/ 『チェンジング・レーン』
『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻るチェンジング・レーン
原題:CHANGING LANES / 監督:ロジャー・ミッチェル / 製作:スコット・ルーディン / 原案:チャップ・テイラー / 脚本:チャップ・テイラー&マイケル・トルキン / 製作総指揮:ロン・ボズマン、アダム・シュローダー / 撮影:サルヴァトーレ・トティノ / プロダクション・デザイン:クリスティ・ズィー / 編集:クリストファー・テレフセン、A,C,E, / 衣装:アン・ロス / 音楽:デヴィッド・アーノルド / 出演:ベン・アフレック、サミュエル・L・ジャクソン、キム・スタウントン、トニ・コレット、シドニー・ポラック、リチャード・ジェンキンス、アマンダ・ピート、ウィリアム・ハート / Paramount Pictures作品 / 配給:UIP
2002年アメリカ作品 / 上映時間:1時間38分 / 字幕:戸田奈津子
2002年11月09日日本公開
公式サイト : http://www.uipjapan.com/changing/
劇場にて初見(2002/12/10)[粗筋]
ギャビン・バネック(ベン・アフレック)にとって、それは単純だが重要な「仕事」だった。妻の父デラーノ(シドニー・ポラック)が経営する大手弁護士事務所の敏腕弁護士として任されたのは、遺言検定裁判。サイモン・ダンという富豪が遺した財団の運営を、孫娘をはじめとする委員会ではなくギャビンらの事務所に委譲するという遺言を通すための裁判だった。ギャビンはサイモンの孫娘から受ける憎悪の理由を汲みかねながら、次の裁判で決定的な書類を提出することになっていた。曇天のなか、ギャビンは車を走らせる。
保険会社で販売業務に就くドイル・ギプソン(サミュエル・L・ジャクソン)にとって、その日は「父親」に戻れるか否かの境目だった。堅実な仕事に就きながらトラブルに見舞われがちなドイルは慢性的なアルコール中毒によって妻ヴァレリー(キム・スタウントン)に愛想を尽かされていた。子供を彼から守るためにオレゴンへ転居する、と言うヴァレリーと子供達を引き留めるため、アルコール依存症克服プログラムに参加してアルコールを断ち、妻たちが引っ越さずに済むようにローンを組んで新しいアパートを購入する手筈を整えた。誠意さえ認められればもう一度「父親」に戻れる、という一筋の光を辿って、ドイルはハイウェイを疾走する。
折しもハイウェイは大渋滞だった。車線変更を試みるギャビンだったが、移動したい車線はぎっしりと車が詰まって入り込めない。ギャビンは強引にハンドルを切った。運悪くギャビンの車は一台の車の脇に衝突し、擦りあいながら分岐に突き進み、相手の車が緩衝用のドラムにぶつかる格好で停車した。衝突した車から降りてきたのは、ドイル。
保険カードの交換と警察への連絡を求めるドイルに対し、ギャビンはその場での示談を求め、応じないドイルに業を煮やして、車を走らせて裁判所に向かってしまった。自分の車は大破してしまったドイルは追うことも出来ず、その場で立ち尽くす。そんな彼の足許に、一枚のファイルが落ちていた。
ギャビンはギリギリで裁判所に到着し、余裕綽々で鞄から必要書類を取り出そうとした。だが、鞄の中にはただひとつ――最も重要な、サイモン・ダン自らの署名がある権利依託書だけが入っていなかった。事故現場での一幕を思い出し、ギャビンは自失する。保険の書類を手渡したつもりで一緒に依託書まで取り出していたのだ。相手側弁護人の温情もあって、裁判所は今日中の書類提出を命じて閉廷する。名前すら訊ねずに現場を離れてしまったギャビンに打つ手はなかった。
