cinema / 『奥さまは魔女』

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奥さまは魔女
原題:“Bewitched” / 監督:ノーラ・エフロン / 脚本:ノーラ・エフロン、デリア・エフロン / 製作:ノーラ・エフロン、ダグラス・ウィック、ルーシー・フィッシャー、ペニー・マーシャル / 製作総指揮:ジェームズ・W・スコッチドポール、スティーヴン・H・バーマン、ボビー・コーエン / 撮影監督:ジョン・リンドリー,A.S.C. / 美術監督:ニール・スピサック / 編集:ティア・ノーラン / 衣装デザイナー:メアリー・ゾフレス / 音楽:ジョージ・フェントン / 出演:ニコール・キッドマン、ウィル・フェレル、シャーリー・マクレーン、マイケル・ケイン、ジェイソン・シュワルツマン、クリスティン・チェノウィス、ヘザー・バーンズ、ジム・ターナー、スティーヴン・コルバート、デヴィッド・アラン・グリア、スティーヴ・カレル / 配給:Sony Pictures
2005年アメリカ作品 / 上映時間:1時間43分 / 日本語字幕:戸田奈津子
2005年08月27日日本公開
公式サイト : http://www.sonypictures.jp/movies/bewitched/
VIRGIN TOHO CINEMAS 六本木ヒルズにて初見(2005/09/08)

[粗筋]
 映画の都ハリウッド。ここにある日、転居してきたひとりの女性が、このお話の主人公である。純粋で、頭にとびきりのつく世間知らずな彼女の名前はイザベル・ビグロー(ニコール・キッドマン)。彼女がこの町に望んでいたのは、ごく普通の生活と、ごく平凡な恋愛だった。気の多い父ナイジェル(マイケル・ケイン)のように、指を弾くだけで手に入れられるような幸福にはもううんざりしていた――実は彼女、魔法使いの両親のあいだに生まれた、正真正銘の魔女である。
 しかし習慣とは恐ろしいもので、ちょっとでも困難に遭遇するとすぐに魔法に頼ってしまう。お金の使い方も稼ぎ方も知らないイザベルの“人間”生活は、なかなかに前途多難そうであった。
 一方、同じくハリウッドにもうひとりの主役がいた。彼の名はジャック・ワイヤット(ウィル・フェレル)――かつては銀幕の大スターだったが、主演映画が二本立て続けに外れてしまい、すっかり落ち目になっている。そのうえ妻のシーラには逃げられ、公私ともに冴えない男であった。
 そんな彼のためにマネージャーのリッチー(ジェイソン・シュワルツマン)が持ってきた仕事は、あの『奥さまは魔女』をリメイクしたテレビ・シリーズの企画。ジャックにダーリンの役を、というオファーであったが、そう聞いてジャックは落胆を隠せない。そうでなくても映画からテレビに格下げ、という意識があったのに、オリジナル・シリーズでは途中で役者が変わったことにも気づかれないような脇役を宛がわれたのだから、それも当然だった。
 リッチーの提案もあって、ジャックは敢えて傲慢なスターを演じ、ヒロインであるサマンサには無名の役者を起用、オリジナルとは一線を画して、ダーリンに焦点を当てた作品にするように求める。渋々承知したスタッフたちだったが、新しい“サマンサ”探しは思いの外難航する。あの特徴的な鼻の動きを再現出来る無名の女優になど、そうそう簡単にお目にかかれるものではなかったのだ。
 だがある日ジャックは、偶然訪れた本屋で、まさしくサマンサの鼻を持った女性を発見する。意を決して彼が声をかけたその女性は他でもない、人間の暮らしに憧れる魔女・イザベルだった。
 魔法を使えるという事実を隠し、平凡に暮らすことを夢見ていたイザベルは最初、ジャックの申し出を拒んだ。だが、必死に彼女を説得するジャックの、「君が必要なんだ」という言葉が決めてとなる――それは、父のように指をひとつ弾くだけで叶うのとはまるで違う、ごく普通の恋愛を欲していたイザベルが、いつか聞きたいと願っていた言葉だった。ジャックの感情さえ過大評価してしまう勢いでほだされてしまったイザベルは彼の頼みに頷いてしまう。
 本読みの時点で、イザベルの演じるサマンサは、当初新人の起用に難色を示していたスタッフにも好評を以て受け入れられた。それはそうだ、台詞にせよアドリブにせよ、イザベルの言葉には演技では補いきれない“実感”が伴っていたのだから。
 だが、彼女のあまりの評判の良さに、ジャックは危機感を覚える。愛する夫という位置づけながら、もともと『奥さまは魔女』のダーリンというのはオリジナルにおいては決して美味しい役どころではない。だからこそ無名の女優を起用しろ、と提案したのに、こうも理想的な配役がされてはいよいよ彼の役者生命が危うい。そこでジャックとマネージャーのリッチーは一計を講じる。スタッフに働きかけてサマンサの台詞を削り、彼女の活躍の場を減らす代わりにダーリンの存在感を膨らませたのだ。
 作戦はうまく行ったように見えた。純粋すぎるイザベルは素直に現場の雰囲気を楽しみ、自分が軽んじられていることに気づかなかったのだ――軽率なジャックたちが、自分が背後にいると知らず、うっかりそのことを漏らすまでは……

