cinema / 『リチャード・ニクソン暗殺を企てた男』

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リチャード・ニクソン暗殺を企てた男
原題:“The Assassination of Richard Nixon” / 監督:ニルス・ミュラー / 脚本:ニルス・ミュラー、ケヴィン・ケネディ / 製作:アルフォンソ・キュアロン、ホルヘ・ヴェルガラ / 製作総指揮:アルノー・デュテイユ、アヴラム・ブッチ・カプラン、ケヴィン・ケネディ、フリーダ・トレスブランコ、レオナルド・ディカプリオ、アレクサンダー・ペイン / 撮影監督:エマニュエル・ルベッキ,A.S.C.,A.M.C. / プロダクション・デザイン:レスター・コーエン / 衣装:アジー・ゲラード・ロジャース / 編集:ジェイ・キャシディ,A.C.E. / 音楽:スティーヴン・スターン / 音楽監修:リザ・リチャードソン / 出演:ショーン・ペン、ナオミ・ワッツ、ドン・チードル、ジャック・トンプソン、マイケル・ウィンコット、ブラッド・ヘンク、ニック・サーシー / アネロ&アピアン・ウェイ製作 / 配給:WISE POLICY×Art Port
2004年アメリカ作品 / 上映時間:1時間47分 / 日本語字幕:林完治
2005年06月11日日本公開
公式サイト : http://www.wisepolicy.com/the_assassination_of_richard_nixon/
銀座テアトルシネマにて初見(2005/06/11)

[粗筋]
“親愛なるレナード・バーンスタイン様。私の名前はサム・ビック(ショーン・ペン)――アメリカという名の広大な砂漠に存在する、三十億もの小さな砂粒のひとつです。私はこれからある計画を実行に移し、尊大な権力者達に目にものを見せてやるつもりです……”
 そんなメッセージを収めたテープが高名な指揮者レナード・バーンスタインに宛てて投函されたのは1974年2月22日のこと。その日から遡ること約一年前は、物語の主人公であるサム・ビックの頭のなかにはまだこんな大それた計画は生まれておらず、寧ろ将来に対して漠然とながら希望を抱いていたのだ。
 なかなか決まった職に就かず、最近まで兄ジュリアス(マイケル・ウィンコット)の経営するタイヤ販売会社に勤めていたが金銭問題などが理由でけっきょく辞めることになり、とうとう愛妻マリー(ナオミ・ワッツ)からは「無事定職に就き、安定した生活が営めるようになるまで」という条件で別居を言い渡されていたサムだったが、事件より約一年前のその日にようやく事務用家具販売会社の販売員という職を得ることに成功し、いささか有頂天になっていた。いずれは独立し共同で事業を興す約束をしている自動車修理工の友人ボニー(ドン・チードル)や妻のもとへ赴き、名刺を見せては無邪気にはしゃいでいたが、しかし興奮は長く続かなかった。
 新しいボスであるジャック・ジョーンズ(ジャック・トンプソン)はビジネスマン向けの啓蒙書を信奉する男で、商才に優れる一方で哲学に反する行動をいっさい受容しない独裁者的な狭量さを持っている。妻との想い出として大事にしていたヒゲを剃るようにサムに命じたり、時として従業員である彼までも欺くような言動で客を騙して利益を貪るジョーンズのやり口に、サムはどうしても馴染めない。黒人の経営者であるボニーはその類の苦労は掃いて捨てるほど経験しており、気に病むことはない、と宥めるが、サムはそんな上司から離れたい一心で、ボニーとの独立に向けた準備を進める。
 職を得たことで恢復できると信じていた妻との絆も、相変わらず亀裂を生じたままだった。寧ろ、生活のためと割り切って扇情的な制服に身を包んでウェイトレスの仕事に就き、週にいちどだけサムが子供達と交流する際にも苦い表情を覗かせるマリーとの溝は日増しに深まっている。商売のために嘘を吐くことさえ潔しとしないくせに、自分は体面を取り繕うことに必死なサムと、現実的なものの捉え方をするマリーとでは、もはや相容れなくなっていた。
 就職から約半年、遂に我慢の限界に達したサムは造反を起こし、まだ中小企業庁から融資が可能か否かの審査が下りもしないうちにボスと対立、その日のうちに職を辞した。しかし、当初役人から伝えられていた時期に結果の通知が届くことはなく、ポストを開けては失望する日々が続く。そして、勇姿の結果に先んじて役所から届けられたのは、マリーの申し立てにより離婚が成立した旨を伝える書状だった。深夜、慟哭しながら妻に電話をかけるサムだったが、ようやく見つけ出した彼女は、既に別の男と一緒にいた。間もなく、中小企業庁からも待望の報せが届いた――答は、サムの望んだものとは正反対であった。
 失意に暮れていたサムにとどめを刺すように、兄のジュリアスが彼のアパートを訪ねてきた。先程、ボニーを保釈してきた、とジュリアスは言う――起業を急ぎすぎたサムはジュリアスの会社に侵入し、虚偽の発注をしていたのだが、その手違いによってボニーが窃盗の容疑を受けてしまったのである。ジュリアスは自ら責任を負い、ボニーを家に帰したが、彼にとってもそれは我慢の限界だった。身勝手で周囲を顧みず、いつまで経っても成長しない弟に見切りをつけ、絶縁を申し渡して出て行った。
 そうしてサムはすべてを失った。ひとり物思いに耽り続けたサムは、すべての原因が社会の歪んだ制度そのものにある、と考えるようになる。やがて、その矛先はひとりの男に向けられる――時の大統領、国民を欺き二度にわたって選出されながら、いま疑惑の渦中にある男、リチャード・ニクソンに。