一方、ドイルが20分遅れで家裁に到着したときには、既に親権を妻ヴァレリーに委ねる判決が下されるところだった。必死に弁明するが聞き入れられず、この瞬間、数ヶ月に渉るドイルの努力は水泡に帰した。絶望に苛まれるドイルは、ギャビンの落とした書類を裁判所出口のゴミ箱に投げ込んで、雨の中傘も差さずに悄然と彷徨い歩く。
運良く雨の舗道にドイルの姿を見つけたギャビンは必死に許しを請い、示談と引きかえにファイルを返してくれるよう頼んだ。だが、事実上全てを失ってしまったドイルは聞く耳持たず、「捨ててしまった」とだけ応えて再び雨の中へ消えていく。今度はギャビンが悄然とする番だった。
事務所に戻ったギャビンは、義父デラーノに「裁判は順調に片付いた」と嘘を告げ、同僚であり不倫相手でもあるミシェル(トニ・コレット)に助けを求める。彼女が紹介したのは、他者を屈服させる専門家フィンチ(ディラン・ベイカー)――彼の技術とは、ネットワークから個人情報にアクセスし、その資産をコントロールすること。ギャビンは彼に、ドイルを破産させるように依頼したのだ。
たった一度の強引な車線変更が、二人の男の運命を果てしなく狂わせていく……[感想]
今年はじめぐらいに予告編で観て以来、ずっと期待していた一本。本国での好評もあって期待は高まる一方だったが、ほぼ裏切りのない仕上がりだった。
言ってみれば一種の心理サスペンスである。混雑する都会で人生最大の勝負の時間に遅れかかっていた2人が、たまたまハイウェイで横に並んでしまったことから始まる転落の悪夢。以降、彼らの言動は現実に即して不自然さはないのに、凡そ考えられる最低の出来事が立て続けに発生し、それまで全くの他人であったはずの2人が互いに憎悪を抱き脅迫と報復の連鎖に陥る。たったひとつの偶然のあとは実に無駄がなく、先の読めない事態に最後まで緊張が持続する。ところどころ唐突で、一瞬理解に苦しむ展開もあるのだが、よくよく分析すると無理のない行動であるという点、考え抜いた形跡は認められるが少々入り組みすぎている感も否めない。
しかし、最後まである一線を越えずにサスペンスを盛り立てたプロットと、それを奇を衒うことなくしかし効果的に魅せた演出は見事の一言に尽きる。とりわけ後者は中盤、ドイルがギャビンに対して逆襲を試みるくだりで強烈な効果を発揮する。狂奔する2人の様子にはいつどこで一線を踏み越えるか解らない危機感が常に漂っており、その緊張を最も巧みに応用した場面でもある。
ただ、出来ればもう一山越えて欲しかった、という嫌味はある。あまりに終盤すんなりと綺麗に収まってしまった感があって、事件としては納得するのだが映画としてはいまいち突き抜けきっていない、という印象を与えるのだ。
だが、ある程度予定調和ながら、予定調和に感じさせないよう丁寧に積み上げられた点は評価できる。必要以上にベタベタとその後を描かなかったことも、ハリウッドらしからぬ潔さがある。無闇に感動だけを盛り立てるドラマに馴染んでいた人には、なかなか痛烈な一作に仕上がっていよう。プログラムの2ページ・3ページに掲載された讃辞のように手放しで褒めることは出来ないが、ただならぬ厚みを感じさせる秀作である、とは言い切ろう。
ところで、ドイルが参加していた克服プログラムを、プログラムでは「カウンセリング」と書いていたのだが、参加者が一堂に会してそれぞれのアルコール体験を語る、というシステムは、ローレンス・ブロック描くところのマット・スカダーが参加するAA(アルコホリック・アノニマス)という教会主導のプログラムに舞台も趣旨も酷似しているのだが、別のものなんだろうか? 基本的に、作品を楽しむ上ではどちらだろうとあまり問題はないのだが、終盤失意のギャビンが聖金曜日の集会が行われている真っ最中の教会に立ち寄り、告解室で賛美歌を聴く、という一幕があり、もしドイルが参加していたのがAAだったとするなら、この場面にも脚本家の深い意図を勘繰ることも出来そうなのだけど。(2002/12/10)