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鮎川哲也《三番館》シリーズ全作品レヴュー
コンプリート目指して作業中。なお、作業の都合上、発表順ではなく出版芸術社版『三番館の全事件』収録順に並べてあります。
1〜5、鮎川哲也『太鼓叩きはなぜ笑う』(創元推理文庫/東京創元社) [bk1/amazon]に収録。
1〜9、鮎川哲也『竜王氏の不吉な旅 三番館の全事件I』(出版芸術社) [bk1/amazon]に収録。
10〜22、鮎川哲也『マーキュリーの靴 三番館の全事件II』(出版芸術社) [bk1/amazon]に収録。
23〜36、鮎川哲也『クライン氏の肖像 三番館の全事件III』(出版芸術社) [bk1/amazon]に収録。
1, 春の驟雨
驟雨を避けるために入ったデパートのエレベーターで、須藤正樹は同乗した女にスカートを切ったと言いがかりをつけられた。旧友に腐すつもりで急遽鎌倉を訪れ、空振りして帰ってきた彼の前に翌日突き付けられたのは、くだんの女が殺害されたという報道と、その殺人容疑が正樹の上に降りかかったという事実であった。彼のアリバイを証明する、屋根を青く塗っていた人物を捜すために、弁護士は懇意の私立探偵である「わたし」を動かした。
シリーズ第一作。改稿癖甚だしい鮎川氏の諸作でも、季節が「冬」から「春」に書き換えられたという珍しい経緯を持つ極端な一篇でもあるらしい。のちにこの私立探偵氏と三番館のバーテン氏のシリーズが書き継がれるにあたって、かなり細かな修正が施されているようだ。
私立探偵氏の洒脱というよりは些か品のない軽快さを具えたキャラクターはじめ、レギュラーキャラクターの個性はほぼ確立されているが、ミステリとしての雰囲気はその後のシリーズ作品よりも鬼貫警部らの活躍した事件に近い。安楽椅子探偵とはいうが、バーテン氏の示唆を経て私立探偵がこまめに動き、終盤では弁護士と共に犯人の元に乗り込んでいるあたりもストレートな「鮎川作品」の風情がある。
鮎川氏の諸作の愛読者にしてみると、本編の軸となる絡繰りはかなり見え透いているのだが、その落としも含めて定番のガジェットの扱い方はやはり巨匠ならではの巧みさがある。2, 新ファントム・レディ
細君公認のプレイボーイとして名を馳せる増田謙介は、真木剛三という名の探偵の訪問を受けた。探偵は増田がある女にしたためた六通のラヴレターを以て彼から金をせしめようとしたが、増田は意にも介さない。だが、その真木が殺害され、彼の机の中から増田が書いた恋文が発見されたとあってはそうも言っていられなかった。真木の死亡推定時刻、増田が行きずりのアバンチュールを楽しんでいた相手の女性だけが頼りなのだが……例によって弁護士の依頼を受けた私立探偵の「わたし」は、幻の女を捜し求めて奔走する。
題名のみならず作中でも示唆しているとおり、ウィリアム・アイリッシュの名作『幻の女』を下敷きにしたと思われる作品。トリックについては個人的にどうかと思われる問題点がある(仕掛けの出来云々ではなく以下伏せ字→メイントリックの方法論が「春の驟雨」と基本的に同じなのだ←ここまで伏せ字)が、その発覚の過程が凝っているのであまり気にならない。私立探偵氏のおっちょこちょいぶりがじわじわと発揮されつつある一篇だが、出色なのはバーテン氏の少々度が過ぎた茶目っ気ではなかろうか。他の鮎川作品ではお目にかかれないお遊びが混ざっている。3, 竜王氏の不吉な旅
山辺退介の屍体が、彼の勤務先であるスーパーの食肉保管用冷蔵庫で発見された。殺害の嫌疑がかけられたのは、万引の疑いをかけられ、それを盾に彼から脅迫されていた蛭沢美沙子。美沙子の夫の依頼を受け、真犯人を捜しはじめた「わたし」は、いっとき容疑をかけられていた作詞家竜王得三郎のアリバイを調べる。話に拠れば竜王は事件当日、不吉な地名を巡る旅に出ていたというのだが……
