龍神恋歌

                     序章 童神   その龍神役立たずにつき

始まりは、暑い夏の盛りであった。

その日は快晴で、中天からやや西に傾いた日の光を受け、琥珀川の川面が乱反射して

目を開けていられないくらい ぎらぎらと輝いていた。

突然の、女の叫び声と、バシャバシャとした水しぶきに、気だるい筈の昼下がりの空気が

緊張に満ちる。

 

「みこと、琥珀主の命、なぜ贄(にえ)を受け取られなかったのですか。あなたの眷属(けんぞく)が、

あなたのために必死で探してきた贄でしたのに。」

宙有から 母の腕に抱かれて泣いている幼子を 見つめている白い龍の背後から、

呆れ混じりの詰問が聞こえてきた。

しばらくの間、幼子から目を離さず沈黙を守っていた龍は ふっと体の力を抜いた。

「私の命数はすでに尽きています。このまま、我が依り代たる琥珀川が消えていくのなら、私もともに

運命を享受するべきなのです。古峰殿。いまさら、人の子一人の魂を贄としたところで、どうなるもの

でもありますまい。」

静かな微笑みを湛えているような声で、年若の龍神は背後を振り返り、

大天狗である古峰山の主に答えた。天狗は、さらに言い募(つの)る。

「しかし、今時 あれだけの輝きを放っている魂を見つけてくるのは、容易ではなかったはず。命の

潔さは、下についているものに、苦悩を与えるだけではないのですか。あなたが、見捨てたら、あれ

らは どこに行けばよいというのです。」

古峰主は川の中から 憧憬を込めて龍神を見つめている水生の化生たちを見下ろしながら、

ため息をついた。

視線を戻すと すでに童身に転変した龍神は 思わずといった様子でおかしそうに顔を綻ばし、

「そのときは、あなた様に引き取っていただかねば。古峰殿は山の主とはいえ、水難からの守護も

司られているのでしょう。たしか、大きな古池もお持ちのはず。あなた様のように優しい方の眷属に

なれれば、あれらも嬉しいのではないですか。」

冗談か本気か迷うような表情で おっとりと答えた。

天狗は、隠し切れない苛立ちを見せながら 眉を寄せ 少しだけ声を荒げた。

「何気に残酷なことを言われる。たとえ、それしか道が無くても 

龍神から格下の天狗の元に行くなど、承知するわけがありますまい。

あれらはみな、あなたと命運をともにするつもりでいます。だから、せめて

あなた様の霊力を高めて新たな依り代を探していただこうと必死だったのではないですか。」

童神は、つと表情を消すと 頭をさげて、天狗の視線から目を隠した。

「名を戴く依り代を守れないような龍神に、何の価値があろうか。」

独り言のように呟くと、そのまま 古峰の主に向かって黙礼し、ふっとその姿をけした。

同時に川面を埋め尽くしていた彼の眷属たちも、一陣の風とともに、一斉に姿を消す。

夏の名残の強い風が さぁーっと水面に吹き渡り、光を瞬かせた。

その風に押されるように、

『えっく、うう、白い、大きな、ひっく、お魚さんが、うっうっ、助けてくれ、たの、ひっく・・・』

しゃくりあげながら、訴える幼子の声がだんだん遠ざかっていった。

川面に反射する陽光と見間違えそうなほど 輝きを放っている魂の残り香を

視線だけで追いながら、古峰の主は 頭を一つ振る。

「まだ力が解放されぬとはいえ、あなたはただの龍神ではない。

このまま依り代とともに 眠る事などできようはずがないものを。」

物分りの悪い若者に、言い聞かせるように独り言を言うと、

自分の社とは、異なる方角へ、飛び立っていった。

 

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