cinema / 『ドッグヴィル』

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ドッグヴィル
原題:“DOGVILLE” / 監督・脚本・カメラオペレーター:ラース・フォン・トリアー / 製作:ヴィベケ・ウィンデロフ / 製作総指揮:ペーター・オールベック・イェンセン / 撮影監督:アンソニー・ドット・マントル / キャスティング:アビー・カウフマン、ジョイス・ネットルズ / 音楽:ベール・ストライト / 編集:モリー・マレーネ・ステンスガード / 美術:カール・ユリウスン / 編集:マノン・ラスムッセン / 照明:アサ・フランケンベルグ / 出演:ニコール・キッドマン、ポール・ベタニー、クロエ・セヴィニー、ローレン・バコール、パトリシア・クラークソン、ベン・ギャザラ、ジェームズ・カーン、ステラン・スカールスゲールド、ジェレミー・デイヴィス、フィリップ・ベイカー・ホール、ショブファン・ファロン、ジャン・マルク・バール、ジョン・ハート / 配給:GAGA Commucications G-CINEMA
2003年デンマーク作品 / 上映時間:2時間57分 / 日本語字幕:松浦美奈
2004年02月21日日本公開
2004年07月23日DVD日本版発売 [amazon|コンプリートBOX:amazon]
公式サイト : http://www.gaga.ne.jp/dogville/
日比谷映画にて初見(2004/02/21)

[粗筋]
 ロッキー山脈の麓、遥か昔に閉鎖された廃坑で行き止まりになる、孤立した場所に“ドッグヴィル”があった。住人はわずか二十三人、家屋はみな醜く朽ちて見る影もない。ただ一軒、比較的まともな家に暮らしているのはトム・エディソン(ポール・ベタニー)とその父親(フィリップ・ベイカー・ホール)。父親は元医師で、年金で暮らす健康な老人だが、色々と秘密の多い薬品棚を持っている。息子のトムは小説家を名乗っているが、今のところ大した作品を書き上げていない。この村を愛する彼は、安定し硬直化した村の未来を憂えて、変化を齎そうとあれこれ画策している。ときおり呼びかけて牧師のいない教会に住人を集め、説教を試みるが成果は芳しくない。何か具体的なものが必要だ、と感じ始めていた。
 トムの望んでいた“恩寵”は突如、不吉な物音と共にやってきた。いつものようにハンソン家を訪れ、エンジニアを目指すビル(ジェレミー・デイヴィス)をカモにチェッカーに興じているとき聴こえたその音に、楡など一本たりとも生えていないエルム(楡)通りを抜けてジョージタウンのほうに近づいてみると、ふたたび何度かその物音が響いたあと、あたりはいつもの静寂を取り戻した。トムの耳にその音は銃声にしか聞こえなかった。
 そのまま“老女のベンチ”と名付けられた椅子で瞑想に耽っていたトムは、何かの気配に誘われて、エルム通りの反対側、行き止まりのほうへと向かった。チャック(ステラン・スカールスゲールド)とヴェラ(パトリシア・クラークソン)夫婦の飼う犬のモーゼスに吠えたてられていたのは、見慣れぬ美しい女だった。やがて聴こえてきた車の音に怯える彼女をトムは廃坑に匿い、やって来た車に乗るいかにも堅気とは思えない連中の質問に「誰も来なかった」と応える。後部座席に乗った大柄で貫禄のある男(ジェームズ・カーン)はトムに名刺を手渡し、女を見つけたら謝礼を渡す、と言いおいてその場を去っていった。
 グレース(ニコール・キッドマン)と名乗った美しい逃亡者は、はじめトムの施しをすべて拒んで消えるつもりだった。だが、どのみちこの村は行き止まりであり、ここまで追ってきた以上、相手は下にある町のどこかで待ち伏せている。ドッグヴィルに受け入れられて、やり過ごすしかない、とトムは必死に説き伏せる。彼にはひとつの目論見があった。彼女こそ、この閉塞状態に陥った村に変革を齎す、天からの贈り物になるのではないか、という。
 翌日催した集会の場で、トムはグレースを村の住人に紹介、事情を説明したうえで彼女を受け入れるように懇願した。だが、ギャングとしか思えない人間から逃亡を図りながら自らの事情をすべて語ろうとしない彼女に、村人は不審を抱いている。トムはひとつの提案をした。ドッグヴィルの人々は二週間の猶予をグレースに与える。そのあいだ、彼女は村人それぞれの仕事を手伝い、受け入れられる努力をする。二週間後にふたたび集会を開き、ひとりでも反対者がいた場合、トム自らが彼女を追い出す……
 だが、トムが予想していたほどことは簡単ではなかった。小さな世界で輪が成立しているドッグヴィルには手伝いを必要とする仕事などほとんどなく、グレースはなかなか入り込むことが出来ない。そこでトムが考えたのは、やってみる価値はあるけれど、実際には誰もやろうとしなかった仕事をする、というものだった。例えば、オリヴィア(クレオ・キング)の体の不自由なひとり娘ジューン(シャウナ・シム)のトイレの世話はいつも、自分が留守の時でもひとりで出来るようにオリヴィア準備していたために第三者の手は要らなかった。盲目であることを隠すために家に籠もりっぱなしのジャック・マッケイ(ベン・ギャザラ)は、秘密を知られたくないからこそ話し相手など不要だった。かぼそい運送業を営み、家といってもガレージしかないベン(ゼルイコ・イヴァネク)の家事を手伝う必要などまるでなかった。グレースはそうした“本当なら必要のない仕事”を手伝うところから、村人たちに溶け込む努力をした。
 二週間は瞬く間に過ぎていった。いつしかチャックを除く殆どの村人に受け入れられ、彼女自身この地と村人とを愛するようになっていたグレースは、少し積極的な行動に出てみた。盲目のジャックが閉めきっていた部屋のカーテンを開け放ったのだ――その行動は彼女の予測よりも遥かに大きな衝撃をジャックに齎した。帰ってくれ、というジャックの言葉に、グレースは反論も出来ずにその場をあとにした。
 そして、採決の日が訪れた。賛成票の数だけ鐘を鳴らして欲しい、と言い残して、グレースは廃坑に身を潜める。投票権のある大人達は十五人。……鐘は、十五回鳴った。
 グレースには使われていなかった家が宛がわれた。完璧に村人の一人となったかのように誰もが錯覚していた。だが、グレースとドッグヴィルの蜜月は、さほど長くなかった……

