cinema / 『ダーウィンの悪夢』

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ダーウィンの悪夢
英題:“Darwin's Nightmare” / 監督・構成・撮影:フーベルト・ザウパー / アーティスティック・コラボレーション:サンドール・ライダー、ニック・フリン / プロデューサー:エドワール・モリア、アントニン・スフォボダ、マルティン・フシュラハト、バルバラ・アルベルト、フーベルト・トゥワーン、フーベルト・ザウパー / 編集:デニーズ・ヴィンデフォーデル / 整音:ヴェロニカ・ラワチ / 配給:Bitters End
2004年フランス・オーストリア・ベルギー合作 / 上映時間:1時間52分 / 日本語字幕:Bitters End 字幕制作チーム / 字幕協力:宇野みどり
2006年12月23日日本公開
公式サイト : http://www.darwin-movie.jp/
渋谷シネマライズにて初見(2006/12/23)

[粗筋]
 アフリカ中部にある、世界第三位の面積を有するヴィクトリア湖。シクリッドという魚がその広大な湖の様々な環境に適応し、多くの種類へと進化を遂げていたことから、生物多様性の理想的なモデルとして、“ダーウィンの箱庭”と呼ばれていた。
 だが1980年ごろから、この湖でナイルパーチという巨大魚が、大量に漁獲されるようになった。1960年代にバケツ一杯ほどが放流されたと言われるこの肉食魚は在来種を瞬く間に圧倒し、20世紀末にはヴィクトリア湖沿岸の主要産業として、莫大な富を現地に齎すこととなる。
 だが、その富が潤すのはごく一部の人々に過ぎなかった。周辺地域の発展は、同時に極端な貧富の差を作りだす。危険なナイルパーチ漁に多くの市民が従事するようになったことで、死者が激増する。収入を確保するために妻や娘達は売春に手を染め、孤独な漁師たちや毎日轟音を立ててやって来る輸送機のパイロットを相手に安値で身を売った。その結果、HIVが蔓延し、死者は更に増加する。こうしたかたちで父を失い、母を失った子供達は路上に放り出され、ストリート・チルドレンが溢れていく。僅かな食糧に群がり、家族のない寂しさを、ナイルパーチの梱包材のゴミから作った粗悪なドラッグで誤魔化す。
 大量に輸出するために収穫された魚は工場で解体・冷凍されるが、そこで生じた加工費・人件費のために価格は上がり、日々の食事にも苦慮する現地の人々の口には入らない。代わりに彼らは、加工の過程で省かれた箇所を食べる。頭や尻尾、骨の部分が集められ保管され、それを油で揚げたものが沿岸の村々で売られるのだ。屑を無造作にまとめた集積所の衛生状態は劣悪で、足許には蛆が這い無数の蠅が飛び交っている。発生するアンモニア・ガスが躰を蝕もうと、ここでしか働けない人々が大勢いるのだ。
 加工されたナイルパーチをヨーロッパや日本に輸出するため毎日、昼も夜もなく輸送機が離発着を繰り返す。その数が多すぎるために、原因の特定できない墜落事故も日常茶飯事だ。だが噂によれば、こうして大挙する輸送機は、やって来るときも空ではないという。あるとき、こんな報道があった。タンザニアを訪れた輸送機から、アフリカの紛争地域に持ち込まれるためと見られる大量の武器が発見された――
 ほんのバケツ一杯の魚から始まった悪夢のドミノ倒しは国境を越えて果てしなく世界へと波及していく。この悪夢に、出口はあるのだろうか……?

[感想]
 およそ、本腰を入れたドキュメンタリーほど観ていて気力体力を消耗するジャンルもない。それも本編のように、はなから問題提起を意図して組み上げられた作品ほど、なまじっかの覚悟では付き合いきれないものなのだ。
 恐らく製作者の意図ははじめから明確だ。しかし本編は、その意図が奈辺にあるのか、何を示したいのかについて、終始具体的な説明を施すことはない。映像はまず、作品の主な舞台となるタンザニアのヴィクトリア湖沿岸にある都市ムワンザの飛行場管制室にいる管制官の姿を見せる。盛んに鳴る無線を無視して、彼は室内を飛び回る蜂を追い回している。そして撮影者に訊ねられるまま、連日何機も離発着を繰り返す飛行場にしてはあまりに粗末な設備について淡々と説明する。様々な人間にインタビューしているが、全篇にわたってこんな感じだ。画面上で劇的な出来事が起こるわけでもなく、カメラに映った人物が淡々と自らの立場や置かれた状況を説明する。他には、場面転換の折などに、黒い背景に白い字で簡単な状況説明が入るだけで、そうした映像を繋げていく意図どころか、前後の関連でさえ教えようとはしない。
 観客が自発的に汲み取ることを促すこの極度に抑えた語りは、だがその実、なまじ言葉を尽くすよりも遥かに饒舌に多くのことを物語る。巧みにシャッフルを施し、一見ランダムに並べられた映像は結びついて、ナイルパーチの登場が促した、“風が吹けば桶屋が儲かる”を地で行くような悪夢のドミノ倒しを、映像情報の蓄積によって浮き彫りにしていくのだ。手法としての成熟度は疑うべくもないが、しかしやはり容易な代物ではない。
 しかも、観ながら私が感じたのは、実は本編の取材は本来ナイルパーチが齎したヴィクトリア湖の変化を把握することを意図していたわけでも、滅びた生態系の復活を訴える目的から行われたわけでもないということである。
 撮影者は随所で、「タンザニアから魚を積んで飛び立つ輸送機は、やって来た時点では何を積んでいた(と思う)か?」と取材対象に訊ねている。大半が「解らない」と応え、或いは言を左右し曖昧にするこの問いこそ、撮影者=監督が本来肉薄するつもりであった事実があったように感じられるのだ。
 日々、大量のナイルパーチを運搬するために飛来する輸送機は、搭乗員も中身を知らない巨大なカーゴを乗せてくるという話が途中で交えられる。そして、あくまで報道を聞いた、という形でだが、実際に武器が発見された、という話も織り交ぜられる。こうした描写は、この作品が意図していたのは、各地で内紛の続くアフリカに武器を運び込むその流れを解明することだったような印象を与える。毎日のように輸出される莫大な量の加工食品を隠れ蓑に行われている武器の密輸を暴くことが本来の目的ではなかったか、と思えたのである。
 穿ちすぎた見方かも知れない。だが、そんな勘繰りを許すほどに、本編は説明を絞り込んでいる。故に、同じように本編を観ても、どこに問題を感じるか、製作者が何を訴えようとしているのか、観客によって理解は分かれるだろう。
 しかしだからこそ、本編は“問題提起”として見事にその機能を果たしている。解決策どころか、人によってはその素材選びに恣意を感じて、疑問を抱く向きもあるだろう。しかしそれもまた見方のひとつに違いはない。
 はっきり言って、観ていて楽しいという作品ではない。だが、製作者が選んだ映像の数々から汲み取れるものの豊潤な、極めて興味深い作品であるのは確かだ。
 いずれにせよ、心して観るべき1本である。決して安易な代物ではない。

(2006/12/23)


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