cinema / 『2046』

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2046
監督・脚本・製作:ウォン・カーウァイ / 美術・編集:ウィリアム・チョン / 撮影:クリストファー・ドイル、クワン・プンリョン、ライ・イウファイ / 音楽:ペール・ラーベン、梅林 茂 / 出演:トニー・レオン、木村拓哉、コン・リー、フェイ・ウォン、チャン・ツィイー、カリーナ・ラウ、チャン・チェン、トンチャイ・“バード”・マッキンタイア、ドン・ジェ、ワン・シェン、スー・ピンラン、マギー・チャン(特別出演) / ブロック2ピクチャーズ、パラディ・フィルムズ、オーリィ・フィルムズ、クラシックSRL、シャンハイ・フィルム・グループ製作 / 配給:ブエナ ビスタ インターナショナル(ジャパン)
2004年香港・中国・フランス・イタリア・日本合作 / 上映時間:2時間10分 / 翻訳:鈴木真理子 / 字幕:松浦美奈
2004年10月23日日本公開
公式サイト : http://www.2046.jp/
VIRGIN TOHO CINEMAS 六本木ヒルズにて初見(2004/11/06)

[粗筋]
 未来。辛い過去を抱える人は誰もが“2046”に向かう。そこでは何もかも変わらないから。ただ、それが本当かは解らない。誰ひとり戻った者がいないからだ――俺を除いて。
 チャウ・モウワン(トニー・レオン)はシンガポールを離れ、香港に舞い戻った。スー・リーチェン(マギー・チャン)との記憶が染みついたこの街で、チャウは生活の仕切り直しを試みる。字数あたり幾らの新聞記者として文章を捌きながら、長年の友人ピン(スー・ピンラン)とともに夜毎繁華街を彷徨きまわった。
 そんななか、チャウはシンガポール時代に知遇を得たダンサーのルル(カリーナ・ラウ)と再会する。懐かしがる彼に対して、彼女はチャウのことをよく覚えていなかった。昔の哀しい恋の記憶を引きずる彼女とのひとときは短く、翌日訪ねたときにはルルは恋人(チャン・チェン)によって刺されたあとだった。チャウはルルの部屋番号“2046”に惹かれるものを感じ、改装のためしばらく閉鎖する、という支配人ワン(ワン・シェン)の言葉を受けて、隣接する2047に新しい居を構えた。
 人のいなくなった隣の部屋にはときおり、ワンの娘・ジンウェン(フェイ・ウォン)が現れて、チャウの理解できない独り言を呟くようになった。使用人の話によるとそれは彼女の恋人であるタク(木村拓哉)の住む日本の言葉だという。娘の相手には同じ国の人間を、と願っていたワンはふたりの仲に猛反対し、タクは最後にジンウェンに「一緒に行かないか」と訴えたものの、ジンウェンは咄嗟に頷くことが出来なかった。それを悔いて、彼女はあのとき口に出来なかった言葉をひとり、そうして繰り返しているのだという。去ったあともタクは何度となく恋人に愛を囁く手紙を送りつづけた――
 そのうちに、香港で暴動が発生し、夜間の外出禁止令が発動される。夜の楽しみを奪われたチャウは、憂さを晴らすように小説を執筆しはじめた。登場人物はすべて彼の周辺の人間、ルルでありピンでありワンでありジンウェンであり――官能的な要素を含んだSFであることに、大した意味はなかった。チャウは自らの胸中を投影させながら、ひたすら筆を走らせた。
 やがて2046には新たな住人が入った。見るからに派手で、夜に働き朝には昏々と眠りに就き、隣室の激しいセックスの騒音に対して臆することなく抗議する女、バイ(チャン・ツィイー)。チャウは好奇心から彼女に接近し、飲み友達の名目で交際を始めた。オープンなふたりは遠からず肉体関係を持つようになるが、チャウは一線を守るように、理由をつけては彼女に僅かな金を払う。バイはその金を、ベッドの下のアルミ缶に仕舞い込んで手をつけなかった。バイはいつしかチャウに対して本気になっていたのだ。だが、チャウはバイの想いに本気で応えることはなかった。バイはチャウの時間をいちどだけ買い、それを最後に彼の前から姿を消す。
 ふとチャウはシンガポール時代のことを思い出した。博打の借金で二進も三進もいかなくなっていた彼を救った、左手にいつも黒い手袋をはめた女性ギャンブラー(コン・リー)。やがて惹かれあうようになった彼女の名前はスー・リーチェン――奇妙にも、チャウの心に深く刻まれた女性と同じ名前だった……

