cinema / 『恋は邪魔者』

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恋は邪魔者
原題:“Down with Love” / 監督:ペイトン・リード / 脚本:イヴ・アラート、デニス・ドレイク / 製作:ブルース・コーエン、ダン・ジンクス / 製作総指揮:パディ・カレン、アーノン・ミルチャン / 撮影監督:ジェフ・クローネンウェス、A.S.C. / プロダクション・デザイン:アンドリュー・ロウズ / 編集:ラリー・ボック / 衣裳デザイン:ダニエル・オーランディ / 音楽:マーク・シェイマン / 音楽スーパーバイザー:クリス・ドゥリダス、ローラ・Z・ワッサーマン / 出演:レニー・ゼルウィガー、ユアン・マクレガー、デヴィッド・ハイド・ピアース、サラ・ポールソン、トニー・ランドール、レイチェル・ドラッチ、ジャック・プロトニック、ジェリー・ライアン / 配給:20世紀フォックス
2003年アメリカ作品 / 上映時間:1時間41分 / 字幕翻訳:松浦美奈
2003年10月18日日本公開
2004年05月28日DVD版日本発売 [amazon]
公式サイト : http://www.foxjapan.com/movies/downwithlove/
日比谷みゆき座にて初見(2003/11/08)

[粗筋]
 1962年、ニューヨークはまさにアメリカン・ドリームの街として人々の憧れを集め、人口は800万に達そうとしていた。人でごった返す駅にいましも降り立ったのは、やはり夢と希望とを胸一杯にたたえた女性バーバラ・ノヴァク(レニー・ゼルウィガー)。女性に自立と、恋愛という束縛からの解放を訴えるノンフィクション『恋は邪魔者』の出版を一ヶ月後に控えて、生活の拠点をニューヨークに移し、編集担当のヴィッキー・ヒラー(サラ・ポールソン)とともに表紙の撮影や様々なキャンペーンを行う予定だった――が。
 出版社のお偉方は、「チョコレートさえあれば快楽を代用できる」と言い切ってはばからないバーバラに拒絶反応を示し、大規模な広告戦略に乗り気にならない。そこでヴィッキーは次の手を打つことにした。大手新聞紙“KNOW”の看板記者で、数々のスクープを手がけると同時に当代きってのプレイボーイとしても知られるキャッチャー・ブロック(ユアン・マクレガー)にカバーストーリーを書いてもらって衆目を集めよう、というのだ。打ち合わせのために会食の席を設け、バーバラとサラは意気揚々と出かけていくが、キャッチャーは急用が出来たと電話で断りを入れてきた。
 辛抱強く耐えていたふたりだったが、三度目ともなると流石に冷静ではいられない。すると、後ろの席からスチュワーデスらしい女性ふたりの会話が聴こえてきた――バーバラが約束していた時間に、それぞれキャッチャーと睦み合っていたという話が。最高のタイミングでかかってきた電話に、捨て科白を吐き捨ててバーバラは席を立った。
 これといった宣伝も出来ないまま出版の日を迎えた『恋は邪魔者』は、各書店に一冊ずつ棚に挿されているだけという寂しい状態が続いていたが、あの“エド・サリバン・ショー”に出演したジュディ・ガーランドが同題の歌を披露したことがきっかけで、事態は好転した――というより、まったく明後日のほうに向かってしまった。
 翌日から、ニューヨーク中の女性は無論のこと、女性心理を知りたいと考える男性に、内容を「罪悪だ」と決めつけて焼き払いながら後日こっそりと買い直す教会関係者など、様々な人々が『恋は邪魔者』を買いに走るようになり、バーバラは一躍時の人となった。テレビのバラエティ・ショーに招かれたバーバラは、いつかすっぽかされた鬱憤を晴らすように、本の内容にかこつけてキャッチャーを名指しで批判した。いわく、まるでシャツを着替えるように四六時中女を換えている最低の男。
 名うてのプレイボーイは一転、ニューヨーク中の女性にそっぽを向かれる嫌われ者となった。だがしかし、キャッチャーも黙って引き下がるような男ではない。自由なセックスを訴えながら、名前が知れ渡ったために世の男性から忌み嫌われ触れあいの機会を失っているバーバラに、キャッチャーは名前を偽って接近した――宇宙飛行士の仕事で地球を離れていたために、バーバラの功罪を何一つ知らないジップ・マーティン少佐として。果たせるかな、バーバラは早速餌に食いついた……

