cinema / 『ナイロビの蜂』

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ナイロビの蜂
原題:“The Constant Gardener” / 原作:ジョン・ル・カレ(集英社文庫・刊) / 監督:フェルナンド・メイレレス / 脚本:ジェフリー・ケイン / 製作:サイモン・チャニング・ウィリアムズ / 製作総指揮:ゲイル・イーガン、ロバート・ジョーンズ、ドナルド・ランヴォード、ジェフ・アバリー、ジュリア・ブラックマン / 撮影監督:セザール・シャローン / 美術:マーク・ティルデスリー / 編集:クレア・シンプソン / 衣装:オディ・ディックス・ミレー / メイク&ヘアー:クリスティン・ブランデル / 音楽:アルベルト・イグレシアス / 出演:レイフ・ファインズ、レイチェル・ワイズ、ダニー・ヒューストン、ユベール・クンデ、ビル・ナイ、ピート・ポスルスウェイト、リチャード・マッケイブ / 配給:GAGA Communications
2005年イギリス作品 / 上映時間:2時間8分 / 日本語字幕:松浦美奈
2006年05月13日日本公開
公式サイト : http://www.nairobi.jp/
新宿明治安田生命ホールにて初見(2006/04/08) ※スニーク試写会

[粗筋]
 ほんの短い別れのはずだった、いつものような。ナイロビの空港でロキに向かう妻テッサ(レイチェル・ワイズ)見送り、数日後、我が家でいつものように植木の世話をしていたジャスティン・クオイル(レイフ・ファインズ)のもとを、同僚であるサンディ(ダニー・ヒューストン)が訪ねて、予想だにしなかったことを告げた。ロキのホテルから車で出発したテッサは、道中にあるトゥルカナ湖の畔で他殺死体となって発見されたという。同行し、ホテルでは同室に滞在していたアーノルド・ブルーム医師(ユベール・クンデ)は行方をくらましている、という……。
 一等書記官であるジャスティンが大使に代わって行ったスピーチにテッサが列席し、最後に苛烈な質問を浴びせたことがふたりの出逢いであった。同席者の顰蹙を買った彼女の発言にジャスティンが配慮したことから交流がはじまり――それが愛に変わるまではほとんど一瞬だった。ケニアへ派遣されるジャスティンに同行するため、テッサは彼の妻の座に収まる。
 ただ、彼女の情熱的で正義漢に溢れた言動を、ジャスティンの周囲の人間は必ずしも歓迎しなかった。同じく慈善活動に従事するアーノルドと共にパーティーの席に姿を現すと、有力者に容赦なく鋭い質問を突きつける。彼女のそんな行動は明らかにジャスティンの職務に支障を来していたが、彼は決して深く頭を悩ませることはなかった。協力は出来なくても、テッサを理解し尊重している、つもりだった。
 やがてテッサは子供を身籠もるが、そうなっても相変わらずスラムに赴いては人々の様子を見、ちかごろやたらと頻繁に現れるようになった製薬会社の血液検査の様子を監視し続け、しまいには出産までスラムの人々と同じ病院で行う、と言い出す。
 だが、子供は死産に終わった。この一件が、テッサの慈善活動に対する情熱をよりいっそう掻き立てたらしい。やもするとジャスティンの忠告を無視する彼女とのあいだに、僅かな溝が生じ始める。それでもジャスティンはまだ、時が解決してくれるとでも思っていたのだろう。楽観視していた彼のもとに、妻の死が告げられたのは、そんな時のことだったのだ。
 見る影もない妻の屍体を確認し、我が家に戻ると、警察が捜索に入りパソコンやCD-ROMなどをあらかた押収したあとだった。しかしジャスティンは、他人の目では見過ごしがちな場所に隠されていた箱を発見し、中身を改める。そこには自分との写真など想い出の品に紛れて、まったく予測もしないものが入っていた――それは、サンディが妻に宛てた恋文であった。
 その不穏な内容に、ジャスティンは妻の死に初めて陰謀の匂いを嗅ぐ。そうして彼は、事件の背後にあるものを探りはじめた……

