序章童神

その日から、幾日経った事であろうか。

まるで、時の流れなど及ばないかのような 何の動きも無かった空間に ふっと

空気の流れが起こった。いずこからか、幻のように 微かなざわめきが 厚く透明な空気を突き抜けて

聞こえてくる。しかし、御簾で隔てられ その存在を消したかのような この宮の主は

何の反応も見せなかった。

「琥珀様、東の竜宮よりお使いが参りました。いかがいたしましょう。」

沈んでいる主を気遣うように、音も立てずに膝をついた真鯉の化生(けしょう)が 

御簾越しに 密やかに声を掛けた。が、御簾の中からは、何の反応も無い。

「・・・琥珀様。」

しばらく待って、もう一度申し訳なさそうに声をかけると、やっと ため息とともに 低い声で返事があった。

「聞こえているよ。竜王様の御使者に粗相のないように、おもてなしを。女官をこちらへ

よこしなさい。支度が出来たら声をかけるから、瀬の間にお通しするように。」

「かしこまりました。」

真鯉の化生は 数日ぶりに聞こえた主の声に嬉しそうに答えると、きた時とはうって変わり

足取りも軽く下がっていった。

入れ違いに数人の侍女が いそいそと御簾の中に入り、大儀そうな主の気を引き立てるように

着替えを手伝い始めた。なにしろ、まだまだ童形の主である。かまいたくて仕方がなかった女官達は

姿を見せなかった日の分まで あれこれ世話を焼きたがり、琥珀は辟易(へきえき)としながらも じっと我慢して

言いなりになっていた。

 

瀬の間と呼ばれる琥珀川の小さな滝壷にある部屋は、かつて その先で深さと幅を急激に狭め、

荒々しい瀬につながっていたことから名付けられた。

ここは、琥珀川の上流部というより、もはや中流域といったほうがよいような場所で、

近くに、人間の地方都市が控え かつてあった森や その周辺の田園風景は、その

面影さえも残していない。

それほど長くはない琥珀川の中で一番美しかったこの場所は、琥珀がこの河に降臨してきた時からの

お気に入りの場所で、宮を作る時にも あまりに人里に近いと渋る周囲を押し切るようにして、

その住いと定めた場所であった。

神の住まう聖域として 人間に見付からないように結界がはってあるため、

未だに、人の気配を感じる事がなく、また、そのため 自然のままの美しさが

保たれている場所なのである。

最も、最近は 上流から流れてきたゴミや汚水を完全に取り除くために、昼夜分かたず

琥珀の眷属達が働かなくてはならなかったが。

支度ができたこの河の若い主は 過ぎ去った過去を懐かしんでいるかのように

目を瞑ったまま 脇息に寄りかかる。

しばらくすると、来客の先触れがあった。琥珀は ゆっくりと身を起こし、竜宮の使いを待った。

 

