cinema / 『アルゼンチンババア』

『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る


アルゼンチンババア
原作:よしもとばなな(ロッキンオン刊/幻冬舎文庫刊) / 絵:奈良美智 / 監督・脚本:長尾直樹 / 脚本協力:金子ありさ / 撮影:松島孝助,J.S.C. / 照明:石田健司 / 美術:池谷仙克 / 録音:橋本泰夫 / 音楽:周防義和、小松亮太 / 主題歌:タテタカコ / 出演:役所広司、鈴木京香、堀北真希、森下愛子、小林裕吉、手塚理美、田中直樹、きたろう、岸部一徳 / 配給:松竹+KINETIQUE
2006年日本作品 / 上映時間:1時間52分
2007年03月24日日本公開
公式サイト : http://www.arubaba.com/
九段会館にて初見(2007/03/15) ※イベントつき特別試写会

[粗筋]
 涌井みつこ(堀北真希)の母・良子(手塚理美)が死んだ日、父・悟(役所広司)は行方をくらました。叔母・早苗(森下愛子)やご近所の人たちの手助けもあって辛うじて葬儀の手配などは何とかなったが、以後も待てど暮らせど父は戻らず――ある日、まったく思いがけないところで、発見された。
 みつこたちが暮らす町のはずれには、遺跡のような屋敷が建っている。ここにひとり暮らし、町の人間とも関わりを持たず、その過去も来歴も謎の年老いた女性――通称・アルゼンチンババア(鈴木京香)の存在と共に恐れられ、好奇心をもって眺められているこの屋敷に、よりによって悟は逃げ込み、半年も音信を断っていたのである。
 それを知ったみつこは自転車を漕いで単身、屋敷へと乗り込んでいったが、彼女の前に現れたアルゼンチンババア――本名ユリは、みつこの姿を見るなり激しく抱擁し、快く受け入れた。悟はこの屋敷の屋上で、暢気に石造りの曼荼羅を掘っており、すっかりユリという年齢も素性も知れない謎の女との暮らしに溶け込んでいる。
 いちどは場の雰囲気に飲まれてしまったみつこだったが、様々なことがどうしても許せず、父を取り戻すことを決意する……

[感想]
 試写会での鑑賞直前に、原作を読んで予習していた。そのため、本編がもともと“物語”と呼ぶよりは、『アルゼンチンババア』という特異な存在を軸にして、親子が自らの見舞われた不幸から脱却し、一風変わった幸せのかたちを手にしていく姿を、全体のイメージから描き出すような、如何にも文学的な趣向によって構築されていたことを理解しての鑑賞となり、結果的に如何に本編が努力して“物語”を抽出していったか、がはじめから把握できる状態での鑑賞となった。
 それ故に、原作に対する思い入れ方によっては、本編はかなり受け入れるのが難しい代物となっているのも解る。様々な要素を付け足して、原作にはない細部を付け足していった手法は雑多な印象を齎すだろうし、特に引っかかるのはタイトルロールたる『アルゼンチンババア』を鈴木京香が演じている点であろう。何せ“ババア”呼ばわりされているには如何せん彼女は若く美しい。風変わりな衣裳に身を包んでいても、人を寄せ付けないというよりは包容力をまず感じさせる雰囲気であるのも、「町の人々から忌避されている」というイメージからは隔たっている。
 ただ、もともと原作において彼女に関する描写で際立っているのは“鷲鼻”ぐらいのもので、それ以外は曖昧模糊としている。むしろある段階から、視点人物であるみつこはババア=ユリを美人と認めているし、南米に縁のあるエキゾチックな衣裳は、捉えようによっては浮浪者にも見えるが、しかし見方を変えればセンスの発露である。映画という、はじめからヴィジュアルを組み立てることを念頭とした表現手法において、こういう特殊な魅力を描き出すうえで、最初は老婆に見えるが実はよく見れば――というのを明示するのは困難を極める。作品としての狙いが後半における一風変わった関係性の構築であり、その軸となるのが『アルゼンチンババア』という人物の魅力と包容力にあるのなら、ババアと呼ばれつつも実際は若さも美しさも感じさせる鈴木京香の起用は最善だっただろう。映画が必ずしも原作を愛する人の思い入れのためだけに作られるものではなく、原作などまるで知らない人をも対象としていることを考えれば尚更だ。
 また、ババアと呼ばれつつも若く美しい造型は、作品の本質にある、どこか現実離れした印象を補強しているとも言える。何より、妻を喪うことへの恐怖に見舞われた男が頼る対象として、あからさまに年老いて枯れた印象をもたらす人物を使うよりはよほどグロテスクさは軽減される。賛否の分かれるであろう鈴木京香の起用だが、私はむしろ彼女だからこそ評価する。
 この点さえ割り切ってしまうことが出来れば、本編は充分にいい作品と感じられるはずだ。視点人物となるみつこの健気さやしばし的外れに陥る行動は微笑ましさと切なさ、滑稽さと痛ましさとをよく剔出している。演じる堀北真希の清新なイメージをよく拡げて、彼女のこれまでに出演したどの作品よりも魅力を引き出している点でも出色だ。そして、背景に悲劇があるとは思えぬ円やかな雰囲気と、見事なロケーションの確保による美しい映像は、日本映画らしさを留めつつもそこに縛られない独自の完成度を示している。
 ただ一点惜しまれるのは、作品の重要なポイントであるはずの、みつこがユリに対して心を許していく過程が端折られていることだ。もともと原作においては、かなり早い段階からなし崩し的に父がアルゼンチンババアのもとにいることも、アルゼンチンババアという存在そのものも許容してしまっている印象があるのを、物語としての掴み所に使われたために最初から強い反発を示させているのだが、その意地がかなり終盤まで貫かれてしまい、どこで彼女がユリに心を許したのかが解りにくくなっている。そのせいで、終盤における感動的な場面が、いささかインパクトを欠き緩い印象になってしまっている。みつことユリ、そして悟との歩み寄りの過程がもう少し丁寧に押さえられていれば、いっそう完成度は高くなっていただろう。
 原作では一種、完璧な“幸せのかたち”として結末を構築していたが、この映画版ではどこかに緩みが生じている。作中登場するモチーフが、決着しないかたちで終わっているためだ。しかしそのお陰で、原作よりもいくぶん懐は深まっているとも感じられる。原作をこよなく愛する人にとっては、あまりに不満のたくさん生じる出来かも知れないが、愛着よりも理解、そして一歩退いたところから評価できる人であれば、恐らく好感を抱く種類の仕上がりである。曖昧で、不完全さを留めた結末が却って快い余韻を残す、良質の映画である。

(2007/03/30)


『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る