cinema / 『ALWAYS 三丁目の夕日』

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ALWAYS 三丁目の夕日
原作:西岸良平(小学館・刊) / 監督・VFX:山崎貴 / 製作:高田真治、阿部秀司、亀井修、島谷能成、平井文宏、島本雄二、中村仁、島村達雄、高野力 / 脚本:山崎貴、古沢良太 / 撮影:柴崎幸三,J.S.C. / 照明:水野研一 / 録音:鶴巻仁 / 美術:上條安里 / 装飾:龍田哲児 / VFXディレクター:渋谷紀世子 / 音響効果:柴崎憲治 / 音楽:佐藤直紀 / 主題歌:D-51『ALWAYS』(Pony Canyon) / VFXプロダクション:白組 / 制作:ROBOT / 出演:吉岡秀隆、堤真一、小雪、堀北真希、薬師丸ひろ子、三浦友和、須賀健太、小清水一揮、もたいまさこ、マギー、温水洋一、神戸浩、飯田基祐、小木茂光、石丸謙二郎、奥貫薫、麻木久仁子、ピエール瀧、木村祐一、松尾貴史、羽鳥慎一、増岡徹 / 配給:東宝
2005年日本作品 / 上映時間:2時間13分
2005年11月05日公開
公式サイト : http://www.always3.jp/
日劇PLEX2にて初見(2005/11/05)

[粗筋]
 昭和三十三年の春、舞台はまだ広い空のむこうに、建造中の東京タワーを臨む下町、夕日町三丁目。ここに向かい合わせに佇むふたつの家が、物語の主な舞台となる。
 一方の鈴木オートは、いささか短気な大黒柱・鈴木則文(堤真一)が単身立ち上げた自動車修理工場。いずれは大きな自動車会社に、という野望は抱いているけれど、如何せんその短気さが災いして従業員が居つかない。今度ふたたび雇ったのは、集団就職で東北の田舎町から上京してくる少女・星野六子(堀北真希)である。履歴書に記された「特技:自動車修理」という文字に惹かれて雇った彼女だったが、しかし連れてきた彼女は礼儀こそ崩さないものの、失望の色を隠せていなかった。
 鈴木オートのお向かいにあるのは看板もいい案配に傾いた茶川菓子店である。もともとは年老いたばあさんが経営していたが、数年前から親類の茶川竜之介(吉岡秀隆)が居候し、ばあさんが亡くなったあとは彼が厭々店主を務めている。竜之介はかつて芥川賞候補にもなったほどの小説家だったが、なかなか一流紙掲載が叶わず、いまは投稿しては落選を繰り返し、三流少年誌に連載している小説と駄菓子屋の収入とで細々と食いつないでいる。
 そんな竜之介だったが、ある日思わぬかたちで面倒を背負い込む羽目になった。商店街の隅で営業を始めた一杯飲み屋“やまふじ”に、女将のヒロミ(小雪)の美貌目当てでしけ込むことの増えた竜之介だったが、酔いに任せて大きな口ばかり叩いていたら、ヒロミの口車に乗せられて、身寄りのない男の子の面倒を見ることになってしまったのだ。その男の子・古行淳之介(須賀健太)はかつてヒロミが世話になっていた劇場の支配人(増岡徹)が連れてきた子で、劇場にいた踊り子のひとりが抱えていたのだが、いつか踊り子は淳之介を残して失踪、父親も知れない彼の扱いに苦慮してヒロミのもとに寄越されたのだ。
 まるっきり縁もゆかりもない赤の他人の子供を預けられた竜之介は、鬱陶しく感じながらも無碍に放り出すことが出来ず、とりあえず家に置くことにした。しかし奇妙な共同生活が始まって間もなく、意外な事実が判明した。この竜之介、竜之介が雑誌に連載している『少年冒険団』のファンで、一冊だけ持っていた掲載誌を、ボロボロになるまで繰り返し読んでいた。家に置いてあったほかの号を与えると、ものも言わず読み耽り、楽しげな表情を浮かべる淳之介に、竜之介は情が移るのを感じる。
 さて、話は変わって鈴木オートである。到着した次の日から早速六子に仕事をさせようとする則文だが、妙なことにからっきし使い物にならない。履歴書に書いてあった自動車修理は大嘘じゃないか、と則文が罵ると、ひたすら辛抱していた六子も遂に堪忍袋の緒を切った。そういう社長も嘘をついた、自動車会社じゃなくて自動車修理工場じゃないか、こんな仕事をさせられるなんて夢にも思ってなかった――彼女の言葉に則文もまた逆上した。妻のトモエ(薬師丸ひろ子)や息子一平(小清水一揮)の制止を振り切り家の扉を破り、慌てて茶川の店の押入に逃げ込んだ六子を般若の形相で追いかける。
 そんなに大きな会社に勤めたけりゃ勤めればいい、出来ないのならさっさと実家に戻れ、と叫ぶ則文に、六子は襖越しに「帰れません」と応える。まわりの人は、どうやら六子にも六子なりの事情があるらしい、と察するが、周りの見えなくなった則文の怒りは収まるところを知らない。六子にあてがった部屋から彼女の荷物を外へと放り投げる則文に、一平が思わぬ事実を突きつけた……

