/ 『ブラック・ダリア』
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『light as a feather』トップページに戻るブラック・ダリア
原題:“The Black Dahlia” / 原作:ジェイムズ・エルロイ(文春文庫・刊) / 監督:ブライアン・デ・パルマ / 脚色:ジョシュ・フリードマン / 製作:アート・リンソン、アヴィ・ラーナー、モシュ・ディアマント、ルディ・コーエン / 撮影監督:ヴィルモス・ジグモンド,A.S.C. / プロダクション・デザイナー:ダンテ・フェレッティ / 編集:ビル・パンコウ,A.C.E. / 衣装:ジェニー・ビーヴァン / 音楽:マーク・アイシャム / 出演:ジョシュ・ハートネット、スカーレット・ヨハンソン、アーロン・エッカート、ヒラリー・スワンク、ミア・カーシュナー、マイク・スター、フィオナ・ショウ、パトリック・フィッシュラー、ジョン・カヴァナー、レイチェル・マイナー、ビル・フィンレイ、ジェミマ・ルーパー、ジョン・ソラーリ、リチャード・ブレイク / 配給:東宝東和
2006年アメリカ作品 / 上映時間:2時間1分 / 日本語字幕:松浦美奈
2006年10月14日日本公開
公式サイト : http://www.black-dahlia.jp/
TOHOシネマズ六本木ヒルズにて初見(2006/10/20)[粗筋]
1947年、ロサンゼルス。元ボクサーである警官バッキー・ブライカート(ジョシュ・ハートネット)が、やはり元ボクサーであり、上層部の目論見からリングで拳を交えたリー・ブランチャード(アーロン・エッカート)と特捜部でコンビを組むようになって間もなく、異様な事件が発生した。
リーと張り込み中に銃撃戦となった場所の、建物を挟んだ向こう側で、白人女性の惨殺屍体が発見されたのである。唇は口角から耳にかけて切り裂かれ、躰は腰部で二分されていた。女性の名はエリザベス・ショート(ミア・カーシュナー)。女優になるため、目立つことを前提に黒ずくめの服装をし、主に海兵相手に奔放な暮らしを送っていた人物だった。このとき、バッキーとリーは凶悪な連続暴行犯レイモンド・ナッシュを追っていたが、リーはナッシュが管轄外に逃亡したことにしてまで、エリザベス・ショート殺しを追う意を固める。リーと同棲し、彼に学費などの全面的な援助を受けているケイ・レイク(スカーレット・ヨハンソン)はリーの身を案じ、事件を離れるよう懇願するが、リーは聞く耳を持たず、リーに対して恩のあるバッキーは彼女に同意しながらも彼を止めることが出来なかった。
単独で動くようになったリーを補うように、バッキーはひとり捜査に携わる。かつてエリザベスが滞在していたのと同じアパートに暮らす女は、彼女が映画出演のためのスクリーン・テストを受けたこと、また15歳の少女ローナ(ジェミマ・ルーパー)と一緒に男装の女と話をしていたことを証言する。男装の男の行方を辿り、レズビアンの集まるバーを訪れたバッキーは、容姿、服装共にエリザベスを彷彿とさせる、だが遥かに優雅で退廃的な空気を纏った女を見出す。彼の視線に気づいた女はすぐさま逃げるように店を出て行ったが、車のナンバープレートからバッキーは彼女の居所を割り出し、後日待ち伏せする。
その女の名はマデリン・リンスコット(ヒラリー・スワンク)――ハリウッドを中心とした土地開発で財を成したエメット・リンスコット(ジョン・カヴァナー)の娘、つまり地元の名士であった。ふたたびバーに現れたマデリンに接触したバッキーは、ふたつの条件で彼女から証言を引き出すことに成功する。やはり彼女はエリザベスと面識があった――事件と無関係であることを確認するため、バッキーは後日、実際の理由を伏せてリンスコット家を訪ねた。
ただ話を聴き、無関係であることを確認し、それからマデリンと情事に溺れることが目的だったはずが、もとボクサーの彼の名をエメットが知っていたことから、急遽夕食に招かれる。エメットは至極楽しげであったが、情緒不安定で医師から提供される薬を常用している母ラモーナ(フィオナ・ショウ)の言動がきっかけで、冷たい雰囲気でその場は解散となる。だがそれでも、マデリンを連れ出したバッキーは、場末のモーテルで彼女とベッドを共にするのだった。