長篇化の構想があったために従来の《三番館》シリーズ単行本からは外されていたが、結局果たされずに鮎川氏が物故されたことを受け、初めて収録された。他のアンソロジーなどで入手は容易だったそうだが、それでも喜ばしいのに違いはない。――同時に、本編を下敷きにした《三番館》シリーズ初の長篇が永遠に読めなくなったのが残念でもあるが。
先行二作と較べて枚数が抑えられたせいか、若干タッチに相違が窺える。直接事件に関わりのない人々の視点からまず語られるあたりから、珍しく弁護士ではなく依頼人自らが私立探偵氏の元に赴き、最後には警察と共に詰めにあたる場面まで、捻りを加えようとしているあたりに、鮎川氏のこのシリーズキャラクターに対する愛着が見え隠れしているように思う。
物語最大の驚きを演出するあるトリックについては、ちょっと簡単に考えすぎてはいないか、という危惧を抱いたが、それも含めてある意味の「大胆さ」が魅力の好編である。4, 白い手黒い手
楽器販売店のエリート営業部員であり、幹部の令嬢との婚約相手候補にも名前が挙げられている一寸木(ちよぎ)秀夫は、佐藤夫人と名乗る女性からの電話を受けてはるばる鎌倉まで商談に出向いた。だが、探し求める佐藤氏の住居は発見できず、エリートらしからぬ失態に悶々としていた彼に数日後、更なる悲劇が追い打ちをかける。杉田緋紗子という人妻の死に、一寸木が関わっているという疑いをかけられたのだ。「わたし」は他の婿候補のいずれかに真犯人がいると睨んで調査を開始するが……
この辺になると、三番館のバーテン氏のみならず、私立探偵氏と弁護士の会話にも脂が乗ってきて、実に安定した読み心地が得られるようになる。謎の所在にも決着の付け方にもかなり特異な手触りがあるのも、シリーズとして形が固まってきたからこそ出来る技であろう。個人的には、鮎川氏の他のシリーズでは決して描かれないだろう、探偵役のかなり極端な行動に驚かされた一篇。5, 太鼓叩きはなぜ笑う
流行作家の波岡悠一は、彼の不倫を嗅ぎつけた私立探偵の財部太郎に脅迫された。相手を庇うために強請に応じた波岡だったが、魔手が愛人に及ぶに至って殺意すら覚えるようになる。だが、実際に手をかける前に財部は何者かによって殺され、波岡が嫌疑を受ける。「わたし」は財部による脅迫の被害者のうちに犯人がいると睨んで調査にあたるが、堅牢なアリバイに行く手を阻まれる。
こちらもまた、鮎川作品としては一風変わった切り口が印象的な一本。だんだん羽目の外し方が激しくなっていく私立探偵氏のキャラクターに読んでいるこちらもだんだん愛着が湧いてくるが、何よりも意外なのはその顛末である。タイトルがなんとも憎い。6, 中国屏風
私立探偵の「わたし」が弁護士に依頼されたのは、プロデューサーの東山を脅迫した元芸能プロダクション経営者の櫟原の元から、強請のネタとなったカセットテープを奪還すること。深夜秘かに櫟原の家を訪れた「わたし」がそこで発見したものは、灰皿の中で燃やされたカセットテープと、銃弾に撃ち抜かれた櫟原の死骸だった。殺人の謎は残るものの、脅迫者が消えたことで「わたし」はお役御免となるはずが、東山に嫌疑が掛かったことでふたたびお鉢が廻ってきてしまった。櫟原の捏造したカセットテープの犠牲者のうちに、犯人はいるはずなのだが……?
トリックの構成はある意味定番だが、展開がちょっと異例。法を犯してまでカセットテープを奪還しようとして、謎の人影を目撃し屍体まで発見してしまう探偵、そして一度事件との縁が切れたかと思えばふたたび召喚されるというくだりはまさに鮎川流の私立探偵小説という雰囲気がある。7, 割れた電球
梅岡しな子が借金の利息を払いに行くと、高利貸しの桐山吾平は既に殺されていた。死亡推定時刻にアリバイのないしな子が第一容疑者となり、早速「わたし」にお声がかかった。しな子同様に桐山に搾取されていた、盲目の琴の教師と売れない翻訳家、いずれかの犯行であることは間違いないはずなのだが、例によってそれぞれにアリバイがある。「わたし」は美しき容疑者を救い出すことが出来るのだろうか?
