龍神シリーズ番外

注意以下、一部設定を波津あきこさんの「鏡花夢幻」(白泉社文庫)のなかに掲載されている海神別荘(原作泉鏡花)よりお借りしています。

竜泉夜話

玉座の間を辞してきた竜泉は、どこか いらいらした様子でまっすぐ自分の宮に 向かった。

竜宮の東翼の一角を占める 竜泉の居宮は、一応 王弟殿下の宮の体裁が整えられ、

小さいが独立した棟を頂いている。

以前、営んでいた泉宮と呼ばれていた宮と比べると その規模は半分にも満たないが、

妃を持たない自分には、特に不満などありようはずも無い。

無いのだが その宮を開き、そして閉めるきっかけとなった女を 思い出させられ、

竜泉は不機嫌であった。

回廊を渡り、東翼に入る。

すでに、竜泉の帰宅を聞き及んでいたのか 王妃の意を受けて竜泉に仕える 

女官たちが並んで出迎えた。

「おかえりなさいませ。」

竜泉が通るたびに、挨拶をし頭を下げる女官たちは、よく躾られ竜泉が快適に過ごせるように

心を砕いている。それもこれも、竜宮の女主人たる王妃の心配りなのだ。 

ふと、先ほどホールで竜泉を出迎えた王妃の顔が頭をよぎった。

竜泉は 頭を振り、自分の居室に入ると 身につけていた護衛官の装束を解き、

先ほどの兄王をまねして どかっと椅子に腰をおろすと 卓の上に足を乗せる。

疲れたかのような長いため息を聞きつけて、側仕えの一人が声を掛けた。

「殿下、お疲れでございますか?ご酒をお持ちいたしましょう。」

「いや、よい。それよりも。」

最後まで言わずに その女官の腕を掴み 寝室まで性急に引っ張っていくと

褥に放り投げた。

まるで 鬱憤を晴らすような 荒々しい求めに それでも素直に応じた女官は

蹂躙されるがごとき、龍神の激しい閨に 我を忘れ嬌声をあげる。

ほとんどの女官は、お手つきの上、竜泉の気紛れな要求に慣れているので、

特別な寵愛を戴いたと、奢りもしない代わりに、こうして、時たま勤める事になる

閨の相手を、心底楽しんでくる。

竜泉にとっても気軽で都合の良い女達との関係が、こんな状態で もう300年ほど続いていた。

女の体を貪り尽くし、その身を解くと 竜泉は上体を起こして 傍らにあるお盆ほどの大きさの

美しい装飾が施されている小卓に 視線をやった。

そこに置かれている透明に輝く飾り物に向かって伸ばしかけた手を 思い直したように握ると、

ぐったりしている女官に低い声で 

「去ね。」と声を掛けた。女が、体を起こすと 竜泉はそのまま、再び褥に体を横たえた。

『本当に、あのときの俺はどうかしていたのだ。』

女が去った後、寝台の天蓋をぼんやりと見ながら、思い返す。

 

「かしこみ、恐み、物申し奉らん。我、この、ひろき天津元 海原を支配したもう全き龍神 

海神の大御神を崇め、奉らん。何卒、吾が願いお聞き届けたまえ。

我に、財を与えたまえ。富を与え給え。この日の本に一つとせしほどの富を与え給え。

この願いお聞き届け給えば、吾が娘、贄に差し上げ奉らん。

何卒 我が願い 渾身より申しあげ奉らわば お聞き届けたまえ。」

普段なら、このような人間の祝詞に耳を貸す事などしない王弟が、

なんの、気紛れか、耳を止めた。

つい先ほど、王に歯向かって来た海闇の眷属どもを、深い海底(おぞこ)に押しやり、

当分は再起不能にしてやった、戦勝の高揚が 残っていたためかもしれない。

祝いの宴の余韻が、自邸の宮にも及んでいて 周囲に侍る眷属達もどこか浮かれ、

主の許しの元、無礼講に近い大騒ぎをしていたのだ。

上機嫌の主は それでもどこか冷静さを保ってはいたが 顔色を読んだ、眷属の一人が、

水鏡をさしだすと、その上にぼんやりと影のように男の様子が、映し出された。

映像が次第に、はっきりしてくるにつれ、周りの景色も映し出されていく。

 

海岸の荒々しい岩肌に空いた、洞窟に篭り、一人の男が一心不乱に祈祷している。

見ると、祭壇に荒縄に縛られ、気を失っているかのように、目を閉じた

白装束の女が寝かせられていた。

雪の肌に、漆黒の髪、その造形は作られたかのように人形めいて、確かに美しい娘であった。

竜泉は、目を細め 首を僅かに傾げると 水鏡に人差し指を当てて気を送った。

と、娘の目蓋が すっと開く。まるでこちらが見えているかのように 

その視線がまっすぐ竜泉に向けられた。黒く濡れた、まるで黒瑪瑙のごとき その瞳。

しばらくの沈黙の後、

「よかろう、その願い聞き届けよう。」

皮肉げな笑みと共に、竜泉の言霊が発せられた。

 

