cinema / 『ガーゴイル』

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ガーゴイル
原題:“TROUBLE EVERY DAY” / 監督:クレール・ドゥニ / 脚本:クレール・ドゥニ、ジャン=ポール・ファルジョー / プロデューサー:ジョルジュ・ブネヨン、ジャン=ミッシェル・レイ、フィリップ・リエジョワ / 共同プロデューサー:三尾和子、塚田誠一 / 撮影:アニエス・ゴダール / 編集:ネリー・ケティエ / プロダクション・デザイン:アルノー・ド・モレロン / 衣裳:ジュディ・シュルースベリ / 音楽:ティンダーステックス / 出演:ヴィンセント・ギャロ、ベアトリス・ダル、トリシア・ヴェッセイ、アレックス・デスカス、フロランス・ロワレ=カイユ、ニコラ・デュヴォシェル / 配給:KINETIQUE
2001年フランス・日本作品 / 上映時間:1時間40分 / 日本語字幕:古田由紀子
2002年11月02日日本公開
公式サイト : http://www.gargoyle-movie.com/
新宿武蔵野館にて初見(2003/02/05)

[粗筋]
 フランス・パリの郊外にある草原の片隅で、コラ(ベアトリス・ダル)は膝を抱えて踞っていた。夜半、バイクに乗って彼女を迎えに来た夫の開業医レオ・セムノー(アレックス・デスカス)は、ほど近くに全身血まみれになりながら喜悦の表情を浮かべ絶命した男を発見し、コラを抱き締める。彼女の口許と着衣もまた、血に塗れていた。翌朝、レオはコラを自宅の厳密に施錠した一室に閉じ込めてから出勤する。彼が発ったあとの自宅を、エルヴァン(ニコラ・デュヴォシェル)とその友人が不穏な眼差しで見上げていた……
 同じ頃、シェーン(ヴィンセント・ギャロ)とジューン(トリシア・ヴェッセイ)のブラウン夫妻は、新婚旅行の名目でパリの地に降り立った。幸福に酔いしれるジューンに対し、シェーンは会議を理由にひとりパリの地を彷徨うが、本当の目的はレオの行方を探し出すことにあった。レオは同僚からクズ呼ばわりされるような論文を発表したのち、学会を退き職場である研究所を離れ、行方を眩ませていた。ホテルのメイドであるクリステル(フロランス・ロワレ=カイユ)や、道行く女性のうなじに情欲をたぎらせながら、シェーンは煩悶する。同衾しても、彼は決して妻と一線を越えようとしなかった……

[感想]
 まず凄まじいのは、肝心な場面ではほとんど台詞がない、ということ。シェーンとレオの結びつきを見せる一幕では説明的な台詞も散見されるが、本当に衝撃的な場面では言葉がひとつも発されないことさえある。極力映像と音だけで表現しようとする、その毅然とした態度が素晴らしい。
 そして、詳しい事情は語られないのに、主役格である四者――シェーンとジューン、レオとコラの心情や内的葛藤がきちんと見えてくる手管の巧さ。妻をこよなく愛するが故に決して踏み越えられない一線に苦しむシェーン、愛されていることを感じながらも深い交わりを持とうとしない夫に疑惑よりも悲しみを覚えるジューン。飢えた猫のような眼差しでパリを徘徊し情欲を剥き出しにしながら死を望むコラと、そんな彼女を冷静にしかし哀しげに見つめるレオ。どうしようもない欲望に葛藤する者とそれに近いが故に煩悶する者のふたつを冷徹に、しかし美しく描きだす手腕はちょっと例が思い浮かばないほどに傑出している。
 終盤のあまりに残酷な一幕(とは言えホラーずれしている私にはそんな衝撃的でもなかったのだけど)を除くと淡々と、平板に物語が進行するためやもすると飽きを感じることがあるが、不思議なことに見終わった瞬間はこれでも短かったように思えた。語るべきものをシンプルに、しかしきっちりと描き尽くしたという印象がある。無駄がないのだ。
 その無駄のなさの一環と言えようか、必要なことを全て物語ったあと、本当の意味での決着を見せず曖昧なまま物語は幕を降ろす。だが、それでも中途半端な印象はない――なまじきっちり解決を示されるよりも、更なる苦悩と悲嘆を暗示するようなこの結末のほうが本編には相応しいだろう。見終わったあとに感じることは多いが、その底にはただただどうしようもない虚しさがある。
 衝撃的とか官能的とか様々な惹句が掲げられるが、寧ろこの上なく哀しいラヴストーリーと見るのが一番正しいのではないか。要素のひとつひとつはそのままホラーのガジェットであるが、恐怖よりも激しい傷みが先に立つ。いや、痛い、というより痛々しいと言うべきか。
 それなりに残虐な描写があり、終盤ではシェーンの自慰と射精を描いた場面があり、また現在と過去を断りもなく前後する展開はどう考えてもお子さま向きではない。だが、映画という表現形態に多少なりとも敬意を抱く向きには是非とも鑑賞していただきたい一本。愛着を持ちうるか否かはさておき、観賞後も長く糸を引く作品であることは保証しよう。

 真面目に語ったあとでどうでもいい余談をひとつ。
 広告で頻繁に目にし、プログラムでも表紙に採用されているカットがある。右側に立つジャケット姿の男性が、左にいる下着姿の女の顎を手で押さえ、違いに見つめ合っている写真で、劇中のクライマックスのワンシーンである。プログラムの表紙ではその下のところに「VINCENT GALLO & BEATRICE DALLE」、一番下に「GARGOYLE」と大書してある。
 何が問題かって、写真右にギャロがいるのに名前が左側にあること、ではない。これだけあちこちに使われている写真に、ギャロと一緒に映っているのが、主演女優であるベアトリス・ダルではないとゆーことだ。ホテルのメイド・クリステルを演じたフロランス・ロワレ=カイユなのである。
 現実として、主演ふたりが同時に登場する場面は衝撃的すぎてあんまり宣伝には相応しくないという問題があるにせよ、なんか他に方法はなかったものか。本編を未だに観ておらず、ベアトリス・ダルを見たこともないという人は絶対に勘違いしているはず。私がそうだった。

(2003/02/06)


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