この辺から私立探偵氏の早とちりぶりが発揮されはじめており、バーテン氏の言葉を途中で遮って飛び出しては恥をかくパターンが増える。この笑劇めいた雰囲気も、他のシリーズ探偵ではあまり味わえない。解決手段がこの上なく乱暴な点で好き嫌いが分かれそうだが。8, 菊香る
その女は電話越しに、夜六時から十二時までの六時間、ある男の素行を調査して欲しいという依頼をしてきた。実入りのいい仕事と思って引き受けたが、尾行の対象となった三田尻という男はキャバレーにこそ入るものの特に変わった行動はない。だが、伊豆のリゾートマンションで目黒兼助という挿絵画家が殺された事件の関係者として三田尻の名前が浮上して、「わたし」は驚愕するのだった……
実は非常に複雑な捻りのある作品。そのため、人によって効果的であったりなかったりするように思われる。9, 屍衣を着たドンホァン
女性遍歴を綴った手記で人気を博した作家・立花修一郎が殺害された。目下のお相手であった峰小路トモ子の容疑を晴らして欲しい、という依頼を受けて調査を始めた「わたし」だったが、どうにも不利な証拠ばかりが集まる……
短篇とは思えぬほどアリバイの構築と破壊が繰り返されるのがここまでのシリーズの特色と言える。それが実は、比較的解りやすい勘所から私立探偵氏、ひいては読者の目を逸らす策略となっているわけだが、同傾向の動機やトリックが多用されるのはちょっと辛い。10, 走れ俊平
ミチルは女ながらにマージャン狂として鳴らし、週末ごとに社内のマージャン仲間と精根尽きるまで卓を囲む暮らしを満喫していた。だがそんな平和な日々は、仲間のひとりである小村哲之介が交通事故を起こしたことで突如終わりを告げる。保険に入っていなかった彼は被害者から多額の補償金と治療費を請求され、進退窮まってマージャン仲間たちのツケを巻きあげる形で補おうとしたのだ。ここ暫く勝負運に恵まれていた小村の要求額は、それぞれに対して一千万円――金満家であるひとりを除けば、おいそれと払える額ではない。案の定、間もなく小村は殺害され、支払を迫られていた仲間たちの中でただひとりアリバイのなかったミチルの容疑が濃厚になる。「わたし」は弁護士の依頼を受けて、気乗りがしないながらも調査を開始した……
タイトルも妙だが展開も独特。完璧に《三番館》シリーズのパターンが確立されたため、その枠の中で作者が遊び始めたと思しい。動機やスタイルは類型でも、推移があまりにコミカルなので殆ど気にならないのだ。
一風変わったエピソードだが論理展開は明快、着地も心地よい。あまりに綺麗なので犯人や仕掛けは早いうちに見抜ける可能性もあるが、それ故に本格推理の醍醐味が味わえる。11, 分身
藤井良子は同僚である林加奈子の言葉に驚いた。新宿にあるデパートで先日彼女を見かけたというのだが、良子は人違いだ、と否定する。それから四十日後、今度は中年の社員が池袋駅のフォームで良子に声をかけたというが、そっけなくあしらわれたという。新宿のロシア料理店で別の社員が目撃し、ついには近所の服飾店で高価な服を注文してその請求が良子の勤め先に来る、という事態にまで発展した。弁護士に借り出された「わたし」は嫌々調査を始める。良子の「分身」はいったい如何なる目的で行動しているのか?