[感想]
 2001年9月11日、旅客機をハイジャックし巨大な爆弾として標的に向けて衝突させるというテロ攻撃は全世界に衝撃を齎した。だが、遡ること27年も前に同様の計画を立てた男がいた――本編は実在したその男が、未然に阻止されたとはいえ計画を立案し、実行に移そうとするまでの状況的、心理的な経緯を、フィクションを交えつつ描いた作品である。
 序盤から中盤あたりまでは、およそテロリストの物語とは到底思えない展開が続く。予告として描かれる、計画実行直前の彼の姿だけがその剣呑な気配を窺わせるだけで、以降時系列に添って描かれていくサム・ビックという男の暮らしぶりは、標準よりも思い込みが強くそれ故に孤独に陥る傾向が強い、といった軽い逸脱が認められる程度のごく平凡な男に過ぎない。黒人による政治集団ブラック・パンサー党の主張に共鳴し寄付に訪れたり、ニュースで流れるニクソンの演説にしばし顰めっ面を覗かせるぐらいで、もともと何らかの断固たる思想や政治的信念の持ち主というわけでもない。世間と自分の願望との乖離に悩み、どうにか平穏で幸福な生活を得ようと躍起になっているだけで、当初は社会に対して何らかの働きかけをしようなどとは微塵も考えていないように映る。
 そんな男が国家への反逆を試みるまでの推移が本編の大半を占めているが、この過程のリアリティが凄まじい。サム・ビックの妄想癖や思い込みは少々行きすぎており、同じ状況にあってもそこまで極端な行動には移らないだろう、と思われる場面が多々あるが、そこに至る心理的な伏線の張り巡らせ方が巧みだ。上司に対して当初は唯々諾々と従っているサムだが、妻や友人には愚痴をこぼし、屡々激昂するさまを見せて、終盤の暴発に繋がる性格の一端を垣間見せる。また、政治的主張には乏しいながらも報道に目を配っていて、随所で当時のニクソン政権を評してみせる。是非はさておき、サムの主張は必ずしも自身の言動と首尾一貫しておらず、それが終盤での自分以外の犠牲をほとんど顧みない計画実行への枷を外している。彼がこういう人物だったからこそ、余人なら寸前で踏み止まったかも知れない偏執的な思考に陥ってしまったことを理由付けしているのだ。
 誰からも好かれるようなタイプではない――寧ろ意図しようとしまいと人を遠ざけ自らを孤立させがちな人柄であるがゆえに、観客は彼の主張に賛同しながらも、泥沼に陥り破滅的なテロリズムに傾倒していくさまを客観的に眺めることになる。だが、その結果として余計に彼のような人間を受け入れることが出来ず、翻意させることも出来ない社会の制度に対して疑問を抱かされる。たとえそうなる資質があったとしても、ただの変わり者で済んだはずの彼を追い込んでいるのは社会のほうだ、と気づかされるのは、政情を随所に織り込みながら、万人に受け入れられることのない彼のキャラクターを丁寧に、説得力たっぷりに演じきったショーン・ペンの功績が大きい。やもすると平板になりかねない中盤までを支えているのは実質、ショーン・ペンの才能であると言い切ってもいいだろう。
 しかし、終盤に来て物語は加速度的に重さと緊迫感とを増す。その直前までの描写も丁寧な伏線とディテールとによって支えられているが、ラスト20分ほどの描写はすべて中盤より以前で描かれた社会情勢に家族や職場、友人達の立場、サムの行動原理、心理的変遷によってほとんど一片の無駄もなく組み立てられている。下準備のためにサムが取った行動、イメージトレーニングの様子、直前に会いに行ったとある人物の前での表情や台詞、いざ空港に立ってからの計画の変化と、唐突でもあり約束どおりでもある終焉。計算され尽くしたこのクライマックスは、本編が実話に基づいていること、その描き方などから予想されるそのままなのに、異様な衝撃を齎し、あまりに空虚で重い余韻を残す。
 更にその余韻を深めているのが、決着のあとでわずかに描かれるエピローグである。命を賭したサムの計画は、直後のテレビ報道では恐らく彼の想像していたより遥かに小さな扱いを受けている。アナウンサーが手短に詳細を語るそのテレビを挟んだ向こう側で、サムに縁のあった人々が普段と変わらぬ生活を送り、匿名のままの報道に興味を示すことさえしない。ごくごく自然でリアルな描写が、結末の空虚さをより強烈に際立たせる。
 決して珍しくもない個性の持ち主である男が、一歩間違えば世界を震撼させかねなかった計画を着想し実現に移すことが出来るという現実と、それすら結局は容易く看過されてしまうというもうひとつの現実。屈折し欺瞞に充ち満ちているのは確かだが、それでも一片の真理を含んでいた彼の言動。そんな彼を孤独に追いやり、極端な行動へと走らせた原因の一端は、そんな彼を許容しきれない社会にも確実にあるのだ、ということ。他にも無数のメッセージを混然と、しかしほぼ剥き出しのまままっすぐに突きつける本編は、間違いなく傑出したドラマであると思う。三十年も昔、現実にあった出来事をベースに描きながら、その主題がいまもって色褪せていないどころか、更に説得力を帯びて迫ってくる現実が、何よりも恐ろしいことかも知れない。

(2005/06/11)


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