cinema / 『フォーガットン』

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フォーガットン
原題:“The Forgotten” / 監督:ジョセフ・ルーベン / 脚本:ジェラルド・ディペゴ / 製作:ブルース・コーエン、ダン・ジンクス、ジョー・ロス / 製作総指揮:スティーヴ・ニコライデス、トッド・ゲイナー / 撮影監督:アナスタス・ミコス / 美術:ビル・グルーム / 編集:リチャード・フランシス=ブルース,A.C.E. / 衣装:シンディ・エヴァンス / 音楽:ジェームズ・ホーナー / 出演:ジュリアン・ムーア、ドミニク・ウェスト、ゲイリー・シニーズ、アンソニー・エドワーズ、アルフレ・ウッダード、ライナス・ローチ、ロバート・ウィズダム、ジェシカ・ヘクト / レボリューション・スタジオ作品 / 配給:UIP Japan
2004年アメリカ作品 / 上映時間:1時間32分 / 日本語字幕:岡田壮平
2005年06月04日日本公開
公式サイト : http://www.forgotten.jp/
VIRGIN TOHO CINEMAS 六本木ヒルズにて初見(2005/06/04)

[粗筋]
 息子サムを乗せたエアバスがロングアイランド上空で行方不明になってから、14ヶ月と9日目。テリー・バレッタ(ジュリアン・ムーア)の周辺で、何かが狂いはじめた。
 整理ダンスの前で形見の品を前に惚けている時間が増えたせいなのか、少し物忘れしがちになっているのは自覚していた。だが、夫ジム(アンソニー・エドワーズ)とサムと並んで撮ったはずの写真からサムが欠けている、ということがあるだろうか。逢ったこともない人物を、サムと仲の良かった女の子ローレンの父親アッシュ・コレル(ドミニク・ウェスト)であると認識するなどということがあるだろうか?
 それだけではない。鍵をかけ閉ざしていたサムの部屋に置いてあったアルパムがまっさらになり、生き生きとした姿を撮したビデオテープは砂嵐だけをモニターに投じる。ジムの暴挙だと思ったテリーは、仕事中の彼のもとへ罵りの音声メールを送った。慌てて帰宅したジムの口をついて出たのは、テリーが予想だにしない一言だった。
「ぼくたちのあいだに、子供はいない」
 長い間テリーのメンタルケアを請け負っていた精神科医のジャック・マンス(ゲイリー・シニーズ)もまた、“サム”の存在を否定した。サムはテリーが頭のなかで創り上げた想像上の子供であり、写真立てに飾った三人の肖像も、整理ダンスのアルバムも、想い出のビデオも、何もないところにテリーが想像の息子を被せて見ていたのだという――そんなはずはない、と証拠に見せようとした、サムとふたりで撮影した連続写真も、まったく別のものになっていた。テリーは逃げ出すように車を走らせた。
 テリーは友人だったはずのアッシュの家に駆けつける。サムと同じ事件で娘ローレンを失ったはずのアッシュは娘のことをまったく覚えておらず、テリーに対しても交流などなかったような物云いをする。しかし、テリーは発見したのだ。彼がオフィスとして使っている部屋の壁紙の裏に、明らかに子供の手による落書きが一面拡がっているのを。これこそ証拠だ、とテリーは主張するが、アッシュは前の住人が残したものだと言い張り、警察に彼女を引き渡す。
 警察がテリーをパトカーに乗せようとしたとき、横から現れた男達が彼女を引き渡すように命じた。男達が提示した身分証は、国家安全保障局のもの――テロリズムや国家規模の事件に携わる人間が何故テリーの身柄を求めるのか。疑問に思いながらも警察が彼女を引き渡し、彼らの車がテリーを乗せて発進しようとしたそのとき、アッシュが息せき切って駆けつけ、叫んだ。
「思い出した。確かに僕には娘がいた。その人の言っていることは本当だ!」
 彼女を解放しろ、という訴えを遮り走り去ろうとする男達に対し、アッシュは車の窓を蹴破りロックを外し、テリーに逃げるよう指示する。アッシュがひとりを引き留めるあいだ、テリーは懸命に走り、遂に男を振り切った。
 果たしてサムやローレン、テリーたちの身にいったい何が起きているのか? 真相を求めるテリーの戦いが始まる……

[感想]
 本当に最近は『シックス・センス』あたりと対比させて売られる“スリラー”が多い。いわゆるサプライズ・エンディングが用意されていればまだしも、中盤が謎めいているだけで意外性もないものにまでこの売り文句を添えるものだから、個人的に最も信用ならないフレーズだと近頃は考えている。
 本編もまた、『シックス・センス』の名前を掲げての讃辞が挙がったスリラーであるが――やはりこの文句に相応しい作品とはちょっと言い難い。確かに、終盤でどんでん返しのような真相が披瀝されるのだが、あれがどんでん返しに見えるのは、よっぽど何も考えずに観ていた人だけに違いない。抽象的な喩えになるが、フェンスぎりぎりのホームランが来るかと思って身構えていたら、予想より遥か手前で落っこちてしまったような感覚である。そういう意味では失望感を抱く観客も多いはずだ。
 が、個人的には、だからと言って否定する気にはなれない。ネタそのものは明々白々でも、その過程の描き方は確かにスリリングで非常に面白い。展開の予測は出来ないし、用いられるシチュエーションが奇妙で極めて印象的だ。こと、主人公であるテリーに核心的な事実を提示しようとしたりする人々が人智を絶した力で連れ去られてしまうくだりは、「嘘だろ」と呆気に取られつつ目を釘付けにされる。もともと幾らでも要素を詰めこむことの出来る素材なのだが、そこを敢えて絞って1時間半と手頃な尺に収め、なおかつそのあいだ殆ど飽きさせることのない手管は充分賞賛に値する。
 ネタとしては機能不全ながら、素材そのものはいいし、それに添った感情描写は堂に入っていて隙がない。但し、結末から敷衍していくと思慮に欠ける、または考察不足な場面も多く、あまりに八方丸く収まりすぎに感じられるラストシーンと並べると据わりが悪いのも事実だ。しかし、それによって本筋として描こうとしていた部分については痼りを残さずにまとめているし、作品本来のテーマからするとこの決着のみが必然的であったのも理解できるので、少なくとも悪い余韻は残さない。寧ろ、演出の優れたスピード感からすると、下手にモヤモヤした結末にすれば尚更に収まりが悪くなったことも想像に難くなく、無茶を承知でこの結末を選んだのは正解だったとも思う。
 過程の圧倒的な面白さを堪能するべき作品であって、オチは二の次だと割り切ればクオリティは極めて高い。特に主人公を説得力たっぷりに演じたジュリアン・ムーアの功績は多大で、彼女の演技を観るだけでも楽しめるだろう。――それでも、もっとプロットを練り込んで欲しかった、という厭味は打ち消せないが。

 でもこの作品の何が駄目って、邦題がいちばん駄目です。少しは考えようよ。

(2005/06/05)


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