[感想]
 予備知識があっても、この舞台設定には度肝を抜かれる。
 設定上、物語はアメリカ・ロッキー山脈にある田舎町、それも大恐慌の頃を想定して描かれている。だが、背景にそれらは一切存在しない。あるのは真っ黒に塗りたくられたステージと、その上にチョークで引かれただけの架空の仕切り、そして書き物机に作業台、オルガンに黒板などなど、それぞれのキャラクターを象徴する最小限の小道具などのみ。書き割りで作られた背景もない。その作り故に、作品はどこか演劇のような雰囲気を漂わせている。昼と夜は照明によってコントロールされ、ラストシーンで象徴的に利用される月明かりもまたライトを駆使して表現する。海外の映画としては珍しく、プログラムに「照明」が特記されているのも当然と言えよう。
 だが、演劇との共通点はその程度でしかない。この極端に制限された舞台を、スタッフは実に細やかな形でいじり、四季折々をきちんと描き出している。春には花吹雪が舞い、秋には枯れ葉が通りに散らばり、冬には雪が村を覆う。その中で、登場人物たちはほぼ全編、いちどとして退場することなく、常に何らかの形で動いている。
 ポイントはここなのだ。チョークしか境界線が存在しない、ということは、たとえ描写のうえでは壁があるとしても、カメラの前に現実の遮蔽物はなく、他の人物に焦点があっているあいだも日常の延長としての演技を続けなければならない。役者の技量も無論求められるが、それ以上に絶え間ない緊張感は想像を絶するだろう。リップサービスではあろうが、「この監督の映画には二度と出ない」と言う出演者が現れるのも無理からぬところだ。
 だが、この表現手法そのものが、孤立しプライバシーというものが極めて制限された共同体の姿を見事に剥き出しにさせている。言葉や役者の表情だけでは充分に描くことのできない、息苦しいまでの緊張感と閉塞感を映し出しているのだ。アイディアと主題とが完璧に調和し、隙のない作品世界を構築している。
 では、ストーリーはどうか。個人的に、喧伝される「衝撃のラスト」にはさほど驚かなかった。テーマもさることながら、舞台の制約がそのままこの結末を示唆していたので、ずいぶん前から予備知識を得ていた私には意外ではなかったのである。
 しかし、本編の勘所は寧ろ合間合間に描かれる登場人物たちの感情や行動が、その結末に至るまでの推移そのものだろう。粗筋に示したあたりまでは実に悠長なペースで、少しずつグレースが村に溶け込んでいくさまを描写しながら、それがある日を境に次第に逆転していく。序盤で示された幾つかのガジェットが、グレースの境遇を悪化させるために悪魔的なまでの効果を発揮し、逆境に転じていく様子は吐き気を催しそうになるほど痛烈だ。
 何よりもきついのは、登場人物がいみじくも「腐っている」と語る村の人々が、決して悪人ではないと観客に解ってしまうことだ。確かにそれぞれ看過できない欠点を抱えているが、その程度どんな人間でも持ち合わせているものだろう。観ているあいだ、観客それぞれが自らの周囲に似た人々を脳裏に思い描いているかも知れない。それが、終盤に至って――日常では決して欠点とばかり言えない点が強調され、悪鬼の所業の如く繰り出される。更に皮肉なのは、グレースの逆境を決定づけるある行動に出る人物は、まさに村人を「腐っている」と表現した当人であることだ。これを凶悪と喩えずしてなんと呼べばいいのか。
 そして物語は不可避の結末に着地する。卓袱台をひっくり返すのにも等しいこのクライマックスは、人によって或いはただ痛快な結末に感じるかも知れない。だが、たぶんほとんどの人は僅かの爽快感と共に名状しがたい空しさを覚えるだろう。作中随所に張り巡らされた現代社会に対する皮肉とも取れる描写、あるいは随所で展開される登場人物同士の答の見つからない議論を蘇らせて、モヤモヤとした思いを抱くかも知れない。
 それこそがラース・フォン・トリアー監督の狙いであることは、まず間違いないだろう。わざわざデンマークに設けた密室でアメリカを舞台にした映画を撮る、という行為自体から窺えるように、ベースにはアメリカ社会への揶揄と痛烈な批判があるのだが、そんな風に一面的に捉えて収まるような作品でもない。このような状況はアメリカでなくても、閉鎖的な共同体であれば起こりうることだし、そう感じさせることで思索の種を植え付けることが、根本の狙いではなかろうか。
 娯楽作品、とはとうてい呼べない。その長尺もさることながら、重苦しい主題と(喩え推測できていたとしても)間違いなく衝撃的なラストは観客の心にさながら錘を括り付ける。覚悟を決めて真剣に取り組むべき映画であり、それだけの価値を充分に備えた逸品である。
 ……無論、無理をしてまで観ろ、とまでは言わないけれど。

