cinema / 『五線譜のラブレター DE-LOVELY』

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五線譜のラブレター DE-LOVELY
原題:“De-Lovely” / 監督・製作:アーウィン・ウィンクラー / 脚本:ジェイ・コックス / 製作:ロブ・コーワン、チャールズ・ウィンクラー / 製作総指揮:ゲイル・イーガン、サイモン・チャニング=ウィリアムズ / 撮影:トニー・ピアース=ロバーツ,BSC / 美術:イヴ・スチュワート / 編集:ジュリー・モンロー / 衣裳:ジャンティ・イェーツ / 衣裳協力:ジョルジオ・アルマーニ / 編曲・音楽製作:スティーヴン・エンデルマン / 作詞作曲:コール・ポーター / ヘアデザイナー:サイモン・トンプソン / メイクアップデザイナー:サラ・モンザーニ / キャスティング:ニナ・ゴールド / 出演:ケヴィン・クライン、アシュレイ・ジャッド、ジョナサン・プライス、ケヴィン・マクナリー、サンドラ・ネルソン、アラン・コーデュナー、ピーター・ポリカーポー、キース・アレン、ジェームズ・ウィルビー、ケヴィン・マクキッド、リチャード・ディレイン、エドワード・ベイカー=ダリー / ヴォーカリスト:ロビー・ウィリアムズ、レマー、エルヴィス・コステロ、アラニス・モリセット、シェリル・クロウ、ミック・ハックネル、ダイアナ・クラール、ヴィヴィアン・グリーン、マリオ・フラングーリス、ララ・ファビアン、ナタリー・コール / メトロ・ゴールドウィン・メイヤー・ピクチャーズ提供 / 配給:20世紀FOX
2004年アメリカ作品 / 上映時間:2時間6分 / 日本語字幕:松浦美奈
2004年12月11日日本公開
公式サイト : http://www.foxjapan.com/movies/delovely/
日比谷シャンテ・シネにて初見(2004/12/11)

[粗筋]
 コール・ポーター(ケヴィン・クライン)が彼にとって終生の女神となるリンダ(アシュレイ・ジャッド)と出逢ったのは1920年代、イェール大学の頃からの親友ジェラルド・マーフィ(ケヴィン・マクナリー)とともにパリに在住しているころのことだった。コールはパリで最も美しい離婚女性と呼ばれていた彼女の美貌と機知に魅せられ、リンダはそんな彼の芳醇な音楽的才能と優しさに惹かれて、関係が深まるのにそう時間はかからなかった。リンダはコールのもうひとつの側面――ゲイ嗜好をさえも許容して、やがてふたりは華燭の典を挙げる。
 だが間もなくコールはスランプを迎え、新たに居を構えたヴェニスで苦悩する日々を繰り返していた。そんな彼にリンダはひとりの男を紹介する。アーヴィング・バーリン(キース・アレン)――アメリカで屈指の流行音楽家として名を馳せる人物だった。ピアノを前に煩悶するコールのもとを訪れたアーヴィングはすぐさま彼の才能に理解を示し、ニューヨークで活動することを勧める。そして間もなく、コールは一通の電報を受け取った。アーヴィングの推薦により、ミュージカル『パリ』の曲作りを要請したものだった。既にフランスなどでキャリアを築いていたコールだったが、この大きすぎる依頼には尻込みする。そんな夫の背中を、リンダは優しく叩くのだった。
 ミュージカル『パリ』は大成功を収め、テーマのひとつ『レッツ・ドゥ・イット』は空前の大ヒットを記録、ニューヨークへとふたたび拠点を移したコールは瞬く間に一流音楽家の仲間入りを果たす。その一方で、大きすぎた名声は妻リンダとのあいだに溝を生じさせた。コールの作品で演出を手がけるモンティ・ウーリー(アラン・コーデュナー)は彼の趣味に理解を示し、主演男優との“情事”を仲立ちしたが、コールの生活が派手になるのに拍車をかけ、杜撰さを嫌うリンダとの関係を悪化させてしまう。
 けれど、コールのほうはふたりの生活が幸せであることをさほど疑っていなかった。やはりアメリカに戻っていた親友ジェラルドが、息子のひとりが結核を患うという不幸に見舞われながらも、気丈な妻サラ(サンドラ・ネルソン)やほかの子供達の献身もあって幸せな表情をしているのを羨んで、初めて子供を望んだ。リンダもまたその期待に応えようとした――だが、ミュージカル『ジュビリー』の初日、欠かさず顔を見せていたリンダは大幅に遅刻し、そのときコールは初めて彼女が妊娠していたことを、その子を流産してしまったことを知る。コールは彼女の心と躰を休ませるためにもう一度居を移す意を固め、新たな活動の場をハリウッドに求めた……

