に影が揺れる。
長い髪が痛まないように丁寧に梳いている千尋の手にある
トロリとしたあめ色のツゲの櫛は、新婚当初からの
愛用品で、良人からプレゼントされたものなのなのだが、
どちらかというと猫っ毛の千尋には櫛よりも
ブラシのほうが扱いやすく、このような櫛が似合うのは
碧がかって見えるほど艶やかな黒髪の持ち主であろう。
そう、千尋が今梳いているのは自分の髪ではなく
夫たる龍神のものなのである。
どんな美女でも羨むような髪は、しかしその持ち主にとって
何ほどのものではないらしく、どちらかというと腰ほどまで伸びた
髪は不精の賜物といったほうが真実に近いかもしれない。
「はい、終わり。」
寝乱れないようにと髪の先のほうで紐を結びながら
まるでベルベットのような感触が手放しがたくて、
千尋は手の中の髪をそっと持ち上げ、思わず頬を摺り寄せる。
と、瞬く火に輝く髪が揺れさらさらと手から零れ落ちると、
どこか艶めいた翡翠の瞳が千尋の目の前にあった。
「ありがとう。そなたの手は気持ちがよいね。」
「あ・・・」
思わず視線をそらして頬を赤らめると
顎を捕らえられ、そっと顔を上向けられる。
「以前にも言ったけれど・・・」
龍神は今まで自身の髪を握っていた妻の手に唇をよせる。
「その手で私以外の男の髪を結ってはいけないよ。」
どこか笑みを含んだ表情(かお)は目に眩しいほど麗しく。
「・・・もちろん、そなたの髪も私以外の男に
触れさせてはいけない。」
髪をそっと撫で下ろす感覚に、千尋はまるで
魅了されたかのように言葉を紡ぐ唇から目が離せない。
潤んだ瞳で見上げてくる千尋にふっと笑むと琥珀主は、
目の前の卓に置かれたブラシを取り上げる。
「今度はわたしの番。」
そっと促し、千尋を今まで自身が座っていた椅子に
座らせると、髪を手に取り、静かに梳き始めた。
「古来より・・・」
なすがままになりながら、髪を滑る感触に千尋はうっとりとする。
「この秋津島では、想いを交わした女子(おなご)の髪を結うことで、
婚姻を約したのだとか・・・髪は神に通じるゆえの慣わしなのだろうか。」
琥珀主の低い声が耳を優しくくすぐる。
「ああ、それにしても、そなたの髪は触れるだけでも
心地よい。わたしの手にしっとりと納まるよ。」
「・・・でも、だいぶ伸びたから、そろそろ、切りたいな。」
どこか夢うつつのような千尋にクスリと楽しそうな声が返ってきて。
「いいよ。髪そぎに吉日を選んで、切ってあげようね。」
いつの間にか背の半ばほどに伸びた髪を梳き終わると
先ほど千尋がしたように一房の髪を手に
掬い取ると口元まで持ち上げる。
「もう少し、伸ばしても似合うと思うのだが・・・」
「・・・わたしの髪は絡みやすいから。・・・はくがせっかく
梳いてくれても朝にはくしゃくしゃになってしまうのだもの。」
はくのように乱れないようにと紐で結んでも、いつの間にか
するりと抜け落ちてしまうのだ、と。
鏡越しの千尋は、どこか済まなそうにも見えて
しかし、琥珀主が自身の髪に愛しげに唇を寄せる様を
熱っぽい視線で見つめている。
「千尋・・・」
「ん・・・・」
仰け反るように顔をあお向けると心のうちに
互いに望んだどおりに唇が重なって。
「わたし、はくの髪大好き・・・」
「わたしは、そなたの髪が愛おしいよ・・・」
そうして、すっと立ち上がった秀麗な若者の腕からは、
栗色に輝く髪が柔らかく波うちながら流れ落ちた。
髪には霊力が宿るという。
自らの想いを半身の髪を梳く手の中に注いで。
その一筋までをも互いのものなのだと。
そうして、まるで互いの胸奥を象徴するかのように
翌朝の寝台では碧なす黒髪と栗色の髪が
寄り添い絡み合って、旭日の光に輝くのだ。
おしまい
微妙に裏風味?
髪を梳かしてもらうって、なんとなくエロチックな気がする
と思っていたら、こんな↓意味があったらしいのん。
万葉の時代、女性が成人したり婚約をしたりしたときに、
夫になる男性に髪を結ってもらう、という風習が
現在では、結納という形で残っているのだそうでっす。
互いの髪を結うのは想いを交し合うということと同義なのだとか。
髪=その人というくらい大切なものと考えられていて
神への捧げものに髪を供えることで形代としたそうです。
そういば、原作ナウシカのクシャナ殿下も戦死した部下たちに
髪を手向けていたなあ、と思い出してしまいました。