《三番館》シリーズの幅が広がりを見せ始めた一篇。発端も変わっているが、従来殺人事件とその容疑者が確定してから私立探偵氏の登場、という推移を取っていたものが、本編ではやや早い段階で出番が来る。
事件の真相は結構簡単に察せられるはずだが、巧いのはその伏線の鏤め方である。余分なエピソードが極端に少ない。12, サムソンの犯罪
実力はあるが器用な作風が災いしていまいち知名度の上がらない作家・一村一に、一年間の雑誌連載という千載一遇の好機が訪れた。そんな彼と担当編集朝比奈の悩みの種は、一村の知名度の低さを問題にする編集次長の存在である。ふたりは一村の知名度を上げるために、一村の名を騙って詐欺を働く男を各地に暗躍させた。一村自らが各地で自分の偽物を装って食い逃げなどを行い、あとで自分の元に来た請求を気前よく払うことで話題を集め、世間の注目を引くというアイディアだった。だが、作品が何度か掲載されたのち、偽物工作から帰宅した一村に、青天の霹靂というべき報せが届く。くだんの編集次長が殺害され、その容疑が一村にかかっている、というのだ。
これが『分身』という作品のあとに来ているのが意味深である。作者なりに何か思うところがあったのかも知れない。
だが内容的には、捻りに捻って捻りすぎたせいで、やや散漫な印象を残してしまった作品と言える。仕掛けは悪くないと思うのだが、読者の注意を逸らそうとし過ぎて、出来事ひとつひとつの関連性が希薄になってしまったきらいがある。展開が楽しいだけに、その点がどうにも勿体ない。13, ブロンズの使者
文壇の登竜門と呼ばれるF賞に思いがけぬ奇禍が降りかかった。称賛を受けた松浦恒夫の受賞作『弧雁』は元々自分の作であった、と訴える人物が現れたのだ。宝泉寺宏という告発者は、問題の作の浄書を松浦に依頼したところ、勝手に賞に投じられてしまったのだと言う。F賞を主催する編集部の森は真相を確かめるために両者のいる九州へと飛ぶが、「盗作者が解った」という連絡を入れたのちに、森は他殺体となって発見されたのだった。「わたし」は盗作者と森殺害犯、ふたつの謎を解き明かす命を帯びて現地を訪れる。
色々と事件は起きるのだが、肝心の謎解きはひとつであり、周縁の謎については深く語らなれていない。潔しと取るか、物足りないと取るかで評価は変わるが、ミステリ部分よりも寧ろ編集部の右往左往や地方在住の文人たちのリアリティに溢れた描写が面白い、と感じた。14, 夜の冒険
「わたし」の元を訪れた女性の依頼は、夫・中森慎伍の素行を探ること。彼の懐に無造作に突っ込まれた五万円を発見したことから、妻は彼が幇間のような真似をしているのではないか、と疑っていた。「わたし」は早速、退社後の中森を尾行するが、彼の行動は実に謎めいていた。東京駅近くの書店で1時間ほど無為に潰したかと思うと、渋谷のパチンコ店で二千円ほどすって、それからレコード店でまた時間を潰し。だが、バーに入ったとき、中森は中で電話を受けた。だが、呼び出しは「浜野」と言ったようだが……?
視点の切り替えが肝となっている佳作。長年書いているといつかこういう立場も描いてみたくなるのだろう。設定の要請ではあろうが、東京の繁華街巡りのような展開になっており、場面場面で作品発表当時の渋谷・浅草などの情景が著者らしいタッチで描写されているのが楽しい。15, 百足
宝石店のセールスマン・水沢一郎は旧友で資産家の放蕩息子・加藤虎三の家を訪れた。パーティーを開いていた加藤に大事な商品を渡していたところ、その席上で騒ぎが起きる。誰かが床に作り物の百足を転がして、女性陣を脅かしたのだ。加藤は暖炉に捨てて処理するが、プラスチック製の百足は異臭を放ってまた大騒ぎとなる。だが、騒ぎがひと段落したあとで、加藤は表情を変えた。大枚をはたいて購入した猫目石が紛失している、と。数日後、その加藤が殺害されるに至って、私立探偵の「わたし」が謎解きに駆り出された。
この辺まで来ると、「わたし」が出馬する背景にも趣向が凝らされるようになって、シリーズを通して読む楽しさが増してくる。メイントリック自体は、実は別のエピソードでちらっと触れられたある絡繰りを応用したものなので、続けて読んでいると予測が出来てしまうだろう、が、本当のアイディアは別のところにある、というあたりが憎い。16, 相似の部屋
稀覯品の貝を蒐集することに血道を上げていた翻訳家の重岡勤が殺された。最近になって同じ趣味に目醒めた流行作家の中山毅の犯行ということでかたがつきかかったが、弁護士は彼が罠にかけられたのではないかと睨んで「わたし」に調査を依頼してきた。弁護士は、かつて重岡の差し出口がもとで中山に捨てられたというルポライター・桑山和子の計略の可能性を匂わせるが、彼女には堅牢なアリバイがある。弁護士はそれを覆してみせろ、というのだが……。