 ラース・フォン・トリアー監督といえば、しばらく前の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を覚えている方もあるだろう。カンヌ映画祭でパルムドールを獲得、主演のビョークとの確執なども伝えられながら興行的にも成功を収めた作品だが、アメリカの一部の評論家からは貶されたらしい。何でも、いちどもアメリカに訪れたことのない監督が、アメリカを舞台にしながらアメリカでのロケを一切行わない映画を撮った、という事実から作品を否定したそうだ。
 具体的にどんな文脈で、どのくらいの評論家がそのような論調で批判したのか(そもそも本当にその程度のことで否定したのか)定かではないが、いずれにしても監督はこの評に却って発憤し、本編をはじめとするアメリカを舞台とした三部作を構想するに至ったという。
 技術のみでも充分に衝撃的な本編だが、これほどの効果を発揮するためには“アメリカ”というキーワードが必要不可欠であったのは間違いない。他の場所でも成立するエピソードだし、必ずしもアメリカが舞台である必要はない、と言っても、監督がこれほどまでに神経を尖らせ、徹底的にこだわった背景に前述の批判があり、更にその背後に“アメリカ”というものが存在していることが、本編の完成度を高めたのだ。
 ――つまるところ、結果的にこれほどの怪作を齎すきっかけを与えてくれたその批評家たちに、或いは感謝するべきなのかも知れない。世の中、何が幸いするか解ったもんじゃない。

(2004/02/22・2004/07/22追記)


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