[感想]
 まず、説明に苦しむ作品である。
 広告で打たれているほどストレートな感動大作、とはちょっと違う。確かに胸に染みてくるラストを“感動的”と評することは出来るが、その宣伝文句に客が期待するようなものとは少し質が違っている。
 物語の軸は、不慮の死を遂げた妻の謎めいた行動の真意を夫が探る点にあり、それを素直に捉えればミステリーというカテゴリに当て嵌められそうだが、しかし必ずしも謎そのものや謎解きの迫力に依拠している物語ではなく、寧ろかなり早い段階から一目瞭然であるその背景には、ミステリーとして見せようという意図はあまり感じられない。
 物語の背景にはケニア、ひいてはアフリカの貧困層の過酷な現実が横たわっているが、ではその実態を観客に突きつけようとする社会派作品なのか、と問われると、それもまた違う。確かにここで描かれているような現実はいまも存在し、貧困層を苦しめ続けていることは想像に難くないが、そうしたメッセージは二次的なものだ。これらを一次的なものにしたいのなら、謎の死を遂げたテッサとその秘密を辿ろうとするジャスティンが夫婦である必要はない。
 従ってポイントはやはり、テッサが夫に隠していた事実であり、その背後に透き見える夫婦の“絆”なのだ。妻の死を契機に、彼女が自分に打ち明けぬまま解決しようとしていた事態を初めて知り、改めて自らと妻とを結ぶ深い愛情を悟る、そういう物語である。そこに、第三者を感動させようなどという意思はない。
 こう言ってしまえば単純だが、しかし道程はシンプルではない。妻が夫に隠す秘密が生じた背景には幾つもの要素が絡んで、必ずしもひと言で説明できるような性質のものではない。序盤、ジャスティンが妻の死を告げられた直後から、カメラは彼らの出逢いまで遡り、ふたりの一風変わった夫婦生活を追いながら、随所に妻の謎めいた行動を点綴していく。無数に現れては影を潜め、あちらからこちらから湧き出てくる不穏な要素はサスペンス的な緊張感を漂わせているが、しかしあまりに持続する緊張感と、多すぎる情報量のために感覚が平坦となって、やや退屈な印象さえ齎す。
 だが、ひととおり過去が語り尽くされたのち、ジャスティンの視点が中心となると、途端にそれまでに積み上げたものの隙間から重要なものが汲み上げられていく。この迫力はただごとではない。そうして、真相に彼が迫っていくたびに訪れる危険や、新たに判明する事実とが、妻の深い愛を証明していく。本人の言葉以外で語られる思慮と情愛はあまりに重く、打ちのめされる想いさえする。
 提示された結末には、恐らく誰しも納得するわけではないだろう。願わくばもっと別の選択肢を取って欲しかった、と感じる人も少なくないはずだ。だが、イギリス、パリ、ケニアなど各国を巡る旅を経て、少しずつ妻の真意に触れ理解していく姿と、彼が選んだ結論とが重なったとき、賛同は出来なくとも、胸を打たれないなどと言える人もまた稀だろう。
 妻が追求し、それを夫が辿った結果として得られた答に対する“報い”は劇的に、だが静かに齎される。その場では呆気なく感じられるかも知れないが、このラストシーンはあとで噛みしめれば噛みしめるほど、余韻を深めていく。
 結局のところ、これはミステリーの手法を借り、極限の世界で夫婦の絆を描き出そうとしたドラマなのである。必ずしもその場で感動は押し寄せてこない。ただ、鏤められた様々な伏線と、その果てにようやく巡り逢った姿が、噛みしめるほどに感動を誘う。滋味掬すべき、成熟した名画である。

(2006/04/09・2006/05/05公開日を修正)


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