久々に真っ当すぎるほど真っ当なアリバイ崩しである。しかも非常に複雑な仕組みのため、私立探偵氏でなくても呑み込むのに時間がかかりそうだ。但し、論拠のひとつは恐らく今となっては通用しないと思われる――無論、それで価値が減じられることは有り得ないのだけれど。17, マーキュリーの靴
高層ビルの屋上にある自宅で、推理作家の今井とも江が屍体となって発見された。発見当時、前夜の午前一時まで降り続いた雪に残されていたのは、とも江の靴がつけた足跡が一筋だけ。アイディアの枯渇を苦にした自殺という結論で警察も世論も落ち着きつつあったが、死の半月前に契約した保険金は自殺では下りない。死の理由をほかに探し出せ、という弁護士の命令で「わたし」は捜査を開始する。
真っ当すぎるアリバイ崩しの次は実にストレートな密室ものである。今となってはストレートすぎてかなり早いうちに真相が見抜けるだろうが、注目していただきたいのは叙述の巧みさである。ある段階から三番館シリーズは叙述に凝らした趣向が読みどころのひとつとなっているが、本編はそのいちばんいい例のひとつではないかと思う。18, 塔の女
渋谷は道玄坂上に建つタワー東京。夜も更け客足も途絶えた頃、ひとりの人物が螺旋階段から頂上に登ったきり戻らなかった。代わりに残されていたのはボストンバッグと、タワーの麓に落ちていた着衣だけ。行方を眩ましたのは、一時期一世を風靡したトロム&ボーンズの女性ヴォーカリスト、バーバラ浅野。落ち目になった彼ら自らの売名行為の可能性が高いと警察は取り合わなかったが、納得のいかないマネージャーは弁護士に調査を依頼、例によって「わたし」にお鉢が廻ってきた。初っ端から《三番館》のバーテンの力を借りる腹積もりで、「わたし」は関係者にあたっていく……
『マーキュリーの靴』に続いてミステリの定番とも言える不可能犯罪を取り扱っている。ある一点に気づけば全体が突破できてしまうあたりは「軽い」が、ミステリとして殆ど無駄がないのは流石。19, X・X
塗料会社に勤める砂原直志が、社員寮の自室で屍体となって発見された。指先にはインクがついており、屍体の傍には「X・X」と読める文字らしきものが記されている。「X」を「メ」と解釈した捜査本部は、砂原と遺恨のあった目々沢明彦という青年を容疑者として拘束するが、弁護士は別に犯人がいるはずだとして「わたし」の元に話を持ち込んできた。この厄介なダイイング・メッセージとやらの真意はいったい何処にあるか?
ミステリの定番ネタ第三弾。ストレートだった前二作と較べるとかなり手が込んでいる、が少々込みすぎてしまった嫌いもある。《三番館》シリーズでは推理の決着の証として、私立探偵氏が飲む酒がバイオレットフィーズからギムレットに変わる、という場面がラストに置かれることが多く、その時の描写で微妙に余韻をコントロールしているのだが、個人的にこの作品での扱いが一番印象深く感じた。苦い。20, タウン・ドレスは赤い色
塔原菊子は離婚後花屋を興し、しばらくは隆盛を極めていた。しかし三年後には様々な悪条件が重なって左前となり、裏で女性専門の高利貸しの副業を営むようになる。だが、副業が軌道に乗って間もなく、菊子は自分の店で殺害された。私立探偵の「わたし」が世話になっている弁護士の姪が容疑者にされ、「わたし」は彼女の潔白を晴らして欲しいという依頼を受ける。菊子に懸想していた老作家、ギャンブルに狂って借金を嵩ませた主婦、結婚詐欺にかかったOL……犯人はこの中にいるはずなのだが。
ここまでのミステリ定番ネタから一転、見たところ格別な趣向のない探偵ものになっている、が無論そこは鮎川哲也である、シンプルだが綺麗な捻りを加えている。推理の帰結よりも前に事件そのものがいちおう決着したことになっていて、私立探偵氏がかなり早い段階で強い酒を口にしているのが可笑しい。21, 棄てられた男
茜荘と名付けられた小さなロッジを、申し合わせたように同時期に五人の客が訪れた。五人を結びつけるのはそのうちのひとり、樵半蔵という自称フリーライターにして強請屋。大胆不敵にもこのロッジで一括して自らの顧客との交渉を行い始めたこの男は、しかし翌朝ロッジの庭で屍体となって発見された。地元警察から依頼を受けた弁護士は、早速「わたし」の知恵を借りるためオフィスにやってきたが、「わたし」は彼が帰ったそのあとに当然の如く《三番館》に足を運ぶのだった。
