cinema / 『バーバー』

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バーバー
原題:“The Man Who Wasn't There” / 監督:ジョエル・コーエン / 脚本:ジョエル・コーエン&イーサン・コーエン / 製作:イーサン・コーエン、ジョン・キャメロン / 音楽:カーター・パーウェル  / 撮影:ロジャー・ディーキンズ / 出演:ビリー・ボブ・ソーントン、フランシス・マクドーマント、マイケル・バダルコ、ジェームズ・ガンドルフィーニ / 配給:Asmik Ace
2001年アメリカ作品 / モノクローム / 上映時間:1時間56分 / 字幕:戸田奈津子
2002年04月27日日本公開
2002年12月21日DVD日本版発売 [amazon|限定版:amazon]
公式サイト : http://www.barber-movie.com/
日比谷シャンテ・シネにて初見(2002/05/11)

[粗筋]
 エド・クレイン(ビリー・ボブ・ソーントン)は、何も初めから床屋になりたかったわけではない。ダブルデートで初めて会って、「無口なところが好き」と言われ僅か2週間で結婚話まで持ち出してきた妻のドリス(フランシス・マクドーマント)の実家が床屋だったから、始めたに過ぎない。自ら始めた店を30年守ってきたドリスの父が死ぬと、店の名義はドリスの弟フランク(マイケル・バダルコ)が相続し、エドはその助手として鋏を扱うようになった。特に難しい仕事ではなく、野心のないボスの下でエドは人生を浪費しつつあった。ドリスの方は、どうやら職場であるデパートの雇われ社長ビッグ・デイヴ(ジェームズ・ガンドルフィーニ)と密かに通じ、新たに開業する支店の支配人に抜擢されようか、というのに。
 ある日の閉店間際、駆け込みで一人の客が訪れた。フランクは断ろうとするが、エドは彼を先に帰し、自分がカットすることにした。クレイトン・トリヴァー(ジョン・ポリト)と名乗るその客は、商談のために町を訪れたが成果なしで引き上げねばならないとエドに愚痴をこぼす。画期的な技術を用いた事業を興すため、出資者を捜しにわざわざやって来たという。――その夜、エドはトリヴァーの宿を訪れ、自分が出資者になる、と告げた。金は一週間後までに工面すると言って。
 数日後、デパートのパーティーの席上で、エドはビッグ・デイヴに呼び出され、相談を受ける。ある人物との不倫をネタに恐喝されている、と言うのだ――エドは驚愕する。何故なら、ビッグ・デイヴに脅迫状を送りつけたのは他ならぬエド自身で、ネタというのもドリスとの不倫をエド自身にばらす、というものだったからだ。妻であるアン・ナードリンガー(キャサリン・ボロウィッツ)との縁がもとで雇われ社長の座に就いただけのデイヴにとって、1万ドルは重い。工面するためには、新しい支店の計画を断念せねばならなくなる。「払うしかない」と告げるほかに、エドは言葉を持ち合わせなかった。
 結局、デイヴは金を渡した。エドは指定した場所から金を回収すると、その足でトリヴァーのもとを訪れ契約を交わす。万事うまくいった、と思った。だが、ドリスの親類の結婚パーティーから帰ってきた夜、デイヴに呼び出されて彼の店を訪ねると、エドは彼に打擲される。エドが金を回収し、トリヴァーに渡す一部始終を、デイヴは見届けていたのだ。殺意に狂ったデイヴに追い詰められたエドは、デイヴのデスクにあった葉巻切りで、デイヴを刺し殺してしまう……

[感想]
 面白うて、やがて悲しき物語。面白い、といってもその要素はブラックで、吹き出すような笑いよりも声にならない苦笑い、とでも呼ぶべき感覚が横溢し、振り返ると悉く人間の性を的確に捉えていて何ともいえない悲しみが込み上げてくる。善人とか悪人とかいう腑分けとは無縁に、確かにいそうな登場人物ばかりが並び、彼らが決してトチ狂ったわけでもなく普通に転落していく様が兎に角滑稽で哀れなのだ。
 言われているほど読めない筋ではない――というのは相変わらず作り手の見地から判断しているからで、殆どの観客にとっては「なんでそうなる?!」という展開も少なくないだろう。しかし、生じる出来事ひとつひとつは現象なり役者の演技なりに早いうちから伏線が張られており、その見事な収束ぶりは特筆に値する。とりわけ冒頭近く、エドが頼まれてドリスの足を剃っているシーンの効果は絶妙。
 出色はモノクロームの画面である――とは妙な表現だが致し方ない。台詞にも気配りの窺える丁寧な脚本とプロットも素晴らしいが、画面から色彩を奪うことでいたずらに感情を煽り立てず、深々と透徹した世界を連ねていく手管は絶妙。ほぼ全編通してそのフレームの中に収まり、黙々と煙草をふかし続けるビリー・ボブ・ソーントンの存在感もものを言っている。プログラムに寄せられた幾つかの文章でも触れている通り、本編におけるビリー・ボブの格好良さは並大抵ではない。
 ――しかし、奇妙なことだが、観客にとって圧倒的な存在のビリー・ボブ=エドは、当初から受動的な生き方を選択しており、些細な選択ミスがきっかけで転落していくと、次第次第に作中の他の人物からはさも「存在しないもの」のように捉えられるようになっていく。あれ程の空気を醸し出しながらも、しかし次第に希薄になっていくエドというキャラクターがきっちり描かれている。殆ど神懸かりな演技と表現なのである。
 何よりも凄いのは、これほど悲惨な物語であるのに、そうした表現と演技とが綺麗に噛み合った結果、余韻はこの上なく透き通っていることだ。あらゆるパーツが理想的な形で機能したハードボイルド、と賞賛をこめて呼ばせていただく。

(2002/05/11・2004/06/22追記)


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