cinema / 『デッドベイビーズ』

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デッドベイビーズ
原題:“Dead Babies” / 原作:マーティン・エイミス / 監督・脚本・出演:ウィリアム・マーシュ / 製作:リチャード・ホームズ、ニール・ペプロウ / 撮影監督:ダニエル・コーエン / 美術:マーク・ターナー / 衣装:ラルフ・ホームズ / 編集:エディ・ハミルトン / 音楽スーパーバイザー:ナイジェル・バー、エド・タラント / 出演:ポール・ベタニー、オリヴィア・ウィリアムス、チャーリー・コンドー、アレクサンドラ・ギルプレス、クリスチャン・ソリメノ、アンディ・ナイマン、ケーティー・カーマイケル、クリス・マーシャル / 配給:Art Port
2000年イギリス作品 / 上映時間:1時間42分 / 字幕:小寺陽子
2003年07月12日日本公開
公式サイト : http://www.deadbabies.jp/
シブヤ・シネマ・ソサエティにて初見(2003/07/12)

[粗筋]
 ロンドン郊外にある大邸宅には六人の変わり者が住んでいる。病気の母親から館を相続したものの口下手で家に籠もりきり、歯が全部無くなるという妄想から逃れるためにアルコールに溺れる優男のジャイルズ(チャーリー・コンドー)。インテリ志向で交友関係が広く、独特のリーダーシップを取るクエンティン(ポール・ベタニー)。その新妻で彼にベタ惚れ、だが些細なことでヒステリーを起こすシリア(アレクサンドラ・ギルブレス)。暴君ぶりを固辞し精力旺盛を装っているが万事口だけのアンディ(クリスチャン・ソリメノ)。その恋人だがアンディにはすっかり冷められ、セックスのない毎日に悶々としているダイアナ(オリビア・ウィリアムス)。そして「ひとり道化が欲しい」という理由で加えられた、チビでデブで短小、未だにニキビの消えない容姿に抱いたコンプレックスのために一時期精神病院に入っていたキース(アンディ・ナイマン)。
 微妙にマニアックで滑稽な暮らしぶりの彼らが目下何より楽しみにしているのは、週末に開くドラッグ・パーティだった。クエンティンの旧知の人物であるという、あらゆるドラッグに精通したマーヴェル(ウィリアム・マーシュ)にその恋人で色気ムンムンのロクサーヌ(ヘイリー・カー)、過去に重苦しいトラウマを抱えてマーヴェルたちにに引き取られたホモセクシャルのスキップ(クリス・マーシャル)という三人のアメリカ人女性に、アンディたちにとってもお馴染みのやりマン・ルーシー(ケーティー・カーマイケル)の四人をゲストに招いてのパーティーに、特にいまもって童貞のキースの期待は膨らむ一方。
 その頃ロンドンでは、「殺人論者」なるウェブサイトから波及した連続殺人が人々を震撼させていた。殺人の美学を謳い、統一した手法で同時期に殺人を行いその成果をサイトで発表するという主旨で、それに賛同して殺人を犯すものがあとを絶たず今年に入ってから数十件の事件が発生していた。ジャイルズやキースはややビクついているが、クエンティンは冷めたもの。
 そして週末が訪れた。牧場に侵入してピクニックをしたり前衛パフォーマンスを鑑賞したりと週末を満喫する彼らだったが、そのさなか、ダイアナの元に「殺人論者」の一員からと思しい不気味な脅迫状が届くのだった……

[感想]
 とりあえず、イギリス若者版『ラスベガスをやっつけろ』(テリー・ギリアム監督)ミステリ風味、という趣。
“アガサクリスティック・エログロ・ファンタジー”と(日本の配給元が)銘打ったイギリス映画だが……要するにドラッグムービーである。終始飛ぶことしか考えてない連中がお馬鹿な週末を過ごしていたら、いつの間にか巷を騒がせている殺人狂が紛れ込んでいた、という内容で、しかも脅迫状が届いてからも推理小説的な展開にはどーしてもならない。ところどころで「あいつが怪しい」「こいつの悪戯じゃないか」という会話が交わされたりするのだが、真面目に推理しているとは思えない。しかも、脅迫状や同様の悪戯が何度か繰り返されるのに、その頃には全員いい具合にハイになっていて幻覚と現実の区別がついていないのか、被害者は他の仲間に進んで報せようとはしないし、並行して各人のトラウマとか悩みに絡んだ事件が散発するのでいつの間にか有耶無耶になっている。しかも本当に深刻な事件が発生するのは終盤20分ほどで、その前はどうも纏まりのないエピソードが羅列されているように見えるだけ。ラスト自体も伏線から論理的に導き出されるものではなく(たとえ予め決められていた真実だとしても)どうにも唐突の感が否めず、「アガサクリスティック」とか「フーダニット」という言葉が相応しいような作りではないしそうしたカタルシスは得られない。
 が、あとになって振り返ってみると、いちおうそれなりにラストの展開を納得させるための伏線は張られているし、時間的整合性もある程度は計算された節がある。狂騒的なコメディとしての側面の自己主張の激しさが、そうした計算高さを覆い隠している、という雰囲気はある。ただ、そう考えてみても終盤の推移はあまりに突然で驚いている暇もないのが実際なのだが。途中経過はさておいても、ラストシーンは現実としてこういう展開が起きるとは考え難い(また、そういう風に感じさせてしまう)点も疵と言えるだろう。
 基調はブラックユーモアなのだが、イギリス独特の風俗や社会性を反映したと思しいネタがほとんどのようで、日本人としては「笑う」というよりも「呆れる」感覚のものが多すぎるため、ドラッグ使いまくって無茶苦茶しているだけの前半1時間ぐらいで飽きるのも辛い。繰り返し見ているうちに様々な発見がありそうな、巫山戯ているようでいて理知的な組み立ては間違いなく窺えるのだが、初見の印象でリピーターになるのは、ごく一般的な観客には難しいだろう。
 屈折した企みが随所に窺え、ちょっとひねた映画好きにはなかなか惹かれるところの多い作品なのだが、ドラッグムービーと思うにしてもミステリ映画と思うにしても、通常の感性とずれているため、どちらかのジャンルを期待していると裏切られるだろう。実際、後者よりのものに寄せる期待が若干あった私自身、あまり満足できなかった。既にイギリス風俗、とりわけドラッグ・カルチャーについてある程度の含蓄がある方、或いはちょっと屈折した作風が好みの映画マニアにはお薦めするが、そうでない方は留意するべきだろう。とりあえず、原作はどうだか知らないが、この映画の作りで「アガサ・クリスティ」を標榜するのは止めて。期待するのも止めて。

 毎回ここの記事は劇場で購入したプログラムやプレスシートを参考に書き上げているわけですが、本編のプログラム(ブックレット、と呼んでいたか?)は表記があっちこっち混乱していて使いづらかった。特に役者のプロフィール、通常は「太字で芸名(役名)」という表記をしているはずなのだが、「ルーシー/ケーティー・カーマイケル(ルーシー)」に「マーヴェル/監督・脚本(ウィリアム・マーシュ)」なんてのがあって、頭がこんがらかるったらありません。まだ前者は余計なものが頭についているだけだが、後者なんかぐちゃぐちゃもいいところではないかっ。

(2003/07/13)


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