cinema / 『ブラッド・ワーク』

『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る


ブラッド・ワーク
原題:“BLOOD WORK” / 原作:マイクル・コナリー『わが心臓の痛み』(扶桑社) / 監督・製作:クリント・イーストウッド / 共同製作:ジュディー・G・ホイト / 製作総指揮:ロバート・ロレンツ / 脚本:ブライアン・ヘルゲラント / 編集:ジョエル・コックス / 美術:ヘンリー・バムステッド / 撮影:トム・スターン / 音楽:レニー・ニーハウス / 出演:クリント・イーストウッド、ジェフ・ダニエルズ、アンジェリカ・ヒューストン、ワンダ・デ・ジーザス、ティナ・リフォード、ポール・ロドリゲス、ディラン・ウォルシュ / 配給:Warner Bros.
2002年アメリカ作品 / 上映時間:1時間50分 / 字幕:菊地浩司
2002年12月07日日本公開
劇場にて初見(2002/12/14)

[粗筋]
 その頃、ロサンゼルスの街を“コード・キラー”の通り名で知られた殺人鬼が震撼させていた。その殺人鬼は被害者を無惨に切り刻み壊れた人形のように弄び、「903 492 568」という意味不明の暗号とともに、事件を担当するFBI捜査官テリー・マッケイレブ(クリント・イーストウッド)への挑戦とも取れる言葉を残していくのが常だった。マッケイレブはその日、現場の外でマスコミの取材を受けている最中に犯人らしい男の姿を確認し、追い始める。だが、あと一歩のところでマッケイレブは自らの体に裏切られた――心臓発作を起こし、その場に倒れたのである。辛うじて犯人に銃弾を浴びせるものの、逃げおおせられてしまう。
 2年後。病がもとで現場を退き、2ヶ月前に心臓移植を受けた後はマリーナで船の整備を行いつつ、大量の免疫抑制剤とともに暮らしていたマッケイレブのもとを、ひとりの女性が訪ねた。グラシエラ・リヴァーズ(ワンダ・デ・ジーザス)と名乗った彼女は、マッケイレブに移植された心臓が彼女の妹のものであり、死因はコンビニ強盗に巻きこまれて射殺されたことにある、と告げたのだ。グラシエラは最近新聞の一画を飾った著名人の追跡記事からマッケイレブのことを知り、彼がFBI捜査官であったという奇縁に縋り事件の調査を依頼する。移植後僅か2ヶ月で、心臓に負担のかかる行動は禁じられているマッケイレブだったが、逡巡の末に引き受けることにした。
 翌日、マッケイレブは旧知の刑事アランゴ(ポール・ロドリゲス)とウォラー(ディラン・ウォルシュ)を訪ね、事件ファイルのコピーと現場の防犯カメラの画像を見せてもらえるよう頼む。元々打ち解けた仲ではなかったアランゴは渋るが、最終的にカメラの画像を見せることを承諾する。映った犯人の行動から、これ一度きりの犯行ではない、と指摘するマッケイレブに反応する刑事2人だが、具体的な事実を漏らそうとしない。マッケイレブは図書館に向かい、ネットを利用して類似する事件が存在したことを確かめた。
 ついでマッケイレブが訪ねたのは、こちらも旧知でありかつて大量殺人犯の謙虚でマッケイレブに恩のある女性刑事ジェイ・ウィンストン(ティナ・リフォード)だった。彼女はマッケイレブに協力的な姿勢を取り、早速ATMで起きた強盗事件の資料を見せる。防犯カメラの映像を見たマッケイレブは、覆面をした犯人が去り際にカメラに向かって何事か呟いていることに気づき、ウィンストン刑事に専門家へ依頼して確認するように要請する。やがて確認されたその言葉は、「ハッピー・バレンタイン」だった……
 2つの即物的な強盗事件に隠された繋がりとは何なのか。事件を追い続けるマッケイレブに、やがて犯人は思いがけない形で迫ってくる……

[感想]
 原作と違う筋書きに入る手前で止めてみました。
 本編は高い評価を受けたマイクル・コナリーの小説『わが心臓の痛み』(扶桑社文庫/扶桑社)に基づいている。いかにも映画的な改竄が特に後半で多く観られるが、しかし原作に敬意を払っていることが理解できて、予め読んで劇場を訪れた私にも好ましい出来と映った。それが最も如実に見られるのは、冒頭の追跡劇で心臓発作に倒れた次の場面、2年後にマッケイレブと医師が交わした会話である。
 臓器移植を受けた患者は拒絶反応を抑えるために術後多くの薬品を口にする必要がある。中にはどうやら男性ホルモンを活性化させる副作用のある物質もあるようで、原作には「1日3回は髭を剃らなければならない」といった記述も認められる。が、映画の中でいちいち何度も髭を剃る場面を挿入するのは難しい。その点を踏まえたうえで、映画では問題の薬品の投与する必要がなくなった、という医師の診断とそれに対するマッケイレブの「良かった、これで1日に3度も髭を剃らなくて済む」という感想を口にさせているのだ。
 この会話、映画の筋からすれば説明する必要のない事実である。それを敢えて言わせることで、原作ファンに対して免罪符を求める姿勢を見せているわけだ。
 違いは後半に進むに従って顕著となり、犯人の判明からクライマックスに至ってはほとんど差し替えられているが、エッセンスは細々と留めており、原作ファンに違和感を与えさせずに尚かつ緊張感を齎す、という技を実現している。このあたりが非常に巧い。
 ただ、後半で激しさを増すオリジナル要素(但し、原作でも匂わせている部分を拡張しただけで、まるっきり新しく付け足した要素ではない)はやや動機の面で説得力に欠き、原作の結末にあった全てのパズルがあるべき場所に収まる感覚を減少させている。それが終盤における、いかにも往年のガンアクション・ヒーロー=イーストウッドらしい銃撃シーンの伏線になっているとは言え、評価の分かれるところだろう。サイコ・サスペンスの側面を謳うのであれば、狂った犯行理念にも一貫性を持たせて欲しかった。
 とは言え、全体としては堂に入ったスリラーであり、演出にも演技にもクリント・イーストウッドが貫禄を示した良品である。子供向けのファンタジーや若向けの超大作に辟易している人々には好個の一作ではなかろうか。だからなんで年末2週間限定公開なんだよ。

 余談、というか疑問。
 原作がある程度いじられることは覚悟していたので、後半わりと改変があることにも驚かなかったのだが、いちばん不思議だったのは――マッケイレブに移植されたのがグラシエラの「姉」という風になっていたこと。少々首を傾げつつ、些細な違いだったので普通に許容していたのだが、今日この原稿を書くためにプログラムのあちこちを参照していたところ、プログラム掲載の粗筋にはグラシエラの「妹」と書いてあって驚く。
 通常、英語で姉妹関係にある人間を表現する言葉は“Sister”である。音声の方でどう言っていたのかは記憶にないのだが、恐らくこの一語で表現されたものを、先に死んだという事実と発言者が未婚なのに対象者が離婚歴と子供がある、という現実から独り合点して「姉」と捉えてしまったのではないか。
 ……まあ、このどちらが上か下か、というのは本筋にはまったく関わってこないので、どちらが合っていようが間違っていようが構わない、といえばそうなのだけど。

(2002/12/17)


『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る