cinema / 『ファインディング・ニモ』

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ファインディング・ニモ
原題:“Finding Nemo” / 監督・原案:アンドリュー・スタントン / 共同監督:リー・アンクリッチ / 脚本:アンドリュー・スタントン、ボブ・ピーターソン、デイヴィッド・レイノルズ / 製作総指揮:ジョン・ラセター / 製作:グラハム・ウォルターズ / 製作補:ジン・ゴトー / 音楽:トーマス・ニューマン / 声の出演:アルバート・ブルックス、エレン・デジェネレス、アレクサンダー・グール、ウィレム・デフォー、ブラッド・ギャレット、アリソン・ジャネイ、オースティン・ペンドルトン、ステファン・ルート、ヴィッキー・ルイス、ジョー・ランフト、ジェフリー・ラッシュ、アンドリュー・スタントン、ボブ・ピーターソン、エリック・バナ、ブルース・スペンス / 声の出演(日本語吹替版):木梨憲武、室井 滋、宮谷恵多、山路和弘、乃村健次、定岡小百合、津田寛治、清水明彦、森崎めぐみ、斎藤志郎、後藤哲夫、小山力也、進藤晶子、菅 光輝、赤坂泰彦、郷里大輔、石住昭彦、二又一成 / 配給:ブエナビスタインターナショナル(ジャパン)
2003年アメリカ作品 / 上映時間:1時間41分 / 日本語字幕:稲田嵯裕里
2003年12月06日日本公開
2004年06月18日DVD日本版発売 [amazon|限定版:amazon]
公式サイト : http://www.disney.co.jp/nemo/
丸の内ピカデリー2にて初見(2003/12/13)

[粗筋]
 カクレクマノミのマーリン(アルバート・ブルックス/木梨憲武)にとって、右のヒレが生まれつき小さなニモ(アレクサンダー・グールド/宮谷恵多)はたったひとりの家族だった。他のたくさんの子供達は、卵から孵らないうちに大きな魚の襲撃にあって、守ろうと飛び出した妻もろとも食べられてしまった。
 もともと少々臆病で神経質なところのあったマーリンは、そのせいでニモに対して過保護気味だった。その日、初めて学校にニモを送り出したマーリンだったが、彼の一挙手一投足が不安でならず、こっそりと後を追う。フエヤッコダイなどの友達と一緒に珊瑚礁の外に出ようとしたニモの姿に、マーリンはとうとう飛び出して息子を叱りとばす。あまりに干渉の多いマーリンに腹を立てたニモは友達の挑発に乗って、珊瑚礁の向こうに繋留していた人間のボートに近づき――ひとりのダイバーに捕まえられてしまった。
 マーリンは半狂乱になってボートのあとを追うが、小さなカクレクマノミとエンジン付きのボートでは競争にすらならない。悲嘆にくれるマーリンを嘲笑うかのように、ボートは遠くに走り去っていった。
 すれ違う魚群にボートの姿を見なかったかと訊ねるマーリンだったが、ほとんどは無関心に通り過ぎるだけ。ただ一匹、彼の問いに答えてくれたナンヨウハギのドリー(エレン・デジェネレス/室井 滋)は、数分前に自己紹介したことさえ忘れてしまうほどの忘れん坊で頼りにならないことこの上ない。マーリンは彼女の協力を断ってひとりで探そうとするが、まごまごしている間に、一匹のホオジロザメに見つかってしまった。
 そのホオジロザメ――ブルース(バリー・ハンフリーズ/郷里大輔)は、何を思ったか2匹の鮫と共に「魚は友達、餌じゃない」を合い言葉に小魚の友人を作る運動をしていて、マーリンとドリーを彼らの会合の席に連れて行く。そのさなか、マーリンはニモを連れ去ったボートが落としていったらしいゴーグルを見つけ、手がかりらしい文字が書かれていることに歓喜する。だが、ふとした拍子にドリーがちょっとした怪我をして、流れた血にブルースが大興奮してしまった。マーリンは結局ドリーともどもその場を逃げ出す。
 一方その頃、ニモは歯科の診療室に置かれた水槽のなかにいた。先住者たちはニモを快く受け入れようとしたが、彼が歯科医の姪であるダーラへのプレゼントとして連れてこられたと知ると痛く同情する。幼いダーラは魚の扱いが乱暴で、家に持ち帰るまでの間に袋を振り回して、なかのいたいけな魚を死に至らしめるのが日常だったのだ。ニモ同様海から攫われて、幾たびも脱走を企てていたツノダシのギル(ウィレム・デフォー/山路和弘)は、ニモの小さな体を利用した脱出計画を画策する……

