cinema / 『デアデビル』

『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る


デアデビル
原題:“DAREDEVIL” / 監督・脚本:マーク・スティーヴン・ジョンソン / 製作:アーノン・ミルチャン、ゲイリー・フォスター、アヴィ・アラド / 製作総指揮:スタン・リー、バーニー・ウィリアムズ / 撮影:エリクソン・コア / プロダクション・デザイナー:バリー・チューシッド / 編集:デニス・ヴァークラー,A.C.E.、アルメン・ミナジャン / 衣裳デザイナー:ジェームズ・アチソン / 視覚効果スーパーバイザー:リッチ・ソーン / 音楽:グレアム・レヴェル / 音楽スーパーバイザー:デイヴ・ジョーダン / 出演:ベン・アフレック、ジェニファー・ガーナー、マイケル・クラーク・ダンカン、コリン・ファレル、ジョー・パントリアーノ / 配給:20世紀フォックス
2002年アメリカ作品 / 上映時間:1時間43分 / 字幕:林 完治
2003年04月05日日本公開
2003年10月03日DVD日本発売 [amazon(アルティメット)amazon(通常版)]
公式サイト : http://www.foxjapan.com/movies/daredevil/
試写会にて初見(2003/03/25)

[粗筋]
 ニューヨーク・マンハッタンのヘルズキッチン地区。そのビルの谷間を跳躍し、悪党どもの背後に忍び寄り鉄槌を下す『デアデビル』という人物の存在が、人々のあいだで秘かに取り沙汰されていた。懲らしめられ殺された悪党の他にその人物の姿を目撃した者はなく、実在すらも疑われている。
 彼の素顔は、マット・マードック(ベン・アフレック)――盲目の弁護士である。父親の名はジャック(デヴィッド・キース)、かつて「悪魔(デビル)」のふたつ名で呼ばれるほどの拳を誇ったボクサーだったが、一時期酒浸りになり自堕落な日々を送っていた。それでも父を誇りに思っていた少年時代のマット(スコット・テラ)だったが、ある日恐喝をしている父の姿を目の当たりにして動転し、逃げ込んだ産業廃棄物置き場で廃棄物の液体を浴びてしまった。
 結果、目の光を失った彼だったが、その代償にふたつのプレゼントを与えられた。ひとつは、この事件を契機に父がボクサーに復帰したこと。もうひとつは、失った視覚の代わりに、残る四つの感覚と身体能力の異常な発達。こと聴覚は、遥か彼方の音を聞き分け、状況が整えば視覚を擬似的に再現することすら可能となった。お陰で騒音には耐えられない体となってしまったが、マットは身体能力を徹底的に鍛え上げ、視覚を欠いたハンディキャップをものともしないまでに逞しく成長した。
 だが、間もなく悲劇が訪れた。懸賞ボクサーとして着実に実績を重ねてきた父は、八百長を命じられる。息子との誓いを守るために信義を貫いて勝利したジャックだったが、試合終了後何者かによって殺害される。鼓動を止めた父の姿を見出すことが出来ず、その胸に手向けられた一輪の花を握り締め、マットは泣いた。
「正義を貫く」という父との約束を守るため、マットは弁護士となり、法廷で裁ききれぬ悪を懲らしめるため夜には“デアデビル”というもうひとつの顔を得るに至った。夜を飛び回り、驚異的な戦闘能力で悪党を蹂躙する覆面の男は、いつしか都市伝説のような存在として認識され、一部のマスコミの興味を惹くようになる。やがて、ひとりの記者(ジョー・パントリアーノ)が“デアデビル”の正体を追いはじめた。
 正義と暴力、日常と非日常のバランスに苦しんでいた彼は、親友にして法律事務所の共同経営者フォギー(ジョン・ファヴロー)と喫茶店で食事を摂っているさなか、ひとりの女性と出逢う。果敢にアプローチを試みるマットに、彼女は思いのほか強烈な肘鉄――というより攻撃で返してきた。互いに拳を交えたことが奏功して、ふたりはにわかに意気投合する。彼女の名はエレクトラ・ナチオス(ジェニファー・ガーナー)――海運王の娘だった。目の前で母親を殺された哀しい過去を背負い、様々な格闘技に身を染めてきた女性。
 次第に惹かれ合うふたりは、まだ気づいていなかった。ヘルズキッチンの背後で悪党どもを牛耳るキングピン(マイケル・クラーク・ダンカン)が、己の意のままにならない海運王のために、あらゆるものを武器に変える暗殺者“ブルズアイ”(コリン・ファレル)を呼び寄せていたことに――それが、ふたりに再び哀しい運命を齎すことに。