[感想]
 観たあとで知ったことなのだが、本編はウォン・カーウァイ監督の作品『花様年華』の続編的位置づけなのだという。トニー・レオン演じるチャウの過去に登場するスー・リーチェンとのエピソードがそのまま『花様年華』であるらしい。一方で監督は、続編として考える必要はないと言っているようだ。
 実際、前作があるという意識抜きでもまったく問題のない作品である――というより、下手にバックボーンを知らない方が楽しめるだろう。ナレーションを多用し、非常に細かく場面を転換し、現在と過去、更には虚構にすら自在に行き来する構成は非常に饒舌なようでいて、実は肝心なことにはほとんど触れていない。コン・リー演じるギャンブラーのスー・リーチェンはまず冒頭、名前もチャウとの関係も具体的に説明されることなく登場し、かなり話が進んでから初めてその名前やチャウとの関係が語られる。しかしその来歴や、実際にチャウとのあいだにどんな関係が生じていたのかは直接的に表現されず、随所に象徴的な場面が展開するのみだ。また、かなり早い段階からチャウは官能的なSFを執筆している旨を口にしているのだが、その詳しい内容についてもほとんど語られない。唯一、のちにチャウが自らをジンウェンの恋人・タクになぞらえて執筆した小説“2046”だけがかなり丁寧に綴られるが、それと以前にチャウが執筆していたSF小説との関連は明示されないままなのだ。
 だが、そうしてパッチワークのように表現することで、美しい場面のひとつひとつの背景について観客はかなり自由に想像を巡らせ、それぞれの考え方で再構築することを許されると同時に、のちのち発覚する事実に驚く余地も生じてくる。だからこそ、変に『花様年華』を背景として捉えない方が恐らく本編は堪能できるだろう。切り離して考えられるならばそのほうがいい。
 この作品にはラストシーンこそあるが、何らかの決着が齎されるという性質のものではない。ただ、結末の映像が多くの想像を掻き立てるだけだ。答を明示しようとした物語ではなく、寧ろ物語さえなくて、様々なシチュエーションやそれを捉えた断片的な映像を積み重ねていくことで独自の空気を醸成し、体感させることだけが目的の作品なのだろう。
 そうしようと予め決めていたのではなく、まず映像とふんだんなシチュエーションだけを漠然と決めて撮影に臨み、それを丁寧に根気よく編集を繰り返して、初めて一続きの形を得た、というのが手に取るように解る。それが本編の個性であると同時に、作品に大きな癖をつけてしまった。非常に見応えはあるが、受動的に物語を体感しようとしているごく普通の観客には退屈かも知れない。

 本編はSMAPの木村拓哉が初めて海外に進出した作品としても知られている。ずいぶん前から喧伝されていたのに、制作者側の事情で撮影が中断され、あいだに何年ものブランクを挟んでようやく再開、先日のカンヌでもギリギリまで編集してようやく上映に間に合った、という話題を提供している。そのわりに木村の出番はさほど多くない、という話も耳にしていて、彼の出演作という頭はほとんどないままに鑑賞したのだが――あにはからんや、木村拓哉の露出は想像していたよりも遥かに多かった。
 なにせ、無国籍な雰囲気を醸成するためとして広東語と北京語での会話が成立するという世界観がまかり通っているぐらいなので、冒頭からいきなり木村のナレーションで始まるのである。はじめは日本での公開版のみのサービスか、と睨んでいたのだが、観ていくうちにちょっと違う気がしてくる。そのくらい彼の出番はけっこう多く、存在感も大きかった。序盤はジンウェンの恋人として、まるで背景の一部のようにちらほらとチャウの視界を掠めるだけだが、粗筋のあと、ジンウェンの存在がチャウのなかで大きくなっていくとともに、チャウが自らの想いを映した人物として自著に登場させると、にわかに存在感を強める。特徴的な、素と思えるほどぶっきらぼうな語り口も、その空気によく馴染んでいて、思いの外好演していた。
 但し、本編には脚本が予め用意されておらず、その場その場で監督が必要なシチュエーションと台詞とを用意して俳優たちに渡し、演技させていたという。とすれば、本編での木村拓哉の存在感は、彼のキャラクターと活かし方をよく承知して巧妙に配置した監督の功績と捉えるべきかも知れない。
 いずれにしても、木村拓哉という名前に惹かれて鑑賞しても決して損をした気分にはならないだろうし、彼の名前に拒否感を覚えるという向きにもさほど目障りにならない仕上がりだと思う。

(2004/11/09)


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