cinema / 『ぼくセザール10歳半 1m39cm』

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ぼくセザール10歳半 1m39cm
原題:“Moi Cesar 10ans1/2 1m39” / 監督・原案:リシャール・ベリ / 製作:ミシェル・フェレール / 脚本・脚色・台詞:エリック・アスス、リシャール・ベリ / 撮影:トマ・ハードマイアー / 美術:ユーグ・ティサンディエ / 衣装:ドミニク・ボール / 編集:ロランス・ブリオ、リザ・プファイファー / 音楽:レイ・イザーク / 出演:ジュール・シトリュク、マリア・ド・メデイルシュ、ジャン=フィリップ・エコフェ、ジョゼフィーヌ・ベリ、マボ・クヤテ、アンナ・カリーナ、ステファーヌ・ギヨン、カトリーン・ブアマン、ギレーヌ・ロンデーズ、ジャン=ポール・ルーヴ、ジャン・ベンギギ、セシル・ド・フランス、マリー・ヘッド、ディディエ・ベニュロ / ヨーロッパ・コープ製作 / TF1フィルム・プロダクション=カナル・ブリュス=C・N・C共同製作 / 配給:Asmik Ace
2003年フランス作品 / 上映時間:1時間39分 / 日本語字幕:丸山垂穂
2004年07月31日日本公開
公式サイト : http://boku10.com/
日比谷スカラ座2にて初見(2004/08/24)

[粗筋]
 曇天の下、葬儀が執り行われている。大人達が悲しみに暮れるなかでただひとり、セザール・プチ(ジュール・シトリュク)だけがふて腐れた顔をしていた。退屈で間延びした段取りのあいだ、大人達が目を泣き腫らしているのが不思議でしょうがない。亡くなったのはセザールの父ベルトラン(ジャン=フィリップ・エコフェ)の共同経営者だった。母のシャンタル(マリア・ド・メデイルシュ)は常日頃からあの男と付き合っていると危ない目に遭う、なんて言っていたくせに、葬儀の席では涙を流している。そんな母を見るのが、セザールは哀しかった。
 甘いものに目がないセザールはぽっちゃり、という表現が足りないくらいにふっくらしていて、運動音痴もあってあまりプールの授業は好きじゃない。容姿も整った親友のモルガン・ブランジェ(マボ・クヤテ)が羨ましかった。学校一の美少女サラ・デルガド(ジョゼフィーヌ・ベリ)の前に出ても恥ずかしがる必要がない。
 サラは二週間前に越してきたばかりの、セザールの憧れの人だった。彼女のためなら命を投げ出したって構わないと思う。けれど、自分と同じくらいの女の子に、姿よりも中身だっていうことを解らせる方法は知らない。
 ある日、ベルトランのもとを刑事が訪ねた。共同経営者のことで、という用件は解ったけれど、詳しい話を立ち聞きすることも許されず、セザールは自分の部屋に押し込められてしまった。父親とあまり膝を突きあわせて話したことがないセザールは、どんな仕事をしているのかも解らない。だからこのとき、直観的にベルトランと共同経営者が危ないことをしているんだ、と思いこむ。それから数日、怪しげな雰囲気の男に呼び出されて“旅行”に出て行った父の後ろ姿を見送りながらセザールは、もう自分が大人になるまで彼とは会えないんだ、と思った。
 モルガンだけにその事実を打ち明けたはずだったのに、うっかり者の親友はあっさりと口を滑らせて、一日と経たずセザールは有名人になった。級友や先生には何かと気を遣われ、校長までが「いつでも頼っていい」と直々に言い出す始末。
 不幸に浸りながら有頂天になっていたセザールだったけれど、状況は間もなく一転する。ベルトランはあっさりと、何事もなく帰ってきた。完璧に早とちりだったらしい。糊塗する時間もなく父にも学校にもセザールの“嘘”はばれて、彼の立場は悪化した。父には平手打ちを受けるわ、校長には叱られるわ、ついには一週間の“休暇”を言い渡されて、そのあいだど田舎に暮らす祖父と祖母のところに預けられる羽目になって……

[感想]
 と、ここまでが第一幕といったところ。このあともセザール少年はいかにも子供らしい身勝手で、しかし非常に率直な観点での言動を繰り広げて、日常をちょっとした冒険活劇風に見せかけてしまう。
 本編は徹底して“こどもの視点”から描かれている。こう書くと大抵は子供騙しか、中途半端に道徳的な描き方をするだけに終始するものだが、本編は違う。己を省みて、ああ子供の頃たしかにこんなこと考えてたよなあ、というレベルでものを言っている。大人はみんな高圧的か、過剰にこちらを子供扱いする。大人相手には丁重なのに自分が前に出ると突然敬語を止めてしまうのも奇妙だし、子供だからといって何も大事なことを説明してくれないのが解せない。確かにこの目線に立てば奇妙だと感じるはずのことをきちんと描いてみせる。
 その目線にリアリティを与えているのは、セザール少年のどこか悪戯っぽく、けれどはっきりと大人びた印象を垣間見せる表情の演技にも依るところが大きいが、もっと重要なのはカメラの高さが基本的にセザール少年とほぼ同じ位置にあることだ。同年代と比べても小柄なほうに属する彼の目線では、大人達は無論のこと親友のモルガンや恋い焦がれるサラでさえもちょっと上目遣いに見なきゃならない。その位置から子供達の本音を語られると、時々自分の実年齢さえ忘れて激しく共感してしまうのだ。
 常識的だと信じている大人が思い描くような子供の像に縛られていないから、ところどころ見ているこちらがドキッとさせられるような描写が混じるのも巧い。教室で親友とこっそり女の子の秘められた場所について話して、家にひとりでいることが多い親友の家でアダルトビデオを鑑賞して研究しようとするけれど飽きて途中で寝てしまう。非常に驚かされるが、性の目醒める年齢にはごく普通の出来事だ。そこまで興味を示しながら、肝心の恋愛対象であるサラにはそういう感情を投影していないように見えるのがよけい生々しい。
 このあとセザール少年の日常の冒険はついに、親友モルガンの見知らぬ父親を捜すために、サラを加えた三人でロンドンに渡るところにまで達する。このあとさき顧みない行動の数々がいつしかセザール自身のみならず周りの人々の暮らしまで変えてしまう――その過程を、変に教条的な悪臭を漂わせることもなく、ごく自然に受け入れさせてしまうのが凄い。決してセザールやモルガン、サラに格別な力があったわけではない。けれど、やろうと思って成し遂げられたことにはそれなりの報酬が伴うはず、と思わされてしまうのだ。
 異国に渡った三人はそれまで以上のトラブルに見舞われるが、偶然出会った人物が“救いの女神”となって彼らは無事目的を達することになる。この点、些か御都合主義的に思えるかも知れないが、その際はちょっと考えていただきたい――前述のように、本編のカメラアングルは終始低く、大人達がアップになるときはやや見上げるような角度にある。ただひとり、高さを合わせていたのがあの人物だった、ということを。
 子供達には存在する勇気を、大人達には欺瞞のない視点を、そして一緒に訪れた親子には議論の種を、等しく齎す今日日珍しいくらいに世代を問わない名作。あんまり出来がいいので、既に企画されているという続編の仕上がりが却って不安になるほどです。

(2004/08/25)


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