容疑者を一堂に集まるなかで殺人が起き、些細なところに謎を解く鍵が隠されている、という本格推理のお手本のような話。何よりも不自然なのは「どうしてこのロッジにわざわざ人を集める必要があったのか」だが、そこを舞台装置のひとつと割り切ってしまうもまた潔し。22, 人を呑む家
由木は編集の仕事を一時的に退くあいだ、金融会社に職を求めた。そこで得た大口の顧客・本田は「銀行に払う手数料を倹約したい」として、由木に自宅まで来させて利息を納めるようになる。本田の自宅は前の住人がある日衆人環視の中で忽然と姿を消したという怪談紛いの逸話があり、周辺から化物屋敷呼ばわりされていたというが、由木は信じなかった――自分の目の前で本田が姿を消すまでは。本田と共謀して大金を着服した、という疑いを職場からかけられた由木は、窮まって「わたし」に真相究明を依頼した。
ふたたびミステリ定番のひとつ、人間消失トリックの登場。この尺で同系統とは言え二本立てになっているあたりが贅沢極まりない。動機に関するヒントが不足しているため、その点の推理にいまいち説得力がないのが悩みだが、メイントリックの解明は鮮やかなのであまり気にはならない。23, 同期の桜
社長令嬢との婚約が成立し、エリート街道を驀進していた梅谷満夫が殺された。彼の所属する鉄鋼会社の社内が騒然とする中、今度は姫野勝代という女性社員が屍体となって発見される。彼女の部屋からは切り刻まれたチラシが、そして梅谷殺害の容疑者のひとりであった木ノ江芳夫のロッカーからそのチラシの文字を利用した脅迫文が発見された。梅谷殺害を目撃したと仄めかす内容のために、木ノ江は任意同行の名目で警察に囚われるが、頑強に犯行を否認している。梅谷とライバル関係にあった男達の中に真犯人がいると睨んだ弁護士の依頼で、「わたし」は捜査に乗り出した。
ちょっと箸休めと言おうか、金銭を巡る動機やアリバイ崩しなど、《三番館》シリーズ初期の類型に嵌った一本。だが、叙述や僅かな言動に基づいた細かな技が光る構成で、鋭さはないが決着は美しい。24, 青嵐荘事件
身内に対するワンマンぶりが災いし、年老いてから妻子に見捨てられたことで、雨宮助十は改悛の態度を見せた。元々領事館として使われていた宏壮な邸宅に四人の甥と姪を呼び寄せ、部屋代・光熱費持ちで居候させたのだ。はじめのうちこそ円満にいっていた新造家庭は、だが半年ほどで亀裂が生じる。助十の会社に勤める雨宮屯は研究に従事するため大学に戻りたいと言いだし、山下千鶴は助十の蒐集していたSPレコードの珍品を駄目にしてしまい、木村敏夫は助十の与えた縁談を無視して女友達を家に連れてくる。堪忍袋の緒を切らせた助十は「遺産」という強権を発動させるが、程なくして老人は毒殺された。凶器である砒素を持っていたことなどからもうひとりの姪・井上文江に嫌疑が掛かり、それを払拭するために「わたし」が駆り出されたのだった……
《三番館》シリーズの作品としては問題がある、というのも、私立探偵が調査らしい調査もせずバーテン氏に事件を丸投げしているためだ。弁護士→私立探偵→バーテン氏というコースが必要でなくなっているのである。トリックも軽めだが、如何にも本格ミステリらしい舞台設定と描写がこの紙幅で堪能できるのは結構お得だと思う。25, 停電にご注意
植物公園の一画、ローズマリィの植え込みのために死角になった箇所で、男の他殺死体が発見された。被害者は小野村精十郎、新興宗教の幹部であり、整った容姿で信者の女性に手を出しては捨てていた問題の人物だった。近くの石に被害者が遺したと思しい「キヨ」という文字から、むかし彼らの宗教の信者だったが小野村に捨てられた山之内京子という女性が第一容疑者として目をつけられた。弁護士は彼女の無辜を証明するために「わたし」のもとを訪れる。ダイイング・メッセージが偽りでなければ、宗教組織の中で小野村と対立していた清川進か、やはり小野村に袖にされた久松稀代のいずれかが犯人であるに違いないのだが、一枚の写真がふたりに鉄壁のアリバイを与えていた――
いまだとこの程度の大技は飽き飽きするほど目にしているが、当時は結構衝撃的だったのではないかと思う。動機にいまいち切迫性がなく、大袈裟すぎるように思うのが欠点だが、これをこの時代に、しかも短篇でやってしまうあたりが巨匠たる由縁か。26, 材木座の殺人
大迫麦人は久木耕一を案内する途上に赤星小一郎の自宅を訪れていた。伊那リエ子は赤星との離婚の痛手から恢復したものの、新たな恋に破れ不幸に見舞われていた。翻訳家の塚本幾夫は赤星からの電話に不穏なものを感じて警察に通報した。その夜赤星は屍体となって発見された――犯人はいったい誰か?