「竜泉殿。あなただったのですか。」

女官に案内されて入ってきた使者をみて、琥珀主は驚いたように声をあげた。

「うむ、久しいな。御主がこの川に降臨して以来、一度も竜宮に顔を出さない恨み言を

言いに来たのだ。」

竜泉と呼ばれた使者はいたずらっぽい笑顔で、返事をすると、琥珀のすぐ横に

ふわりとした動作で腰をおろした。

年のころは、人間で言うと20代も後半であろうか。武人らしく、甲冑に身を固め 脇に美しい

装飾を施された鞘に入った 幅広の剣を下げている。堂々たる美丈夫といってよい、まさに

男が理想とするような そんな人物である。目鼻立ちも美しく整っているが 甘さがどこにも

感じられないのは、この使者が 常に戦いの中に身を置いているかのような 緊張した空気を

纏(まと)っているせいかも知れない。

竜泉は 口角を上げ、上機嫌なふうを見せながら続ける。

「驚いた。美しい場所ではないか。とても命数が尽きた川とは思えないよ。これだけ美しく

保つには、いくら結界がはってあるからとはいえ、相当無理をしているだろう。そなたの

執着ぶりが伺えるよ。」

顔は笑っているが、誉めているとは言いがたい内容をさらりと口にすると、琥珀は どこか

嬉しげな声で答えた。

「相変わらずですね。竜王様にも いつもそのような皮肉をおっしゃっているのでしょう。

けんかが絶えなくて困ると、サーガ様からお便りをいただいたことがありますよ。」

普段の主からは 想像もつかないほど打ち解けた話し方に、控えていた侍女達は 驚いた

ように 目を見張っていたが、使者の合図に気付くと静かに下がっていった。

それを追っていた視線を琥珀に戻し、竜泉は僅かに 姿勢を正した。

「はは、兄上は気が短いゆえ、からかいがいが有ってね。ついたきつけてしまうのだ。

お主もよく知っているはずだろうが。もっとも、200年も会っていないと 忘れてしまったか?」

竜泉は、そう言うと 笑顔を消して、切り込むように続けた。

「戯言(ざれごと)は置いておくとして、さっそく本題に入ろう。わたしがなぜ来たのか、分かっているであろう。」

琥珀は、竜泉の鋭い視線を受けることなく、さりげなくそらすと ため息をついた。竜泉の傍らに置いてある

剣に視線を注ぎながら 冷静に答える。

「はい、ですが、私の答えは変わりません。どうぞ、このまま静かに使命を果たす事を

お許しください。」

少しの沈黙のあと、竜泉は まだ子どもから少年へ変わる時期のような そんな中途半端な年頃の

かつての 養い子の肩を掴み、顔をこちらに向けさせた。

「贄を受け取らなかったそうだな。」

「古峰殿ですか?」

苦笑したかのような わずかな笑みが、声に現れる。

「本当に優しいかただ。ですが、いまさらあのような幼子の命を力に変じたとて定めは

代えられません。みなも、本当にはわかっている事だったのです。」

まだ、力に目覚めることなく それゆえ 真の自分を 知らないというのに どういうわけか

以前から 大成しているかのような雰囲気を纏(まと)っていた若竜は まるで、竜泉に

言い聞かせるかのように答えた。

運命を受け入れ、覚悟を定めたこの若者の心を動かすには、なまじっかな提案では、

ダメだということは 来る前からわかってはいたが、あまりの頑なさに 呆れを通り越して

怒りを覚えるのも また、仕方が無い事。兄の竜王以上に、短気の自覚がある竜泉は

目の前の幼く それでいて端麗な造形を持つ顔を 殴りつけてやりたい思いに駆られた。

怒気をのがすため、深く呼吸をし、意識して落ち着いた声をだす。

今更、‘なまじっかな’提案などして、甘やかしてやるつもりもない。

「一つ提案がある。いや、最後まで聞け。宮に帰り、竜玉石(りゅうぎょくせき)の眠りにつけ、というのは

もう諦めた。お主が有るがままにいたいという 気持ちも分からないでもない。与えられた

役目を途中で放棄するお主でも あるまいからな。しかし、このまま消滅し、宙無の眠りに

つくことも、我らとしては、許せる事ではないのだ。それも分かって欲しい。」

竜泉の真摯(しんし)な思いは、琥珀の胸を打ち、自分の頑なさを 少しだけ申し訳なく思う。

「提案とは?」

竜泉は、躊躇(ためら)ったように聞いてくる琥珀に わざと冷たい口調で答えを与えた。一言一言を

強調するかのように、ゆっくりと言う。

「神籍を返上し、ただの龍になって世を渡り、使命を無くして、自由に生きてみろ。神でも

ない龍は、時に霊能力の高い人間に使役され、風神雷神の眷属に成り下がる事もある。

力に目覚めていないそなたに与えられていた、神通力も大半は失われ、この世界での

実体化も難しくなるだろう。もっとも、狭間(はざま)の向こうではまた、異なるがな。」

思ってもみなかった提案をされ、しばらく呆然としていた琥珀は、かすれた声で問うた。

「なぜ、ですか。」

神としての使命を果たすことなく、守護すべき川を失おうとしている琥珀にとって、神として

失格だと言わんばかりの提案は、ある意味、消失せよと命じられるより過酷に聞こえた。

しかし、琥珀はまた、竜泉という神を知っている。

が、その意味するところを察する事ができるほど、琥珀は余裕がなかった。

自分では、あきらめ落ち着いた静寂の中にいるつもりであったが、実際にはそのような