[感想]
 実物を観たことはなくてもその設定ぐらいならたぶん知らぬ人のない人気ドラマ・シリーズ『奥さまは魔女』のリメイク、と聞けば、正直期待よりも不安を覚える人のほうが多いだろう。かくいう私も、どこかでそういう情報を耳にしたとき、果たして大丈夫か、と心配したものだ。幾ら主演が容姿と演技力とを兼ね備えたニコール・キッドマンであっても、視聴者(観客)のなかで完璧なまでに固まったイメージに新たな“サマンサ”像を上書きするのは容易な業ではない。
 まずその点から考えて、本編の着想は極めて優れている。リメイクそのものではなく、リメイクに携わる人々の姿を描くことで、観客が先入観に曇った目で登場人物を眺める危険を巧みに回避している。そのうえ、主役である魔女を本物の魔女が演じる、という捻りを利かせたことで、世界観そのものを原作に近づけることにも成功しているのだ。
 キャラクター造型についても、原作の雰囲気を損なっていない。作中作でサマンサの母エンドラを演じるアイリス・スミスソン(シャーリー・マクレーン)はもとより、イザベルの父ナイジェルやクララおばさんなど、オリジナルとは無縁でもその誰かを彷彿させるキャラクターを設けているのが巧みだ。
 その一方で、気になると言えば気になるのが、序盤でのイザベルの特徴付けである。大抜擢の際の経緯を思えばこれでなければ拙かったとはいえ、いささか常識離れした世間知らずとして描かれているのだ。お金の使い方を知らず、トランプを魔法でクレジット・カードにして支払いを済ませてみたり、収入を得るための仕事というものすらいまいち理解していない。彼女の発言や父との会話を聞く限りでは、いわゆる魔法界であってもテレビはあるようだし基本的な通念は一緒だと思われるのだが、いったいどう育てればここまで世間知らずになるのだろう。
 但し、そうした個性は作品の本質――ラヴ・コメディという価値観にはきちんと合致している。イザベルのそんな極端なくらいの純粋さが、基本的に善人なのだけれど、落ちぶれてしまうという不安から傲慢を気取り、過剰なまでに自分を引き立てようとするジャックのキャラクターと遭遇したとき、恋するという気持ちの滑稽さと苦さとを醸成する。彼女がああまで浮世離れしていなければジャックの頼みに頷きもしなかっただろうし、そうすることで本当の恋のつらさを認識することもないだろう。
 ジャックにしても同様だ。彼は自分の見つけてきた新しい“サマンサ”が正真正銘の魔女であることを知らない。本物だからこそ滲み出るリアリティもイザベルの才能だと思いこむ。だからこそ自分の影が薄くなることを危惧し、余計な策を巡らせて自らの首を絞める羽目になる。
 ジャックの策を知って彼を憎むイザベルだが、一方で彼の間抜けな部分を愛らしいと感じる自分も否定出来ず悩む。人間の友人たちに相談しても答えは出ず、また魔法を使って彼の愛を得てもそれは本物ではないと感じてしまう――こんな展開は、魔法という設定があってこそだ。
 これだけに限らず、魔法という概念は随所に役立てられている。ドラマの撮影中にイザベルが魔法を使ってジャックに仕返しをする場面、父が彼女に忠告するときの一風変わった作法、また魔法というものが実在しているからこそ利くユーモアも多数鏤めてある。
 とりわけ秀逸なのは、紆余曲折のすえようやく辿りつくクライマックスにおいて、ジャックの背中を押す手口である――これから御覧になる方の楽しみのために詳述は避けるが、これほど原作の設定と世界観を見事に活かしながら、無粋に陥らない盛り上げ方もそうそうあるまい。このクライマックスの巧妙な点は、そこで生じているある“謎”について説明をしなかったことだ。よくよく物語を振り返ってみれば、おそらくこれが正解だろう、というものに辿りつくけれど、作り手は保証してくれない。敢えて想像する余地を残して締めくくっているのが、実に洒落ていていい。
 大前提のところで思いっ切り捻りを利かせながら、原作に対して最上級の敬意を払った描写を細かく鏤め、なおかつラヴ・コメディとして面白可笑しく、しかも洒落た形で幕を下ろす。こんなにケチの付け所のないラヴ・コメディもちょっと珍しい。
 うるさ型や原作のファンを納得させながら、べつだん映画マニアでない恋人を連れて行っても外すことのない、真に良質の娯楽映画である。

(2005/09/08)


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