その月、その男の住む、小さな海辺の村は大災害に襲われた。

突然の大津波が押し寄せ、家も人も田畑も押し流していく中、

この男の家には、波に乗せて、金、銀、珊瑚、玉をはじめ、

鯛や、鰹といった高級魚、昆布、わかめなどの海産物、

はては、難破した南蛮との貿易船につまれていたと思しき、

壷やら貴重な書物やら、箱に入れられ密閉されたままの絹織物やらが、

流れ着き、一躍、その辺りいったいで一番の物持ちとなった。

狂喜乱舞の男は、しかし、その後すぐには誓約を守らなかった。

人間とは、得てしてそのようなものである。

その娘を妻に迎え入れるつもりの王弟は、泉宮を築き、仕える女官や家司を配して、

一家を構えて待ち受けていたが、一向に、娘を差し出そうとしない男に焦れ、

夜な夜な使いを遣わしつづけた。

恐れおののく男に、しまいに、使いが娘を差し出す気が無いのなら、

財を返せと言うと、ようやく、男は娘を海によこした。

年のころは二十歳。一番美しく咲き誇る 花の盛りを 海に散らすのかと

嘆き悲しむ男親は しかし、それでも その財を海に帰そうとはしなかったのである。

花嫁支度をさせられ、小船に乗せられて、泣く泣く海に流された娘は、

命が無いものと思う諦めに反して、乗っている舟が沈んだかと 恐怖に慄く間も無く

すぐに 迎え入れられた宮の煌びやかさに 呆然としていたものだ。

竜王の弟殿下に望まれた娘。

最初こそ、夫になった絶対権力者たる 竜泉を 恐れている様子を見せていた娘も、

その優しさと 妃殿下として崇め奉られる境遇に 次第に馴染み 時に 心から王弟を

愛するようなふうを 見せるようになった。

そして、無理やり娶り、その意思など 考えてもいなかった竜泉は 娘のそんな態度に

心和らぐことも 多くなっていった。

こうして 竜泉は自ら望み 手に入れた 従順で美しい娘との生活に満足していたのだ。

50年ほどは。

それに、気付いたのは何時であったろうか。

身を飾る絹や宝石、殿下の妃としての処遇に呆然としていた娘は 海で過ごす時間が

過ぎるごとに 次第に、傲慢になり、もっと美しいもの、もっと珍奇なものをと、

際限なく、求めるようになった。

竜泉を夫とし、愛されている事に慢心したのか 仕えるものたちに尊大な態度をとり、

時に目に余るほど高飛車に出るようになった。

わがままが過ぎる時には さすがに竜泉もたしなめたが 黒瑪瑙の瞳で見つめられ

その体を寄せて 妖艶に微笑む娘に、許してしまう事も多かった。

しかし、これだけは・・・

娘は、海の中で過ごす時間が、それまで人間の世界で生きてきた時より

長くなったにもかかわらず、海の世界に一向に慣れようとしなかった。

眷属達の鰓やら、鱗やらが あらわれる 転変した姿を厭い 近寄る事を許さなかった。

どんなに美しい、枝珊瑚の花を見ても、必ず地上に咲く花々と比べ 

海蛍の幻想的は光にさえ 時に 鬱陶しいという気持ちを隠さなくなった。

地上の花や光 そして故郷を恋しがり、夫に強請って、水鏡に見入る時間が長くなっていった。

そんな娘に ふと眉をひそめることも多くなったが、いずれは慣れよう と

気長に待つつもりで 竜泉も大目に見ていた。

抱き寄せれば従順で、その意のままに従う娘の姿に 疑う心など持ちようがなかったのだから。

・・・竜泉も 若かったと 言うべきか。

そんな竜泉の心を知ってか知らずか ついに、娘は夫に対し、

一度で良いから地上に返してくれるように 懇願しだしたのだ。

泣きながら、何度も親の墓に詣でたいという娘に絆され、

ようよう 一度だけと言う約束で地上に返してやった 竜泉に

しかし、娘は、もう戻らないと 言い出したのである。

海にあったのは、親のため。

その親も もう亡くなったからには もはや、言いなりにはならない と。

海に戻るくらいなら、ここで死ぬと。

 

娘は、龍の逆鱗にふれた。

 

その身は、今、水晶の玉に封じられている。

王弟の宮の何処かで、鎖に繋がれ、魂ごと絡み取られ、意識だけは、そのままに、

身動きが取れないように、体を固く戒められて、

美しく、珍奇な飾り物として、罰を受けている。

妃としての処遇はしても、神人となしたわけではないので、

その身を、玉ごと砕いてしまえば、その魂は輪廻の輪に戻っていくだろう。

しかし、龍の傲慢さは、一度手にしたものを、逃してやるほど甘くは無い。

注がれた愛を、返す事を知らなかった娘は、夫たる龍が生きている限り 罰を受けつづけるのだ。

 

しかし、

妃ではない

気にかける価値も無い

と、いいながら、その玉を手放さず持ち続ける龍と、

いったい、どちらが罰を受けていると言えるのであろうか。

竜泉は、決して認めはしないだろうが、

一目で気を惹かれ、神力をみせつけて、強引に娶った娘は、

彼の元にたどり着く前に、親の仕打ちに心を凍らせ、

財と引き換えられた衝撃で、すでに壊れた器であったのである。

そして、壊れた器に注がれた愛は、

決して満たされる事が無かったのだ。

 

『本当に、あのときの俺はどうかしていたのだ。』

女官との戯れを見せ付けるかのように、寝台のすぐ左にある小卓の上に置かれた、

水晶を見やる。

かつての娘の姿そのままに、その気になれば、いつ床に叩きつけて壊してしまってもいいように

大きさだけは手の内に抱えられるくらいに 代えられて。

しかし、どういうわけか 竜泉の寝室には 踝が埋まるほどの柔らかさと厚さがある敷物が

敷き詰められているのだ。

手を伸ばし、娘の透明な瞳に指を遊ばせながら、

黒瑪瑙の濡れた瞳と視線を見交わしたあの一瞬に思いを馳せる。

「そなたなどに、目を留めねば良かったのだ。」

しかし、竜泉の呟きに含まれる嘆きと後悔は、

水晶の娘の耳にはとどかなかったのである。

 

 

龍泉夜話 完

 

前へ   目次へ