間もなく、ふとしたことからバッキーがローナを発見する。その彼女が携えていたフィルムが、事件に急展開を齎した……[感想]
作中で描かれるエリザベス・ショート殺人事件は実際の出来事をもとにしている。まったく同じ成り行きで、加熱した報道媒体によって“ブラック・ダリア”と渾名された彼女は、“世界で最も有名な屍体”と呼ばれるまでになったが、事件は解決されることなく終わっている。
原作者ジェイムズ・エルロイは自らの母親が殺された経験をこの事件に折り重ね、現実の展開にフィクションを混ぜつつ、誰が殺したのかを解き明かし、何故未解決のまま葬られてしまったのかまできちんと理屈をつけて物語として再構築している。構成にやや難はあるものの、独特の熱気を備えた文章と、闇に囚われていく登場人物たちの“業”の描き込みが圧巻で、読んでいるこちらまで引きずり込まれそうな迫力のあるクライム・ノヴェルの傑作に仕上がっていた。
様々な要素を盛り込んだそんな原作から、映画化である本編は一部の要素を抽出して、中盤以降にかけて大幅な脚色を施している。基本的な流れは同じ、提示されている犯人像も一緒だが、しかし雰囲気はかなり異なっている。
もともと監督であるブライアン・デ・パルマはエルロイ同様に極めて個性のはっきりした作品を発表している人物である。ノワールと呼ばれる系譜に近い、悪徳や犯罪を主題として、登場人物たちの運命を狂わせる女性を配し、赤みを帯びた独特の色彩感覚で映像を統一、伏線に基づくどんでん返しや終盤での急展開を見せ場とするサスペンスの描写に定評がある。
原作にはエルロイらしい筆捌きもさることながら、こうしたデ・パルマ作品に相応しい要素が無数に鏤められていた。そうした要素を中心に抜き出し、必要に応じて独自の描写やオリジナルの伏線を付け足していけば、デ・パルマらしい作品に変わってしまうのもごく当たり前なのである。詰まるところ、エルロイ作品らしい狂気や熱気を期待してしまうとやや肩透かしの印象を受けるだろうが、もっと素直にデ・パルマ作品として鑑賞すれば充分に頷けるはずだ。
ただ、だいぶ要素を削ぎ落としてはいるものの、それでも詰め込みすぎの印象は否めず、終盤にかけては駆け足かつ説明不足に陥っている。犯人として名指しされるある人物の終盤の行動には心理的な説明が乏しく咄嗟には承伏しがたい――直前の出来事と思い合わせれば必ずしも不自然ではないのだが、やはりそれ相応の心理描写や仄めかしは欲しかった。また、そのあとでの主人公の行動と反応とは更に違和感を残す。彼にしてみればそうするのが当たり前だったのかも知れないが、ああも単純に締めくくれるほど状況は容易ではない。そのあたりの説明が一切ないので、どうも消化不良に思えてしまうのだ。何より、あの顛末では、原作ではきっちりと解釈していた“何故未解決事件となってしまったか”という部分が曖昧なまま残ってしまう。
但し、このあたりは現実と整合性を保つのではなく、原作で提示された事件の流れと犯人像をベースに、バッキーという架空の人物を中心にしたサスペンス、或いはノワールとして完結させることを狙ったと捉えれば、正解と言える。未解決事件であることを強調して、変にその後の出来事や主人公たちのその後を描いてしまっては、サスペンスとしての力が最後で弱まり、焦点も暈けてしまう。繰り返しになるが、やはり本編はエルロイ作品の映画化と捉えるよりも、あくまでデ・パルマの映画として賞味するべきだろう。
バッキー始め、物語の中心となる人物を演じているのはいずれも演技派ながら、それぞれ従来とは微妙に異なる役柄を割り振られており、そのために映画ファンにとっては強烈な演技合戦としての楽しみ方もある。とりわけ、ヒラリー・スワンクはまるっきりイメージとは異なる、金満で退廃的な美女の空気を見事に表現しており、二度のオスカーに相応しい貫禄を示している。
大規模なセットによる撮影も含め、大作としての迫力を醸し出しながら、往年のフィルム・ノワールの香気をも充分に湛えた、デ・パルマ監督らしい秀作である。(2006/10/21)