/ 『A.I. [Artificial Intelligence]』 深層
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A.I. [Artificial Intelligence]
製作・原案:スタンリー・キューブリック / 監督・脚本:スティーヴン・スピルバーグ / 出演:ハーレイ・ジョエル・オスメント、ジュード・ロウ / 配給:Warner Bros.、松竹
2001年6月30日日本公開
2002年03月08日DVD日本版発売 [amazon]
2003年12月06日DVD最新版発売 [amazon]
公式サイト: http://www.ai-jp.net/警告
この先はネタバレを前提とした粗筋・感想・論考を収録しております。まだ映画を御覧になっていない方は、鑑賞の上お読みになることをお薦めします。
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[粗筋]
上層より承前
歓楽街にて、デイヴィッドはジョーの導きによりドクター・ノウと呼ばれる対話型のデータバンクと対峙する。料金とカテゴリによって規制されたノウの関門をくぐり抜け、デイヴィッドは探し求めている青い妖精が『人間の島』――水没した大都市・マン=ハッタンにあることを知らされる。出発する直前にジョーが警察に連行されかかるが、デイヴィッドが飛行機を奪うことで窮地を脱し、ふたりは一路マン=ハッタンへ向かう。
――だが、そこに待ち受けていたのは、デイヴィッドにとって最悪の事実だった。青い妖精の情報は、デイヴィッドを自らの息子をモチーフに製作したホビー教授(ウィリアム・ハート)が故意にノウによって齎させた情報であり、一連の道程が、開発者とスウィントン夫妻の合意に基づいて設定されたいわば壮大な実験であり、デイヴィッドは所有者に無償の愛を齎すと共にA.I.が「夢」という目的意識によって行動しそれを実現することが出来るのか、という研究の一環に自分が用いられていた、と知らされる。本当の親――開発チームを連れてくるとホビー教授が席を外した隙に、デイヴィッドは更にショッキングなものを目の当たりにした。それは、自分と同じ顔をした、未稼働の大量のロボット群であり、「デイヴィッド」の商標名の元包装されたロボットであった。
衝撃のあまり、デイヴィッドは研究所のあるビルから海中へと身を投げる。深海にてジョーの駆る飛行機(水中航行も可能らしい)によって助けられるが、デイヴィッドはそこで青い妖精を見たと言い張る。折悪しく捕縛にやって来た警察に吊り上げられながら、ジョーはボタンを押し最後にデイヴィッドを海中に誘う。デイヴィッドが見たものは、水没する前のマン=ハッタンに存在した遊園地の中にある、ピノキオをモチーフにしたアトラクション最深部にあった石膏像だった。そうとは知らず、無心に「僕を本当の子供にして」と願うデイヴィッドを乗せた機体を、腐蝕し倒れかかった観覧車が閉じこめる。脱出不能となっても、デイヴィッドはずっと、ずっと祈り続けた。
――そして、2000年の時が経った。
人類が滅び、全く異なる生命体が跋扈し旧時代の遺産を凍て付いた海から発掘している世界。彼らは発見したデイヴィッドを再起動させる。甦ったデイヴィッドが触れると青い妖精は崩れ、最後の望みも失われたように思えたが、新しい生命体は旧時代の遺産であり、大切な記憶であり、彼らにとっての誇りであるデイヴィッドの幸福を望んだ。そこで、彼らはデイヴィッドに一つの提案をする。彼らは人類の再生を幾度も試みていたが、遺伝子を参考に再現された人々には何故か一日の延命しか許されなかった。テディがたまたま保管していた、あの日デイヴィッドがモニカのベッドに忍び寄り切り取った髪の毛の一房が、デイヴィッドの願いをたった一瞬だけ叶えてくれる。そして、デイヴィッドは決断する……[感想]
いやー、ネタバレを恐れずに粗筋を書くのって愉しいぞはっはっは。それでもラストまできっぱり書かなかったのは、ここまで見ている人には多分もう不要だと思ったからだ。
兎に角、終盤の意味について検証しよう。実の処、本編はその手前で終わっていても良かったのだと思う。現に私が鑑賞しているときも、この段階でしゃくり上げる声が後ろから聞こえたほどだったのだから。そこへ、人類滅亡後に現れた生命体――作中では特に説明を行っていないから、宇宙人と解釈するのも、或いは具現化した情報媒体という捉え方をするのもそれぞれの自由だろう――を持ち出し、敢えてデイヴィッドに最後の選択をさせたのは、その手前では単なる寓話に終わっていたものを、お伽噺にまで昇華させたかったからだ、と考えたい。
作中の骨幹を為すテーマは、「人工知能」というある意味最も無垢な存在を通して愛を表現することと共に、「夢」というものの価値と意義を確認する、というものがある。この辺り、実は冒頭に於ける研究者・開発者達のディスカッションで彼らが既に口にしており明確なのだが、中盤幾度も幾度も「愛」という言葉が用いられ、終幕でもデイヴィッドと彼にとって唯一の「母」モニカとの情愛が綴られているために一歩退いてしまった感がある。だが、作品の推移を見ても明らかなように――更に、デイヴィッドが母と同じ時代に続けた旅の果てに辿り着いた場所で教授が告げたとおり、設定で具現化することが出来た愛以上に、その愛を切望する「夢」の方が、寧ろこの物語では重大なテーマであったと見るべきだろう。
だからこそ、あのラストシーンは必要だったのだ。幾多の困難に妨げられても求め続けることで、デイヴィッドの「愛」は深海に閉じこめられる以前で証明されている。だが、あのままでは「夢」はデイヴィッドの内側で燻ったままであり、実現しない「夢」の物語となっていた。極端な話、2000年の時が流れた、とナレーションが語る辺りから先は全てデイヴィッドが最初で最期に見た「眠り」による「夢」であった、と捉えても構わない、と私は思う。どちらにしても、望み続けた果てに一瞬でも報われることを願うほど深く深く一つのことを望み続けた『A.I.』デイヴィッドの姿にこそ、この物語の決着は唯一存在する。何より思い出して欲しい。デイヴィッドが「本物の子供になりたい」と願ったのは、ただひたすらにモニカからの愛を望んだからだった。ごく常識的に考えれば、ロボットが人間の子供に変容することは絶対に不可能だろう。けれど、実はその前の願いなら、もっと簡単に叶えることが出来る――そう思えば、喩え人類滅亡後に人類の記憶を欲した彼らでなくとも、その願いを叶えるに吝かではなかったはずだ。
粗筋では書かなかったが、最終的に唯一の望みを叶えたデイヴィッドは、本来ロボットには存在しないはずの「眠り」に就く。目的が昇華されたからであるとともに、それは一夜の夢を永遠に変える唯一の手立てでもあるはずだ――つまり、一見取って付けたようなこの結末には、寧ろ「これ以外には有り得ない」と言うほどの必然性があった、と私は思う。
――それにしても、逆にその全てがあるべき場所に着地してしまった作りは、実はそれ故に均一な印象を齎してしまうという弊害がある。人がものを評価するとき、最も記憶に留めるのは突出した何かであり、故にはみ出した箇所であるように見えて決して不要ではないこのクライマックスが賛否を大きく分けてしまっているのだ、と思う。だがしかし、それさえ踏まえた上でこれは必見に近い映画だ、と言い切りたい。見終えたあとで感涙に噎んでも、違和感に首を傾げてもいい。どちらでもいいから、本編のイメージを心の何処かに刻みつけておくことは決して無意味ではない、と感じる。殆ど大半の童話やお伽噺が、その顛末に関わらず人々の心に刻まれているように。(2001/7/20・2004/06/16追記)