cinema / 『8 Mile』

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8 Mile
監督・製作:カーティス・ハンソン / 製作:ブライアン・グレイザー、ジミー・イオヴォン / 製作総指揮:キャロル・フェネロン、ジェームス・ウィテカー、グレゴリー・グッドマン、ポール・ローゼンバーグ / 脚本:スコット・シルヴァー / 撮影:ロドリゴ・プエリコ / 美術:フィリップ・メシーナ / 編集:ジェイ・ラビノウィッツ、クレイグ・キットソン / 衣装:マーク・ブリッジス / 音楽:エミネム / 出演:エミネム、キム・ベイシンガー、ブリタニー・マーフィ、メキー・ファイファー、エヴァン・ジョーンズ、オマー・ベンソン・ミラー、ダンジェロ・イルソン、ユージン・バード、タリン・マニング、クロエ・グリーンフィールド / 配給:UIP Japan
2002年アメリカ作品 / 上映時間:1時間50分 / 日本語字幕:松浦美奈 / 字幕監修:桑原あつし、クリス・ストームズ
2003年05月24日日本公開
公式サイト : http://www.uipjapan.com/8mile/
池袋HUMAXシネマズ4にて初見(2003/06/21)

[粗筋]
 デトロイド、8マイルにあるクラブハウス「シェルター」。ここで週末ごとに開催されるラップのフリースタイル・バトルの舞台に、ラビットことジミー・スミスJr.(エミネム)の姿があった。フリースタイルのホスト役である、友人にして同じ“3-1-3rd”のメンバーであるフューチャー(メキー・ファイファー)の強引な誘いから参加することになったジミーだが、強烈なプレッシャーと白人である彼への観客の差別的な視線に耐えきれず、遂に一言も発せないまま舞台を降りてしまう。“3-1-3rd”の仲間たちは気にする必要はない、と慰めるが、ジミーの落ち込みようは激しかった。
 折悪しくも恋人ジャニーン(タリン・マニング)と別れ、妊娠したという彼女のために車もあげてしまい、バイトもクビになってしまったジミーは、久々に母ステファニー(キム・ベイシンガー)と幼い妹リリー(クロエ・グリーンフィールド)の暮らすトレーラーハウスに戻って居候を決め込むことにした。自分で職に就くことはせず、男の稼ぎに依存して生活を維持する母の新しい相手は、ジミーの高校の先輩にあたる若い男。新しい職場となったプレス工場では上司に勤務態度をたびたび注意され、ジミーを巡る環境は公私ともに思わしくない。
 一方、ジミーが情熱を傾けるヒップホップの活動においても、微妙な問題が持ち上がっていた。彼の実力を評価するフューチャーはジミーにフリースタイルでの再戦を盛んに呼びかけるが、同時に大物とのコネを吹聴するウインク(ユージン・バード)がジミーのデモテープを録音し、現在第一線で活躍する人物に紹介するという話を持ち込んできた。フューチャーはウインクを嘘つき呼ばわりし、ウインクは「シェルター」での勝利などプロへの足がかりにはならないと言い張る。ジミーの気持ちは次第にウインクの提案へと傾いていくが、ウインクはジミーらの“3-1-3rd”と対立するグループ“フリーワールド”にも擦り寄っており、いまいちその態度に真剣味を欠いているのが気に掛かった。
 そんなとき、ジミーは工場にいる知り合いを訪ねてきた少女アレックス(ブリタニー・マーフィ)に興味を惹かれる。モデル志望だという彼女もまたジミーに興味を示し、「あなたはきっと成功する、そんな気がするの」と評価する。彼女との出逢いを契機に、次第にポジティヴな心持ちを取り戻していく。だが……

