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『light as a feather』トップページに戻るエレファント
原題:“Elephant” / 監督・脚本・編集:ガス・ヴァン・サント / 製作:ダニー・ウルフ / 製作総指揮:ダイアン・キートン、ビル・ロビンソン / 撮影監督:ハリス・サヴィデス,A.S.C. / 音響デザイン:レスリー・シャッツ,C.S.T. / キャスティング:マリー・フィン,C.S.A.、ダニー・ストルツ / 出演:アレックス・フロスト、エリック・デューレン、ジョン・ロビンソン、イライアス・マッコネル、ジョーダン・テイラー、キャリー・フィンクリー、ニコル・ジョージ、ブリタニー・マウンテン、アリシア・マイルズ、クリスティン・ヒックス、ベニー・ディクソン、ネイサン・テイラー、ティモシー・ボトムズ、マット・マロイ / 配給:東京テアトル、エレファント・ピクチャー
2003年アメリカ作品 / 上映時間:1時間21分 / 日本語字幕:江口研一
2004年03月27日日本公開
2004年12月03日DVD日本版発売 [amazon]
公式サイト : http://www.elephant-movie.com/
シネセゾン渋谷にて初見(2004/03/27)[粗筋]
ジョン(ジョン・ロビンソン)はとうとう音をあげて、父(ティモシー・ボトムズ)と運転を代わった。アル中気味の父が車で学校まで送ってくれる、といったところまでは良かったが、あまりにひどい運転で、学校に着くなりジョンは兄に連絡して迎えに来てもらうほかなかった。更に、電話をかけているところでルース校長(マット・マロイ)と出くわしてしまい、遅刻の件でこってりと絞られる羽目になる。視聴覚室で涙ぐんだ彼に、通りかかったガールフレンドのアケイディア(アリシア・マイルズ)はキスをした。
イーライ(イライアス・マッコネル)はすれ違ったパンク・カップルを撮影したばかりのカメラを携えて写真部の部室に戻った。暗室でフィルムを開封し、洗浄して乾かす。親しい女の子とフィルムの出来について語り合い、それから図書室に向かう途中ですれ違ったジョンにも写真を撮らせてもらった。
ネイサン(ネイサン・テイラー)は何気なく歩いていても女の子たちの目を惹く、華のある容姿をしたバスケットボール部員だが、かなり嫉妬深いキャリー(キャリー・フィンクリー)という恋人が既にいた。事務室で外出許可を得ると、ふたりは肩を並べて廊下を歩いていった。
ミシェル(クリスティン・ヒックス)は運動の授業の直後、体育教師に長いパンツを履いていることを注意された。更衣室にはいちばん最後に入り、なるべくゆっくりと着替えるけれど、それでもクラスメイトの「ダサい」という言葉が引っかかってしまう。溜息を吐きながらどうにか着替えを済ませると、棚の整理を手伝うために図書室に向かった。
ジョーダン(ジョーダン・テイラー)とニコル(ニコル・ジョージ)とブリタニー(ブリタニー・マウンテン)は揃って恋の話題とダイエットに夢中な、そういう意味ではごく普通の友達三人組だった。最近彼氏にばかりかまけて親友を蔑ろにする女への苦言とか、監視好きの母親についての愚痴を交わしながらランチを済ませると、そのままトイレへ直行して、食べたばかりのものを吐き出した。
アレックス(アレックス・フロスト)は典型的ないじめられっ子だった。授業中、クラスメイトに投げつけられた濡れティッシュをトイレで落とすと、食堂に向かう。盛んにメモを取っている彼を不思議がる女の子に、「計画を練ってるんだ」と応えた。家に帰り、親友のエリック(エリック・デューレン)がくつろぐ前でピアノを弾く。それからふたりは、銃器のオンライン・ショップにアクセスして、ライフルを注文した。
事務室で兄に手渡す鍵を預けて、廊下ですれ違ったイーライに写真を撮られたあと、ジョンは食堂脇から学校を出た。馴染みの犬と軽く戯れた彼の目に留まったのは、学校には不釣り合いな大荷物を携えたアレックスとエリックの姿。どうしたんだ、と訊ねるジョンに、ふたりは暗い調子で応えた。
「学校に入ってくるな。地獄を見るぞ」[感想]
説明しようとしていない話の説明ほど難しいものもなく。
舞台こそ異なっているが、本編のモチーフは間違いなく1999年にコロラド州のコロンバイン高校で発生した生徒による銃乱射事件だ。教育現場に対する認識を変質させ、最終的に自殺した犯人の少年ふたりが聴いていたことからスケープゴートとしてあるミュージシャンが槍玉に挙げられたり、一昨年には記憶にも新しいマイケル・ムーア監督『ボウリング・フォー・コロンバイン』というドキュメンタリー映画を導いた、あの事件である。
本編は犯人ふたりを含めた数人の高校生のごく普通の日常を追い、突如として暗転する瞬間を、BGMを極限まで抑えた静かなタッチで見せていく。だが、実際の事件をモチーフにした、と聞いて私たちが普通考えるような、動機の解明や事実関係の整理など、本編では一切行っていない。ただ起きたことを本当に並べているだけだ。
但し、並びは時系列に添っていない。実は本編の最も秀逸な点はここにある。ごく普通の生活を送っている高校生たちを、主にその後ろからカメラは追っていく。すれ違った友人と語り合い、或いは語り合うこともなく通り過ぎていくそのさまを、飾りのないタッチで描写していく。
凄いのは、同じ場面に複数のカメラが存在していることを、途中までまったく気取らせないことだ。例えば途中、イーライが廊下ですれ違ったジョンを戯けながら写真に収める場面がある。最初に登場するこの場面では、当然ながらそれまでイーライを追っていたカメラがそのまま撮している。しかし、次にジョンの視点でこの場面が描かれたとき、今度はジョンを追っていた――つまり、先のカメラとは反対側からやって来たカメラがふたりを撮す。更には、そのふたりの脇を通過するミッシェルを、やはり別のカメラが撮しており、同じ場面がみたび、別の視点から再現されている。当然ながら、それぞれのカメラは同時に存在するはずの別のカメラを捉えてはいない。
基本的には技術的な努力の賜物と言える描写だが、この手法が作品に生々しさと異様な立体感を与えている。複数の人間が同じ時間、同じ悪夢の瞬間へと突き進んでいくさまを、まるでその場にじかに居合わせたように感じさせるのだ。
と同時に、同じ手法で犯人と被害者となる少年少女を描写することで、実は両者に大した違いがないことを、言葉で説明するより遥かにシンプルに見せつける。何の予兆もなく、突然訪れたように思われる地獄絵図が、実は日常と地続きになっていることを、否応なく受け入れさせられる。
冒頭で記したように、作品は犯人の動機や行動理念を(多少の仄めかしはあっても)説明したりはしていない。観客は最後まで生き残る少年同様に、ただ傍観者として見届けるほかない。ただ厳然としてそこにある事実を剥き身で描くことに執心した、奇妙だがそれ故にリアリティというものの歪さを如実に映し出した作品である。
カンヌ映画祭史上初のパルムドールと監督賞の同時受賞という話題性につられて鑑賞する(つもりという)方も多いだろうが、娯楽として鑑賞するのは難しいだろう。答の出せない割り切れぬ想いを抱えたまま劇場をあとにする、そのこと自体に意味がある。(2004/03/27・2004/12/02追記・2005/01/10訂正)