[感想]
 日本の特撮ヒーローを例に挙げるまでもなく、特殊能力を備えたヒーローものを鑑賞する際、己にまとわりついている常識感覚をいったん脇に置く必要があると言える。
 それは本編についても同様で、盲人としての生活描写の繊細さ(紙幣を金額によって違った形に折り、壁に指を添えながら移動する、等々)や特殊能力の弊害についての解釈(睡眠時に襲われる騒音を遮るために、密閉された水槽で眠っている)がきっちりとしている一方、いい加減な面もあちこちに見られる。わざわざ夜間に覆面をして懲悪活動をしているわりに、昼間もその鋭敏な感覚と卓抜した身体能力をあまり隠そうとしていなかったり、裏の仕事のための道具をそのまま日常に用いていたり、という具合に。
 この点は悪役についても同様で、キングピンは実業家という表の顔を持つという設定ながら表でも実質悪党であり、あんまり隠していない。彼に暗殺者として呼び出されるブルズアイなど、狂的な極悪人であることをまったく隠しておらず、あまつさえ指紋をつけないようにする程度の隠蔽工作すら怠っている始末。いったいどのへんが見えざる悪なのか教えていただきたいもんである。
 また悪役たちがどんな悪党なのか、どの程度に強いのかが、実際にデアデビルと戦う数少ない場面に至るまで判然としないのが辛い。で、実際に戦ってみると、超人的な身体能力を備えたデアデビルと戦うには全員修行が足りない、という印象になってしまっているのだ。唯一、コリン・ファレル演じるブルズアイには「手にしたものすべてを自らの武器に変え、的確に相手を射抜く」という特殊能力を備え、物語の展開においても重要な鍵を握るのだが、その強烈なキャラクターをもってしても戦闘場面ではデアデビルに対抗しきっていない点が惜しまれてならない。
 ……とまあ嫌味ばかり書き連ねたが、実際にはそうした欠点まで含めて、結構楽しめてしまうのだ。いい加減さや矛盾は大いに残されているが、少なくとも観客の目を惹き付けるドラマ作りには成功しているし、作品を楽しむ上でそうした欠点も「ツッコミどころ」として有効に機能している。観ているあいだ、その鮮烈なアクションとスピーディなドラマ展開に酔っていられるが、見終わったあとは一緒に観た人同士の話の種を大いに提供してくれるはず。まさかとは思うが、そうした点まで確信しての作りだとすれば、この監督の狡猾さはそれこそ悪魔の領域に達していると言えるかも知れない。
 レーダーセンスと名付けられた、視覚を補う感覚の描写、アクション描写の創意工夫などなど、ヒーローものとしての見所も随所にある。あまり堅苦しいことを考えずに鑑賞すれば、楽しめること請け合いである。そのテーマの孕む欺瞞などについては、別のところで論じればいいだけの話だ。

 今回、この作品を観て気づいたことがある。
 ここ数年アメリカン・ヒーロー・コミックの実写化がたびたび実現し、『スパイダーマン』の大成功を契機に本編はじめ『X−MEN2』、『ハルク』、『スーパーマン』(しかも二種類あるらしい)などなど新作の企画が増え、隆盛を迎えつつある。
 或いは私が鑑賞した作品のみの傾向かも知れないが、そうしたアメコミ・ヒーローものの実写化には、ハリウッドの常套をややねじ曲げようとする力が働いているように思われて仕方ない。正義を信奉する国・アメリカの、そういう己に盲目でいられない一部がこうしたヒーローものの内容、とりわけその結末に反映されることで、007のようなスパイもの、ダイ・ハードなどのアクション大作とは異なった、アメコミ・ヒーローもの独自の潮流を生みつつあるように感じるのだ。
 近年、ことハリウッド流の娯楽大作――それもアクションを導入したものについては、ここ数年閉塞感が漂っていた感がある。そうした壁を粉砕する流れの一つとして捉えれば、細かな傷などに拘泥する必要はないのかも知れない。
 ……そうは思ったって、やっぱりツッコミどころが多すぎるのは事実なんだが。だって、この結末、あの作品のまんまなんだもん印象が。

 余談。私は生理現象に促されたとかどうしても急いで移動しなきゃいけない、という切羽詰まった事情でもない限り、スタッフロールが終わるまで席を立たない。「Cast」の文字が浮かぶと途端に腰を上げる人々を邪魔にも厭わしくも感じながら、基本的には各個人の自由だと思っているので別に人に強制するつもりはない(ただせめて後ろの席の邪魔にならないよう気遣って出て行けよ、とは思うけど)。
 が、この作品については、席を立つのをしばらく待つよう忠告さしあげたい。大したネタではないが、ちょっとしたおまけがある。

(2003/03/26・2003/10/03追記)


『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る