[感想]
 長い下積みののち、『ザ・スリム・シェイディLP』でデビューすると、瞬く間にヒットチャートを制圧しヒップホップ界の寵児となったエミネム。本編は下積み時代の彼をモデルに物語を作り、彼自身を主演・音楽に据えて製作された半自伝的映画である。
 ――が、本編ではその実、主役でありエミネムの分身とも言えるジミー・スミスJr.=ラビットが本格的に成功していく様などは描いていない。後年の成功を仄めかしてはいるものの、着説描く直前で話を締めくくっている――まあ、これはモデルとなった当人のその後の成長と、決着のついていない幾つもの苦悩を思えば、当然の処理と言えるだろう。そのまま描いては話が終わらない。
 成功する、という要素をさっ引いて、生活環境や内面の葛藤を物語の主題に据えた結果、意外と整った青春映画に仕上がった印象がある。ジミーが成功を志す世界をラップ以外のもの、スポーツや芸術に差し替えてみれば、見事なくらいフォーマルな、若者の成長物語の骨格があることがよく解ると思う。
 単なる大スターのサクセス物語にせず、下積み時代の苦労や白人であるがゆえの微妙な待遇を織り込んだ青春映画に仕立てつつ、ヒップホップに触れた経験のない人にもその発生と成長の源となった状況をなるべく解りやすく伝えようとした、繊細な作品。歌詞の乱暴さや登場人物の攻撃性など、実は往年の優れた青春映画を正統的に継承した作品であることの証明に過ぎない。

 あちこちの感想で、「シェルター」で行われるフリースタイルバトルの勝敗がよく解らない、相手を罵倒した方が勝ちというのはどうか、といったような意見を目にしたが、それはあまりに字幕だけ見ているか、表現の上っ面を撫でているだけのように思う。
 観賞後某氏と話して「字幕も非常にうまい」という結論に達したが、それでも解りづらかった方には、都合四回にわたるラビットの「シェルター」でのフリースタイルと、プレス工場で食事の配給が行われているとき、配給の女性と壮年の男性が繰り広げたラップ・バトルにジミーが嘴を突っ込んでいく場面を、今度は英語の歌詞に注意して御覧戴くことをお薦めする。すると、ただの罵りあいではないことが次第に解ってくるはずだ。
 まず注意して欲しいのは特に後者だ。ここで登場人物は互いに罵りあいながらも、相手の罵倒を実に楽しげに受け止めているし、周囲もまた囃したてながら険悪な様子はない。途中から混ざったジミーについてもその非礼を咎めるどころか歓迎しているし、その様子は喧嘩とか舌戦とか言うよりも、親しいもの同士の擽りあいの雰囲気がある。
 作中幾度も仄めかされているように、ラップというスタイルを創出し支えてきたのは黒人であり、まさにこのプレス工場で働くような、社会の底辺に近い場所で生活している人々だ。そういう場所でラップがどのように生まれ、根付いてきたかをこの場面は如実に示している。本来は親しいもの同士の擽りあいであり、拳銃やナイフなどに寄らない決闘であり、互いの素性をよく知っているから出来る戦いの形式なのだろう。その延長上に、メジャーへの登竜門としての、クラブなどにおけるフリースタイル・バトルがある。
 フリースタイルで相手の欠点や容姿のコンプレックスなどを衝くのは、場を盛り上げることも無論だが、相手の気勢を殺ぐことと、相手の言葉を封じる・逆手に取ることも理由に含んでいる。この攻撃性が最も顕著となるのが、クライマックスとなるパパ・ドッグとの闘いだ。未見の方の興を殺がないために詳述はしないが、ここでの戦い方、言葉の選び方こそフリースタイルの肝に違いない。
 何より重視するべきは、フリースタイルが「アドリブでありながら、詞としてのリズムと韻を損なわずに表現を全うする」ことを必須条件としていることだ。ただ罵っているだけの言葉を観客が指示していないことは、よく御覧いただければ解るはず。即興でこの条件を揃えることが出来ること自体、演奏者のラッパーとしての資質が高いことを証明している。嘘だと思うなら、日本語でもいいから同じ事をやってみるといい。自分一人でやっている分には気づかないかも知れないが、観客を前にすれば彼らが如何にとんでもないことをやっているのか理解できるはず。

 なお、その後のジミー・スミスJr=ラビットの人生について知りたい、という奇特な方は、エミネムのアルバムを揃えてその歌詞をじーっと眺めるか、ニック・ヘイステッド/立神和依、河原希早子[訳]『ダークストーリー・オブ・エミネム』(SHO-PRO BOOKS/小学館プロダクション) [bk1amazon]を参照しながら、ご自分で想像しましょう。暗澹としてくるから<おい

(2003/06/22)


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