[感想]
 人間以外のモノを擬人化して描いた作品というものがどうも性に合わない。
 人間同士でさえ生まれや肌の色目の色、人種の違いで千差万別の価値観があるというのに、存在するための論理がまるで違うモノに人間一般の常識や倫理を当てはめても通用するはずがないし、筋を作っても破綻するだけだ。擬人化したものの多くが「子供騙し」と言うほかない出来に陥るのも、そうしたところに一因がある。
 本編にあっても、同様の不自然さが随所に見られる。様々な生物が存在する海では、例えば主人公であるカクレクマノミがイソギンチャクのなかをねぐらにしているように他の生物に寄生したり生命維持のために何らかの依存を必要とする場合を例外として、だいたい同じ生物とともに生き抜こうとする。他の生物と共存する場合でも、だいたい相手は決まっているはずだ。それが本編では概ねキャラクターごとに生き物としての種類が異なり、ひとところに集って学校に参加したりしている。そら海の底で動物たちが何をしているのかつぶさに見届けるのは不可能で、現実にはあんな光景が繰り広げられていると想像するのは可能だが、知られている範囲の生態ではまず無理だろう。擬人化を徹底するなら、種族や地域ごとに言葉も違うわけで、意思の疎通だって一苦労のはずなのだから。
 が、本編について言えば、心底気になるのはその程度でしかない。他の部分では、実に筋が通っている。カクレクマノミがイソギンチャクのなかで暮らす、という実際の生態がまず冒頭から反映されていることに始まって、鮫の歯の本数にちゃんと裏面にある口を向けて会話するヒトデ(目はないと思うが……)、群生するアジの姿を見せたうえ、台詞の随所に実際の生態が描かれている。深海魚が光で小魚を誘惑したり、アジが全員で絵文字を作ったり、特性を誇張しながらきちんと物語に活かしているあたりは感心させられるし、あとあと追跡して調べると勉強にもなる。
 何より、擬人化して描いた海の世界が、そのまま人間社会のカリカチュアとしてちゃんと機能している点がいい。子供を守りたいがために神経質になりすぎるマーリンに、浜辺で産卵するウミガメは「子供はいつか親離れするものさ」と諭すあたり、これ以上ない適役を選んでいて唸らされる。
 そうした物語の「信念」を、これまたよく研究された映像と音響とが支えている。常に水の中にいることを意識させ、比較的浅い海では淡い青を基調に、深まるにつれて暗くなり、また目的地であるシドニーが近づくと、やや汚れた水質に荒れた海底が広がる、といった具合に細かく描きこみ、またそれらがCGっぽさをほとんど感じさせない。こういう映像を他に作りようがない、という意味ではCGを意識させるものの、いったん没頭すれば作り込まれた美しい映像と、状況を的確に捉えた音響(そのお陰で、設備さえ整った劇場であれば、キャラクターたちの感じる震動さえ体感できる)に酔いしれることだろう。
 物語や設定のうえでは子供を意識し、平易に極力解りやすく構築しているが、その奥にはその子供達を連れて訪れるであろう大人達に対する表現とメッセージをきちんと織り込んである。実に骨組みのしっかりした、非常に「いい」映画。上記の「擬人化」に対する抵抗感がよほど強い人でもない限り、誰でも安心して観られるという事実が、どれほど貴重なことか。

 実にキャラの立った登場人物が居並ぶ本編は、その言動を眺めているだけでも充分に楽しめる。何故か魚と友達になることを志しながら、ドリーの血の匂いでイってしまう鮫のブルースとか、水槽のなかを必死に掃除するアカシマシラヒゲエビのジャックとか、同じく水槽のガラスにへばりついていて、会話するときだけ顔を剥がして仲間の方を向くヒトデのピーチとか。
 なかでも特に私のお気に入りだったのは、シドニーの海岸で群れているカモメらしき鳥。ヨットの帆などに並んで留まっているのだが、近くに餌らしきものが姿を見せると「ちょーだい、ちょーだい」と呟きながらわらわらと群がってくる。実際、町中で群れている鳥はほんとーに「ちょーだい、ちょーだい」と言っているように見えるものだから、妙に可笑しい。魚のみならず、登場する生き物すべてに観察が行き届いているのも、本編の美点だろう。

 子供を主な観客層に想定しているためか、日本語吹替版中心にかけている劇場が多い。私が普段映画鑑賞に赴く土曜午前は完璧にどこも日本語吹替版のみだったので、選択の余地はなかった。主人公のマーリン役が芸達者な木梨憲武だったので特に抵抗はなかったし、赤坂泰彦など妙にツボを押さえた配役に満足もしたのだが、帰宅後プログラムを眺めてちょっとだけ後悔した。
 水槽のなかでニモのよき協力者となるツノダシのギルを、個性派俳優ウィレム・デフォーが演じている。……それだけは、ちょっと聴いてみたかった。凄いはまり役だと思う。

(2003/12/14・2004/06/18追記)


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