悟り澄ました心境にはほど遠かった、というところであろうか。

竜泉は 出来の悪い弟子を諭すかのように続ける。

「お主はな、結局 清らかに過ぎたのだ。生きるということは、綺麗事ではすまないということを

真には理解していないまま、ここまできて、そして消えていこうとしている。そんなことは、

許せるか。お主が守護してきた川の命たちは、清だけでなく、濁に揉まれ、それでも生きたい

と、もがいているのだ。お主が贄をとり、もがいて、もがいて、それでもダメだったときは、望み

どおり宙無の眠りにつかせてやってもいいかとも、思っていたのだがな。

よいか。神としての力を無くし、生きることの闇を見よ。汚濁にまみえることの、真の意味を

理解してみろ。一つ間違えれば、闇の眷属に成り下がり、祟り神として忌み嫌われるような

存在になるやもしれん。そのときは、俺自らこの剣を使って 宙無の眠りにつけてやろう。だが、また

己を知り 真の力に目覚め、神として蘇る事ができるやもしれぬ。

お主がどうなるか 誰にも分からん。

それが、いやなら、清らかなままで宮に帰り、龍玉石の眠りにつくことだ。どちらを選ぶも

お前の自由だ。3日の猶予をやる。俺が帰るまでに、心をさだめておけ。」

竜泉の言葉が 頭にこだまし 呆然としたまま 固まっている琥珀を そのままに

竜泉は、言いたい事を言いおわると あとは自分で考えろとばかりに 席を立った。

部屋から出て行く竜泉を 呆然と見送った後、琥珀は しばらく、夕闇近い僅かな光の中に

ぽつんと一人で座っていた。

しばらくして、我に返ると 女官に竜泉の世話を言いつけ 琥珀は一人、

闇の中を 琥珀川の川辺沿いに歩いた。

結界を越えると、すぐに 川を削り、埋め立てるための機械が 其処彼処(そこかしこ)に放置されているのが

目に付いた。

抉(えぐ)られ、泥に塗(まみ)れて 命を落とした 川の生き物の亡骸が散らばる、死の川。

琥珀の 潤んだ瞳に 命の煌(またた)きが 天に上っていく様が 映る。

汚辱に塗れ、取り返しのつかない穢れに塗れた水に、生き物が住めないように、

清らか過ぎる水もまた、命を育むことは出来ないものだ。

‘お主は清らかに過ぎたのだ。’

では、この状況を作ったのは、私だったのか?琥珀は、自らの内面を覗くように考える。

『わたしは、何のためにここに居たのか。昔を懐かしみ、取り返しのつかない定めを

受け入れるふりをしながら、その実、何の役にも立たない 愚か者であることから 目を

逸らしていたに過ぎなかった。共に逝こうとすることしかできないと、潔さの衣に傲慢な自我

を包んでごまかしていた卑怯者、それが、私の正体なのではないか。』

ふと、古峰の主の言葉が思い出された。

‘命の潔さは、下についているものに苦悩を与えるだけではないですか。’

‘あれらはみな、あなたと命運を共にするつもりでいます。’

「わたしが、単なる精霊になってまで生き延びようとあがく事は、あれらに命を与える事

になるのであろうか。」

自分の気持ちを 確かめるように言ってみる。

『わたしの‘潔さ’とやらが、目の前の命を奪い、死の川にしてしまったように。』

『いや、まだわたしは、おためごかしをするつもりのようだ。正直に言えばいい。

生きたいのだと。守護すべきものたちを見捨ててまで、自由に飛んで行きたいのだと。』

琥珀は、首をふる。

「私は愚か者だな。最後にならないと、自分の本心がわからない・・・」

・・・本来、河を預かる資格があったのやら。

ふと、つき物が落ちたような、肩の力が抜けたような、おかしな気持ちだ。

『これが、開き直りと言うものか。』

琥珀は、存外さっぱりとした表情で、結界内に戻ると、その足で竜泉の元に赴(おもむ)き

神籍の返上を申し出たのである。

 

「やれやれ、開き直ったとたん本性を現したようだ。」

おかしさ半分、怒り半分と言った表情で、空を駆けて行く白い龍を見送る竜泉の後から、

「命は、旅立たれたようですね。」

何時の間に来たのか、古峰の主が声をかけた。竜泉は 嬉しげな気持ちを隠すように

肩を竦めて見せた。

「ふん、あやつめ。自分は見届ける資格もないからといって、後始末をすべて俺に

押し付けて行きおった。まあ、やつを崑崙(こんろん)からの大切な預りものだといって、純粋培養

してしまった責任は 我らにもあるからな。河に降臨して二百年過ぎても、ガキのままで、

困ったやつだ。」

古峰の主は、相変わらず諧謔(かいぎゃく)を好む竜泉に 好意的な眼差しを送る。

そして、その視線を 空に向け、ぽつりと尋ねた。

「どちらにいかれるのでしょうか。」

「さあな。何(いず)れにしろ、生きてさえいればいつかは会えるだろうさ。どういう形にしてもな。

さて、古峰殿にもご苦労いただかなくては。」

どんな事があっても、琥珀のことを見捨てる事だけは 決してしないであろう竜王の弟は、

養い子の後始末をつけるべく、古峰の主に請(こ)うた。

「はい、何れ命がお戻りになるときまで、眷属の諸士はお預りいたしましょう。」

その言葉に頷き返すと、山の神と海の神は

若い白龍が去って行った彼方を見つめ、無言の声援を送った。

 

 

 

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