[感想]
 妙な話だが、鑑賞しながら思い出したのは、ごく最近鑑賞した『エデンより彼方に』である。
 ロケばかりだったのに、色彩を明確に描き出すことで全編書き割りのような雰囲気を醸し出した『エデン〜』に対し、こちらは不純物なしの(?)オール書き割りだ。壁にセットが書いてある、と聞かされなくとも「平べったいぞー!」と叫びつつ、その描き込みにうっとりとしてまうような、職人技の書き割りが作品を彩っている。
 このあからさまに作り物っぽい舞台で展開する物語も、見事に作り物っぽい。登場人物は抜群のリズム感覚で言葉の投げ合いをし、タクシーは絶妙のタイミングで通りがかり雨はまるで合図を待っていたかのように降り出す(しかも止まない)。合成や二分割といった現代的な効果も取り入れつつ、まさに60年代のファッショナブルなコメディ映画のムードを再現しているのだ。ある意味中途半端なリアリズムか、或いは常識無視の派手なアクションが横溢する昨今の映画と並べてみると、その割り切った作り物っぽさが却って心地よく楽しい。前述の『エデンより彼方に』にしてからがそういう印象なのだが、現代の文法で再現した「過去」は、まるで解ったうえでファンタジーを作り出したような趣がある。
 そうした、いわば「作り物」へのこだわりが横溢する本編、肝心の話のほうは単なるラブコメディだろうと侮っていたが、なかなかどうして、一筋縄ではいかない。序盤の細やかなやり取りも楽しいが、主人公のひとりキャッチャーが身分を偽ってバーバラに接近しはじめてからの中盤以降はコメディ特有の和やかさやロマンティックな雰囲気とともに緊張感さえ漂わせ、終盤にはさながらミステリのどんでん返しを思わせるひねりを幾度も加えてくる。
 更に楽しいのが細部の遊びだ。60年代は性的表現への厳格な規制があり、直接的な表現は一切御法度。そこで当時は様々な隠喩や視覚的な遊びを導入してエロティシズムを代用した。60年代初期への徹底したオマージュでもある本編はそれに倣い、ベッドインすらまともに描かない一方で随所に、いっそ「下品」と呼びたくなる艶っぽい描写を盛り込んでいる。キャッチャーと彼の親友ピーター(デヴィッド・ハイド・ピアーズ)が執務室でガーターが要らないロングソックスの話をしているのを、新米秘書が途中から盗み聞きしてモノの話だと勘違いして卒倒したり、キャッチャーとバーバラの電話越しの会話を画面二分割で描きながら、二分割の比率や位置を細かく変えてまるで行為に及んでいるように見せたり(しかも最後はふたり揃って煙草を吸っている)。当時をシニカルになぞりながら、それ故に60年代への限りない愛を感じさせる。
 かといってノスタルジーに走っていないのも特徴のひとつだ。徹底的なひねりを加えた挙句の終盤の筋書きは、当時の完成や制約の下では表現できなかっただろうし、今だからこそ描きえたものに違いない。
 売りも見た目も如何にもロマンチックなラブコメディといった趣だが、内実は様式美にこだわりつつ知的に練り込まれた秀逸なファンタジーというべきだろう。
 終盤近く、互いに正体を知りながら、結局キャッチャーを振り切ってその場を去っていくノヴァクが飛び乗ったタクシーには、「Catcher」の看板がかかっている。その後の展開は、まあ、御覧の通りなのだが――はて、誰が誰を「捕まえた」のだろうね?

 本編がリズム感のある会話によって支えられているのは前述の通りだが、主演ふたりがつい最近現代流ミュージカル映画の秀作に主演したばかりの役者であったせいか、決して歌っていないのに話のノリはどこかミュージカル風である。それを裏書きするように、ラストシーンはふたりによるデュエットで飾っている。アニメーションに乗せてのオープニングは作中でジュディ・ガーランドが歌う“恋は邪魔者”をふたりのデュエットで届けているが、それをひっくり返したような歌詞がエンディングに来るのも面白い趣向である。
 普通の女性が変貌していく様を演じさせて一級のレニー・ゼルウィガーは本編でもちょっとあか抜けない、けれど独特のオーラを放つ女性を巧みに演じきっているが、今回の目玉は寧ろユアン・マクレガーだろう。多分にストーリー展開故でもあるのだが、にしてもヒロインを食うほどにまで愛らしいプレイボーイはちょっと最近観た覚えがない。
 出色は中盤の目玉、作戦の一環として決して一線を踏み越えない制約を自分に課していたキャッチャーは、バーバラの口から求める言葉を出させながらも更に踏み止まる。彼女を帰したあと、ボトルケースを片手に提げてベランダまでふらふらと歩いて行くと、中に入っていた氷と水を着衣のまま頭からかぶる。濡れた格好で天体望遠鏡に手を添えて気取った仕草をしてみせる後ろ姿、女性ならそーとーグッと来るのではなかろうか。

(2003/11/09・2004/05/27追記)


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