cinema / 『藍色夏恋 BLUE GATE CROSSING』

『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る


藍色夏恋 BLUE GATE CROSSING
原題:“藍色大門” / 監督・脚本:イー・ツーイェン / 製作:ペギー・シャオ、シュー・チャオミン / 撮影:チェン・シャン / 美術:シァ・シャオユィ / 編集:リャオ・チンソン / 音楽:クリス・ホウ / 出演:チェン・ボーリン、グイ・ルンメイ、リャン・シューホイ、ジョアンナ・チョウ、ミン・ジンチョン / 配給:ムービーアイ+トライエム
2002年台湾・フランス合作 / 上映時間:1時間24分 / 字幕:遠藤寿美子
2003年07月26日日本公開
2004年01月21日DVD日本版発売 [amazon]
公式サイト : http://www.natsukoi.net/
日比谷シャンテ・シネにて初見(2003/08/23)

[粗筋]
 目を閉じれば、自分の未来が見える。そう言ったリン・ユエチェン(リャン・シューホイ)が、自分の未来の夫として名前を挙げたのは、水泳部とギター部に所属するチャン・シーハオ(チェン・ボーリン)。彼が捨てたものや落としたもの、使ったものを拾っては宝物のように大切に保管しているユエチェンは、けれどまだ彼と話はおろか、きちんと顔を合わせたこともない。
 夏のとある夜、リン・ユエチェンは親友のモン・クーロウ(グイ・ルンメイ)を道連れに、学校のプールに赴いた。チャン・シーハオはこの時間帯、無人となったプールでひとり泳いで遊んでいることを、リン・ユエチェンは知っていた。今日こそちゃんとお知り合いになろう、と決意してやって来たリン・ユエチェンだったが、直前で怖じ気づいて、モン・クーロウをプールサイドに送りこんでおいて、自分は逃げ帰ってしまった。
 友達があなたと知り合いになりたがってる、と伝えるモン・クーロウだったが、チャン・シーハオは本当は彼女が知り合いになりたがっていて、架空の友達をダシに使っている、と思い込んだ。何を考えているのか、以来彼はモン・クーロウと顔を合わせるたびに自己紹介を繰り返す。蠍座、O型、ギター部と水泳部に所属……
 そんな風になんとなくチャン・シーハオと交流を持ったモン・クーロウに、リン・ユエチェンは手紙の仲介を頼んだ。何やら気乗りがしないまでも、彼女のために手紙を渡したモン・クーロウだったが、翌日その手紙は学校の連絡通路の床に貼り付けられていた。しかも宛名はともかく、署名は他でもないモン・クーロウ。友達に見つかって悪戯された、というチャン・シーハオ共々後始末を命じられたモン・クーロウは、苛立ち紛れに手紙を足で踏んで剥がそうとした。途中からそれにチャン・シーハオが荷担したので、罰のはずがなんとなく一緒に遊んでいるような雰囲気になってしまった。
 以来、チャン・シーハオはモン・クーロウの自宅にある屋台に通い詰めるようになり、遂に「付き合って欲しい」という言葉を口にした。そんな彼に対して、一定しない言動を繰り返していたモン・クーロウだったが、ある日彼女はチャン・シーハオに、ひとつの“秘密”を打ち明ける……

[感想]
 今日日、日本で恋愛ものを作ろうとすると、直接にせよ間接にせよ性行為を描かないと締まらないような雰囲気がある。現実に性が氾濫している社会で、排除して描くと真実味に欠けるという先入観があるせいだろう。
 台湾の学生が現実に性に対してどの程度の意識を持っているのか、どの程度の経験を持っているのか、生憎私は知らないが(尤も、日本の中であっても一部の極端な例ばかりが採り上げられているきらいがあり、学生というものを必要以上に歪めて捉えている傾向はある)、本編では性「行為」について積極的に採り上げることはしない。冒頭でチャン・シーハオが友達と「校庭でオナニーできたらいくら払う」という賭けをしてみたり、夜の体育館でモン・クーロウに「俺、実はまだ童貞なんだ」と打ち明けたり、という軽くしかし露骨な表現はあっても、性というものを挑発的に描くことはしない。体育館での台詞に対するモン・クーロウの切り返しが「わたしたちくらいならそれが普通よ」というものだったことが、作品の姿勢を強調している。中性的な外見のヒロインに、わりとあけすけなことを口にするがそれが生々しさを帯びない程度に純粋さを感じさせる少年をメインに持ってきているのも、作品の雰囲気を柔らかなものにしている。
 本編ではそうした「性」への距離感が決して不自然ではなく、また生々しさも損なわずに描かれている。いちおうテーマは「恋愛」なのだが、その成就というよりも細かなやり取りや淡い感情の変遷を主軸に据えているため、変な修羅場は一切ないし、甘さと苦さのバランスが非常によく取れている。
 いみじくもモン・クーロウの述懐にある「人生は不公平に出来ている」という言葉通り、登場人物の誰にとって本意ではない決着へと話は動き続けるのだが、そのわりに厭な感覚はなく、余韻は爽やかで快い。一部に痼りは残しているものの、主人公であるモン・クーロウとチャン・シーハオのふたりについては彼らなりに気持ちをまとめさせているせいだろう。
 弱さとして、あまりに冒険が少ない、という点が挙げられる。特にヒロインの秘密については、中盤でチャン・シーハオが口にする「実は(俺と知り合いたいという)友達なんかいないんだろ?」というアイディアの方が、手垢が付いているが面白いと思ったのだけど、それを敢えて避けたのは、本編をそういう小手先の技で飾りたくなかったからだろう。
 話運びでもキャラクター造形でも大きな無理をせず、細部こそ台湾らしい風俗や習慣を取り入れながら、どこが舞台であっても不思議でないような主題と感情を描いた、派手さはないが端正な青春映画。ラスト、チャン・シーハオがモン・クーロウに対して口にする一言と、自転車で走るふたりをバックに流れるモン・クーロウのモノローグが印象深い。

 前述の通り、随所に台湾独特と思われる風俗が盛り込まれていて、異文化に触れる気分を味わわせてくれるのも本編の楽しみのひとつと言える。が、そのなかで、日本人としてなかなか興味深い箇所があった。
 後半、チャン・シーハオがモン・クーロウに惹かれていることに気づいたリン・ユエチェンが、おまじないとしてノートにずっと書き続けていたチャン・シーハオの名前を途中から別のものに変えるのだが、その名前が何と「木村拓哉」である。
 あこがれの有名人の名前に書き換えることで、もう彼などどうだっていい、という気持ちを形にしようとした一幕なのだが、そこで他でもない「木村拓哉」が出てくるのが可笑しい。別に日本におもねったわけではなく、製作当時は向こうでももてはやされていた証拠なのだろう。

(2003/08/28・2004/06/26追記)


『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る