[感想]
 ……うーん、粗筋にすると何の話だかよく解らない。いま日本を代表する長寿漫画のひとつであるとはいえ、もともと無数の短篇を積み重ねているシリーズなので、二時間前後にわたる映画の尺を支えるエピソードがそうそうあるはずもなく、本編の構成もそれに倣って、登場人物の共通した短篇を折り重ねたような体裁を取っている。
 だが、その繋がりの緩やかさが、作品の世界観と相俟って非常に心地よい。粗筋に記したように、物語は基本的に鈴木オートの人々と茶川菓子店を中心とした三人というふたつの流れを交互に、ときおり交差させながら進む。基本的に別々の話が、ふとした拍子に合流して大騒ぎとなるさまは、穏やかな日常生活と、今よりもずっと密接だったご近所付き合いの雰囲気を窺わせて、昭和三十年代の下町らしい空気を物語の上でも再現するのに貢献している。作品に相応しい物語作りと言えるだろう。
 キャラクター造型もまた巧い。鈴木オートの人々は、短気だが人情味のあるお父さんに、お父さんの暴走を食い止めるしっかり者のお母さん、勘違いからそこへ雇われた田舎者の少女、という具合に比較的ステレオタイプながら、それ故に解りやすく個性が際立っており、親しみやすいけれど決して埋没しない。他方、茶川菓子店の茶川竜之介は一流の文学者を志しながらもなかなか大成せず、駄菓子屋の収入と三流少年誌への寄稿でどうにか糊口を凌いでおり、偏屈だが子供達にはなかなか慕われやすい不思議な人柄が実に個性的だ。そんな彼が最初は憧れ、やがて淳之介少年を介することで次第に砕けた付き合いをするようになる飲み屋の女将・ヒロミの纏う雰囲気も、退廃的ながらどこか凜とした雰囲気があって、マドンナとして実に際立っている。全体を貫く軸がないのを、個性の立った登場人物たちがうまく支えているのだ。
 そのほのぼのとした昭和三十年代の世界を、懐かしさと心地よさとで覆いながら、しかし随所に、彼らが必死に作りあげた結果を知っている我々の心の脆いところを突いてくる描写を挟んでいるのも却って好感を抱く。この方向で最も印象的なのは、六子が傷んだものを口にしてしまったことを契機に、鈴木社長が一念発起して冷蔵庫を導入する場面である。当時のいわゆる三種の神器が揃ってしまった、と喜ぶ家族を暢気に描く一方で、その外に自転車を走らせていた氷屋の男が、打ち棄てられた旧式の冷蔵庫(ガスによる冷却ではなく、氷を入れることで冷気を保っていたタイプ)を見つめているそのなんとも言い難い表情が、あとあとまで脳裏に焼きついて離れない。便利な生活が確実に色々なものを犠牲にしていることを象徴するこのシーンが、この長閑な世界観の孕む緊張をも体現している。
 そうして、批評をしていけば幾らでも辛辣になれるところを、巧みな匙加減で抑えていることも、このシーンからは察することが出来る。いずれは失われていく世界だけれども、いま映画に没頭しているあいだだけは夢の中に観客を置いておきたい、という心遣いが窺われるのが、尚更に快いのだ。
 しかし何よりも秀逸なのは、この世界観を囲う箱――建設中の東京タワーや蒸気機関車、玄関口だった頃の上野駅に路面電車など、昭和三十年代ならではの映像や空気を完全に再現した時代考証である。まだ高いビルの少ない空は広く、大通りから一歩入った路地では車よりも子供達のほうが我が物顔に振る舞っている。テレビなどまだまだ普及していないから、奮発して導入した鈴木家には最初の日に人が集い、力道山の勇姿に酔いしれる。丁寧に作り込まれたセットに、最先端のVFXを駆使することで、本当に昭和三十三年の世界にいるかのような錯覚を起こさせるほどだ。
 この緻密に再現された、成長期の日本の様子が、そのほのぼの・のんびりとした物語への感情移入をよりスムーズに、濃密にさせる。物語の展開は正直なところ、ある人物の扱いを除けばほぼ予定調和と言っていい単純さだが、しかし技術と趣向、それに細やかな配慮によって再現された時代の空気と重なると、これが驚くほど沁みる。クライマックスのあるシーンでは、基本的にどんな感動作でもあまり影響されることのない私が、不覚にも本気で涙ぐみそうになるほどだった。
 二時間二十分近い尺は平均よりやや長めで、体感時間もそれ相応になっている。しかし、よほどこの世界観が肌に合わない人でもない限り、観終わった瞬間に感じるのは、「もっとこの世界に浸っていたかった」という哀惜の念だろう。題名通りに夕日で飾られたラストシーンに何度でも舞い戻りたくなる、優秀な日本映画である――そして、やもすると過剰な装飾の代名詞に捉えられがちだったVFXという手法に、ようやく正しい光を当てたという意味で、一里塚ともなるべき傑作だ、と断言したい。

 キャラクターがいずれも際立っていたことは前述の通りですが、個人的にやっぱり注目してしまうのは、近頃彼女が出ているというだけで優先的にチェックする癖がついてしまった、堀北真希です。本編では集団就職で鈴木オートにやって来た東北出身の垢抜けない女の子の役を演じていましたが、これがまた良かった。
 最初に彼女を映画で観たときは、まだその硬さも相俟って魅力を醸しだしている、という危ういバランスの上に成り立っていましたが、本編では田舎育ちらしい雰囲気をきちんと作りあげながら、その上で丁寧に演技をしている。真っ赤なほっぺで、慣れぬ職場で必死にやり抜こうとする姿が実に健気で愛らしい。
 物語のなかで恋愛に絡むことなくその愛らしさを表現できるというのは、本物だと思うのです。改めて、今後も注目の“女優”である、と再認識した次第。でも贔屓の気持ちで批評眼が曇っていないという自信もあまりないので、本来の感想の枠からちょっと引いたところで口にしてみるのでありましたとさ。

(2005/11/07)


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