cinema / 『ビフォア・サンセット』

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ビフォア・サンセット
原題:“Before Sunset” / 監督:リチャード・リンクレイター / 原案:リチャード・リンクレイター、キム・クリザン / 脚本:リチャード・リンクレイター、イーサン・ホーク、ジュリー・デルピー / 製作:アン・ウォーカー=マクベイ / 製作総指揮:ジョン・スロス / 共同製作:イザベル・コレット / 撮影:リー・ダニエル / 編集:サンドラ・エイデアー / 衣装:ティエリー・デレトル / 出演:イーサン・ホーク、ジュリー・デルピー / ワーナー・インディペンデント・ピクチャーズ&キャッスル・ロック・エンターテインメント提供 / ディトゥアー・フィルム製作 / 配給:Warner Bros.
2004年アメリカ作品 / 上映時間:1時間21分 / 日本語字幕:伊原奈津子
2005年02月05日日本公開
公式サイト : http://www.warnerbros.jp/beforesunset/
恵比寿ガーデンシネマにて初見(2005/02/19)

[粗筋]
 運命的な一夜から九年が経過した。
 あの夜の経験を小説化した本がベストセラーとなり、キャンペーンのために各国を巡っていたジェシー・ウォレス(イーサン・ホーク)はフランス・パリの地で彼女――セリーヌ(ジュリー・デルピー)と再会を果たす。だが、帰りの飛行機が発つまで、いまからほんの三時間程度しかない。歩きながらふたりは時間を惜しむように会話を交わす。
 九年前の別れ際、ふたりはその半年後にウィーンで再会すると約束した。セリーヌは行けなかった。約束のその日、12月16日の直前、彼女の愛する祖母が亡くなったから。ジェシーも行かなかった、と応えたけれど、理由を応えられなかったことで、本当は行っていたことをあっさりと悟られる。ほんの二・三日ばかり滞在した。駅に滞在先を書いた貼り紙を残したが、やって来たのは娼婦だけだった……
 その後セリーヌは大学を出たあといったんは政府の仕事に就くが嫌気を覚え、間もなくミドリ十字に転職、各国の環境運動に携わるようになった。そのときの経験談を巧みに語る彼女に感銘を受けながら、ジェシーは自分がしごく詰まらない毎日を送っていることを実感する。
 互いの来し方、考え方を語りながら、ふたりは手探りで互いに対する想いを知ろうとしていた。そうこうするうちにも、出発の時間は近づいてくる……

[感想]
 書くほど粗筋がありません。それもそのはずで、物語は主人公のひとりジェシーが飛行場に赴かなければならない約80分間の出来事をリアルタイムで追っており、描かれているのはそのあいだの、まるで限られた時間を惜しむかのようにほとんど途切れることなく続けられるふたりの会話だけ。まともに台詞のある登場人物も僅かで、喋ったとしても主人公ふたりの状況を補強するような文脈なので背景ていどの存在感しかない。この“ふたり芝居”同然の、しかも状況的には大幅な変化がないシナリオ故に、筋というものがほとんどないのだ。
 なのに目が釘付けになる。細かな会話に、ふたりが歩んできた九年間の出来事が緻密に織り込まれ、一言としてゆるがせにしていないからだ。序盤はセリーヌが自らの活動とそれにまつわる信念を語り聞かせることが中心になっているのだが、対するジェシーの受け答えが、ほとんど自らのことを語っていないのにその鬱屈を静かに物語る。この序盤の言動が後半で呼応し、会話だけだというのに――しかも大袈裟な音楽など一切用いていないにも拘わらず、明確なクライマックスを演出しているのである。練りに練ったダイアローグが、下手に作られた筋などよりも遥かに豊潤な世界を形作っている。
 もうひとつ、本編の端倪すべからざる点は、カメラワークと主人公ふたりの周辺の描き方だ。一見ノンストップで描かれている本編だが、実際には舞台がストレートに繋がっているわけではなく、ロケーションの位置がずれていたりするわけで、たとえば主人公ふたりの動く場所に予めカメラを配しただ単純に追っかけていって、適当に編集していく、という格好で作れるわけではない。同じ場面で異なるアングルから撮影している、ということをごく普通にやっている、ということは撮影そのものはノンストップで行われておらず、同じシーンでも何度かカメラの位置を変え、メイクを整え、舞台を設定し直し、ということをやっているはずなのだ。本編はそれをまったく感じさせない。本当に街のなかを、ふたりが止めどなく会話しながら彷徨い歩いているように見えるのだ。簡単なようでいて、この組み立て方は一筋縄ではいかない。例えば、移動するふたりをしばらく背後からカメラが追っている。前方には一人の男性が新聞を片手に佇んでいるが、やがて主人公たちのほうへ向かって歩いてくる。カメラはこんど、ふたりの前方に切り替わる。しばらくすると、カメラの横から先程の男性が現れて奥へと立ち去っていく、という具合に、だ。このごく自然な変化を、全篇に亘って途切れることなく行っている。想像を絶するほどの気配りが必要なのだ。
 翻って、ここだけはノンストップでカメラを廻すしか方法のない場面での役者ふたりの、まったく不自然さを感じさせない演技にも頭が下がる。それが特に顕著なのが終盤、ふたりは船の上、続いて車のなかで会話を続けている。こちらは乗物の移動速度を考えて会話を行わなければいけない場面であり、この距離のあいだにここまでの会話を違和感なく自然にこなさなければいけない、というプレッシャーがあるはずなのに。
 ほとんど主人公ふたりを撮しているように見える映像も、その実パリの美しい景色が静かに演出を助けており、その配分もまた絶妙だ。季節は初夏、だが石造りを中心とした涼しげな建物や風物が、その光と影でもって主人公ふたりの感情と折り重なって可憐な彩りを添える。
 ひたすら“表現”することに淫しながら、しかし紛う方なきラヴストーリーであるのは、序盤の会話を巧みに受けた終盤の描写が物語る。特に、ラストでセリーヌがうたう歌、それからの会話のウイットに富んだことといったら。恐らくほとんどの観客の期待を裏切るエンディングも、企みのうちだろう。それはかなり早い段階でジェシーが口にした台詞が裏打ちしている――あの言葉を受けてなお「尻切れトンボだ」と感じるようなら、上っ面しか撫でていないにも程がある。また十年ほどのちに作られるであろう続編を、本編の結末を踏まえて想像しながら待つ、という楽しみさえあるというのに。
 そのくせ雰囲気を体感するだけでも充分に面白いとも思える、のがまたただごとではない。全篇を支えるパリの空気もさることながら、常に本気で言葉を交わしあい、相手の言葉に耳を傾けながらも細かな仕種に湛える情感が素晴らしいのだ。環境団体での仕事ぶりを、苦悩を交えつつも情熱たっぷりに語るセリーヌに対するジェシーの眼差しや、車のなかで自らの現在の境遇を語るジェシーに対するセリーヌの所作の饒舌さ、そうしたものを味わっているだけでも心地よい。
 筋なんかなくとも、明確なポリシーと繊細な気配り、そして役者の演技力さえあれば映画は成立するし、感動さえ齎せるということを驚異的なレベルで証明した傑作。少なくとも私にはひとつとして文句のつけようがありません。

(2005/02/19)


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