[感想]
 たとえアメリカの歌謡史に疎く、その名を知らなかったとしても、普通に街を歩きテレビを観たりしている限り、一度や二度はそのメロディを耳にしたことがあるはず――それがコール・ポーターという人物である。彼の代表作はそのままスタンダードとなり、マイルス・デイヴィスを筆頭に多くのジャズ・ミュージシャンが演奏し、近年でも本編に参加したミック・ハックネルらがカヴァーしている。そのコール・ポーターと、彼にとっての美の女神であった妻リンダとの恋愛と生涯を描いた作品――ではあるのだが、どうも一風変わっている。
 まずオープニングが不思議なのだ。最初に登場するのは、窓際でひとりピアノを奏でる老いたコール・ポーターと、謎の友人ゲイブ(ジョナサン・プライス)である。彼らがどこかのがらんとしたステージに赴くと、過去ポーターと関わりのあった人物たちが一堂に会し、ふたりを前に歌いまわるが、コールは構成に難癖をつける。つまり、この一幕はコールの生涯をもとにしたミュージカルのリハーサルか通し稽古のようなものが行われている、という場面なのである。コールの注文を受けたゲイブが、舞台上にいるリンダ役の女優――むろんアシュレイ・ジャッドその人だ――に演技指導をすると、舞台はきちんと設計されたセットへと移り、若き日のコールとリンダとの出会いの場面がミュージカル調に描かれる。
 つまり、作品は一種の入れ子構造になっている。どうやら死を間近に控えたか、或いは既に死んだコールが、友人の手によって作られたミュージカルによって自らの人生、とりわけリンダとの関係を顧みるという作りのようだ。この構成のお陰で、コールの姿をなるべくリアルに辿りつつもミュージカル的に彼の楽曲を随所に盛り込むことを可能にしている。
 それにしても驚かされるのは、リンダと深い絆を結ぶ一方で、コールは自らの人数と性別とを問わない多情さを告白し、リンダもそれをあっさりと受け入れてしまっていることだ。実際、結婚ののちもコールは幾度か同性の恋人を作っているし、のちにはリンダが夫に友人を紹介したという経緯が描かれている(何故そんなことをしたのかは本編を御覧いただければ一目瞭然)。リンダはコールの才能とその源泉をよく理解し、押し進めることに躊躇しなかった。
 ただ、だからといって互いに依存し合うことはなく、また一切合切を肯定することもなかった。パーティに遅刻するといった類の杜撰さには我慢が出来なかったリンダは、有名になるにつれ節度を失っていったコールをたびたび責める。それが鬱陶しさにコールの心はリンダから一時離れ、またのちにはリンダがパリに帰るような事態となるのだが、お互いに寄せる深い思いを自覚しながら離れることを止められないのは、それぞれが独立した人間であることを認め合っているからだろう。あまりに貪欲に求め合い、理解し合っているからこそ最後に相容れない部分は残ってしまう。空恐ろしくなるほどの情の深さだが、そこに一抹の寂しさを見てしまうのは、たぶん気のせいではないと思う。歌が高らかに愛を賞賛し、暮らしぶりが華やかであればあるほど、常に虚ろさが離れない。その微妙な感覚が、作品を却ってただ虚飾だけの浅はかなラブストーリーの枠を突き抜けさせている。
 のちにコールは事故で深手を負い、それをきっかけにリンダはふたたびコールの傍に寄り添うようになるのだが、後遺症のために演奏もままならないコールの姿と、けれど彼の本質を理解しているが故に思い切って苦しみを取り払う決断が出来ないリンダの姿には、華やかさよりもやはり互いを思いやる心持ちの深さ故の業がつきまとう。相変わらず随所に流れる音楽やコールの歌声は洒脱なのに、どうしようもない儚さが漂っている。リンダの死後、彼女の危惧したとおりに曲を書くことさえ出来なくなったコールは晩年、長い付き合いのジェラルド夫妻やリンダが残してくれた友人ビル・ラーザー(リチャード・ディレイン)さえも遠ざけ、完全にひとりぼっちとなっていく。
 ここで活きてくるのが、入れ子構造である。暗い結末だ、と毒突くコールに、ゲイブは壮麗なフィナーレを提供する。そしてすべてが終わったあとにもう一幕、静かな余韻を残す場面を用意して、物語はゆっくりと幕を下ろす――
 この入れ子の部分は無論すべて実話ではない(実話だったら吃驚だ)。だとしたら、コールの生涯、特にリンダとの絆を描いた本編にとって、この構造とラストシーンにはどんな意味があったのか? ミュージカルとして華やかな、また美しい幕切れを演出するため、というのも事実だろう。だが本当のところは、あれほど美しく心昂らせる歌を多く残したのに、決して明るいとは言えぬ晩年を過ごしたコールに対するはなむけ、という意図があったからではなかったか。
 つまり本編は、単純な娯楽性の追求よりも、アメリカの歌謡史に功績多大なコール・ポーターという人物に対する敬意を表し、感謝を送るための作品であった、というふうに感じる。作中、随所でコールの名曲を歌う著名アーティストたちの活き活きと楽しそうなさまはどうだ、そしてクライマックスの華麗さと、ラストシーンの静かな余韻の深さはどうだ。
 歌と物語とを融合しようとしたあまり、物語の時間的変遷が捉えにくくなっているとか、事実と虚構の境目があまりに不明瞭であるために一部効果を失くした表現もあるのも否めない。だが、主人公であるコールと、彼を終生包んだリンダとに深い思いやりを感じさせる作りは、そうした疵を大いに承知のうえで名作と言いたくなる。そういう意味でも、やはり風変わりな作品なのだ、本編は。

(2004/12/11)


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