フーダニット+アリバイ崩し、という趣向だが、三番館シリーズらしく仕掛けはシンプル。ただ、このトリックはシステム上大きな困難があるように思うのだが、或いは時代の違いかも知れない。いずれにしても、現代の私の感覚ではやや説得力に欠いているのが残念。27, 秋色軽井沢
用賀に住む伸枝のもとに、ひろえから奇妙な電話がかかってきた。いま軽井沢にいる彼女が、二時間二十分以内に伸枝の家に着くかどうか賭けないか、という。話に乗った伸枝だったが、ひろみはいつまで経ってもやって来なかった。――一方、私立探偵の「わたし」は弁護士を介して訪れた女性の依頼で、新潟行きの急行の中で屍体となって発見された彼女の別れた夫・栗田茂平治を殺害した犯人を捜すこととなり、各地を走り回る。この事件に、ひろみの失踪が意外な形で絡んできて……
安楽椅子探偵のシリーズという前提からすると、探偵役であるバーテン氏が掟破りの行動に出ているのが目新しい。トリックの着眼は至って単純なのだが、調査する私立探偵氏がそこに辿れつくまでの推移が非常に巧い。28, クイーンの色紙
エラリイ・クイーンの半身であるダネイ氏が来日しパーティ会場でスピーチをするというので、パーティ嫌いの肩書を返上して上京した鮎川哲也だったが、翻訳家の益子田蟇が色紙にサインを頂戴したと聞いて、そういう発想が浮かばなかったことを内心悔しがる。後日ダネイ氏が亡くなったのちに益子田氏の自宅を訪問することになった鮎川だが、複数の客人が顔を揃えていたその日、E・クイーンの色紙は忽然と消え失せてしまった……?
シリーズで三作存在する、私立探偵氏の一切登場しない作品のひとつ。それ故に、バーテン氏の「安楽椅子探偵」ぶりが私立探偵氏の語る事件よりもずっと純化されて提示されているようにも感じるから皮肉なものだ。
意表を衝く、というか余人にはとても思いつきそうもないかなり極端なトリックであり、《三番館》シリーズの中でも「驚き」という点では随一の作品かも知れない。実のところ(以下ネタバレのため反転→)色紙は本来真っ白な面ではなく飾りの多い反対側の面が表であり、裏である白い面にサインするのは「自分はまだ表にサインするほどの人間ではない」「功なり名を遂げてから改めて表にサインする」という意志を籠めたものであるという話があって、つまり(←以上伏せ字)作中の鮎川哲也氏は二重の意味で恥をかいているという考え方もあるのだけど、これは流石に穿ちすぎだろう。
何にしても、……その色紙は、とても欲しい。29, 鎌倉ミステリーガイド
「ホラーの会」の一行は、ミステリー作家・宇田川白髯斎の案内で鎌倉のミステリー・スポットを散歩して回る催しを行った。鎌倉の史跡や各地に暮らすミステリー作家たちの生態、白髯斎の語る怪談などを経て、一行が最期に出逢ったミステリーは、メンバーの死だった……?
読み巧者を自認する方なら確実に引っかかるところのある作品だが、まさかこういう形でひっくり返されるとは流石に予測できないに違いない。近年ではわりとよく見かける手口だが、この短篇、しかも《三番館》シリーズでやってしまうあたり、著者の飽くなき探求心を窺わせる。しかも構造的に「安楽椅子探偵」の形式を崩さずにやってのけてしまっている。脱帽ものの一篇。
ただ、作中の怪談は……ホラー属性のある私からするとどーにももの足りませんでした。30, クライン氏の肖像
金欠に喘いでいた「わたし」の元を訪れたのは、磯部鉱吉という音楽評論家だった。ふとしたきっかけから二束三文で手に入れた音楽家・クライン氏の肖像画が、実は名のある画家の作品だと判明した磯部は、誕生日パーティーの席で問題の肖像画を盗難から守って欲しい、と「わたし」に依頼する。楽な仕事かと思いきや、磯部の危惧したとおり肖像画は盗まれてしまった。
ミステリとしてよりも、音楽・芸術を巡る知識とそれに戸惑う私立探偵氏の描写が妙に楽しいエピソード。このあたりまで来るとバーテン氏の推理のあとに決着を披露することもなく、本編のような論理展開だと本当に解決したのか、と不安を感じてしまう。31, ジャスミンの匂う部屋
麹町にあるマンションの八階で私設馬券屋を経営していた鯨川大輔が殺された。詐欺紛いの商法で恨むものは少なくなかったが、弁護士の後輩が重要容疑者とされてしまったために「わたし」にお呼びがかかった。複数いる容疑者のアリバイを細かく当たっていった「わたし」は、やがて真犯人を見つける。
――そう、珍しくも私立探偵氏がバーテン氏に頼るよりも前に真相に辿り着いてしまった、かに見える作品。当然のようにひっくり返されるのだが、その過程が怪談チックで一風変わっている。32, 写楽昇天
根岸美術館が所蔵する、写楽の貴重な版画「寄り眼の栃蔵」が、美術館の改装期間中に盗まれた。幾重にも鍵の掛けられた状況での紛失騒ぎのため、通報を受けた警察も館内にあるものと見て徹底した捜索を行うが、その間に神田神保町にある古本屋に「栃蔵」を売りに来た人物がいたとのちに判明して、関係者は首を傾げる。一方、女装趣味のなかったはずの男性が女装姿で転落死した理由を探っていた「わたし」だったが、ふたつの事件は思わぬ形で結びつくのだった。
トリックひとつひとつはよくあるものなのだが、こういう組み合わせは意外。尺が短めなので、非常にみっちり詰まっている感がある。33, 人形の館
例によって財政難に見舞われていた「わたし」のもとに久々に持ち込まれたのは、唐丸五郎次という男の素行調査。それも自宅と会社のあいだの行動についてだけ調べて欲しい、というもので、品行方正な唐丸の監視は何の問題もなく終了した。だが、後日弁護士が依頼しに来た殺人事件の調査を進めていくうちに、意外な事実が判明する……
冒頭の出来事がどういう風に本筋に絡んでくるかは予想するまでもないが、そこで用いられるトリックは小技ながら巧みである。しかし何より意外なのは、題名の出所という気もする。そんなところから取るか普通。34, 死にゆく者の…
クラシック、それもバイオリン演奏に執心していた推理作家の芳田吾平が殺された。ヒントは彼が死に際に遺したと思われる、ロシア語のメッセージらしいのだが、警察関係者にも芳田の同業者にも読み解けない。「わたし」は芳田の友人である作家が提示した二千万円という懸賞金欲しさに、事件を調べ始める。
読後最初の感想は、「狡い」。改めて読み返すときちんと伏線もヒントもあるのだが、ここまで徹底しておいてそれはないだろう、というのが正直な感想。それが決して厭な読後感にならないのは、完璧に私立探偵氏の俗っぽいキャラクターのお陰だと思う。35, 風見氏の受難
新宿にあるQビル最上階で貿易商を営む風見氏が休日、誰もいない職場で所用を片づけていたところ、強盗に襲われた。金庫にあった五千万円の大金を奪われるすんでのところで訪れた知人の若者に救われるが、暴漢はエレベーターで階下に逃亡する。しかし、一階に到着したエレベーターの中に強盗の姿はなかった――途中止まらなかったことは一階の客が確認している。強盗は何処に消えた?
私立探偵氏ではなく風見氏自身がバーテン氏のもとを訪れ謎解きを請うている。トリックのひとつは簡単に察しがつくが、もうひとつの仕掛けがなかなか意表を衝いている。ただ、狙って出来る技ではなく、やや瑕疵となっている嫌いもあるが。36, モーツァルトの子守歌
かつてモーツァルトの作と喧伝されながら、のちにフリーズという外科医の作だと判明した子守歌。この曲の極めて珍しいSPレコード盤の演奏が披露されることとなった席で発生した悲劇。一部始終を聞かされたバーテン氏は、鮮やかにその謎を解く。
これが三番館の掉尾を飾る作品であり、鮎川氏自身の創作としても最期の一篇となった。奇しくもモーツァルトの名を冠した作品が事実上の遺作となったあたり、非常に鮎川氏らしい。私立探偵氏もちゃんと登場しているものの、彼が語り手という雰囲気はなく、まるで誰に対して語りかけているとも知れない不思議な気配が漂っている。
トリックや人物描写の薄さよりも、まるで意識することもなく語られたような音楽知識そのものが音楽のように響く。これが遺作となった今だからこそ余計にそんな感慨に囚われるのかも知れないが、何とも切ない余韻を伴う小品である。