cinema / 『グロヅカ』

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グロヅカ
原作:久保忠佳 / 監督:西山洋市 / 脚本:村田青 / 製作代表:松原守道、川城和実 / エグゼクティヴ・プロデューサー:神山忠央、河野聡 / プロデューサー:八木健太、片嶋一貴 / キャスティングプロデューサー:門馬直人 / ラインプロデューサー:安藤光造 / 撮影:寺沼範雄 / 照明:安部力 / 美術:佐々木記貴、鈴木阿弥 / 録音:臼井勝 / 編集:福田浩平 / 音楽:村山竜二 / 主題歌:Lady Marmalade『Identity is all』 / 出演:森下千里、三津谷葉子、黒澤友子、福井裕佳梨、齋藤慶子、安藤希、伊藤裕子 / 製作プロダクション:ドッグシュガー / 配給:AD-GEAR
2005年日本作品 / 上映時間:1時間25分
2005年10月22日公開
公式サイト : http://www.onnadarake.jp/guroduka/
渋谷シネクイントにて初見(2005/10/26)

[粗筋]
 アイ(森下千里)とマキ(三津谷葉子)は、大学で七年間休部状態になっていた映画研究会をたったふたりだけで再開させ、演劇部の友人たちの協力を得て撮影合宿に漕ぎつける。
 しかし、旅行ははじめから波乱含みだった。足の確保と運転を頼んでいたマキの姉で“先生”と呼ばれているヨーコ(伊藤裕子)が、タカコ(安藤希)という部外者を伴ってやって来たのである。映研とも演劇部とも関わりがなく、考えの読めない引き籠もりとして知られるタカコの登場を快く思う者は少ない。
 加えて、アイとマキは協力を申し込んだ演劇部に対して隠していることがあった。七年前、映研が活動停止を余儀なくされたのは、内部で惨劇が発生、行方不明者と心を病む者とを出したことにあったという噂があったが、その事実に関係のありそうな8ミリテープをふたりは発見していたのである。それは能の演目『黒塚』をモチーフにしたと思しい映画だったが、撮影されているのは実際の犯行の光景と思われ、しかもロケーションに用いられていたのは他でもない、彼女たちが合宿のためにと訪れた、使われなくなった学校の寮だったのだ。しかも現地に到着してからマキが提案したのは、この8ミリをモチーフにした映画の撮影だった。
 純愛映画の撮影と聞かされていた演劇部の面々はこれに激昂、演劇部のリーダー格であり主演を張る予定だったナツキ(黒澤友子)は、自分の親が出資した食料類をすべて引き上げて撤退すると言い張る。もういちど説得するつもりのアイとマキだったが、明くる朝、そうしてふたたび纏められた食料が何者かによって盗まれたことで、両者の関係は更に悪化する。
 困り果てるアイとマキだったが、とりあえず出演者抜きで撮れるものだけ撮っておこうと、ふたりきりで撮影に赴く。一方の演劇部の面々も、ナツキがオーディションに使用するためのビデオ撮影のために出かけ、ヨーコもまた食料調達のために外出した。
 事件の痕跡を捜し求めていたアイとマキは、8ミリの中で殺人が行われたと思しい場所を発見する。そこには、人ひとりが埋まっていたと考えられる程度の穴が掘られていた。ここに埋められていた屍体を、誰かが掘り返した、というイメージに、アイは恐慌に陥る。
 一方、演劇部の面々は、我が儘放題のナツキの言動に嫌気が差した同行者のユウカ(福井裕佳梨)とヤヨイ(齋藤慶子)とがそれぞれに理由をつけてナツキを置き去りにし、結果的に散り散りになっていた。お調子者のユウカはアイたちに合流し、ヤヨイが寮に戻る一方で、ナツキひとりが何故か戻らない。ヨーコは、途中に置いてきた車が動かなくなっていると言って、手ぶらのまま帰っていた。
 何か様子がおかしい。到着したときからアイが薄々感じていた厭な気配が、ここに来て膨れあがる。最初の本格的な異変は、その晩の食事時に発生した……

[感想]
 作中でも言及があるが、本編は能の演目『黒塚』(観世流では『安達が原』)を下敷きにしている、という触れこみだった。旅をしていた山伏たちが一夜の宿を求めて訪れた山中の一軒家にて、彼らを歓待した老女の「見るな」と釘を刺された閨を覗きみ、そこに老女の喰らった無数の屍体を発見、山伏たちは鬼女と化した老女に追われる……という、能に知識がなくとも日本人なら誰しも聞き覚えのあるであろうエピソードだ。
 が、観終わっての最初の感想は――どの辺が『黒塚』なのか、という疑問だった。合致しているのは山中の一軒家という設定ぐらいで、事件の背景に『黒塚』とリンクするような要素はほとんど見当たらない。一箇所だけ存在すると言えばそうなのだが、終盤でいきなり語られるまで一切伏線は張られていないし、すべての現象についての説明にはなっていないので甚だ心許ない。
 そもそも、ホラーを謳うわりには本編に超自然的な要素は乏しく、また心理的な恐怖の盛り上げ方もしていない。本編における恐怖演出は、ごく一部に定番の“ため”を駆使したものがあるだけで、他は大半、予想外のタイミングや方向から異様なものが出没するという、猫騙し的なものばかりだ。こういう演出は恐怖の焦点となるものが明確となっていれば印象的にも効果的にもなるが、本編のように恐怖の対象がなかなか明確にならない作品ではあまりいい印象を残さない。弄ばれているような苛立ちを与えるだけだ。超自然的な要素がなくともホラーは成立するが、正直それだけの工夫をしているとは言い難い。
 物語の構造はどちらかというとサイコ・サスペンスの様式に基づいたスリラーに近いのだが、しかしその観点から言っても本編の出来は甚だ物足りない。スリラーであれば不可欠の伏線や状況証拠をまったく盛り込んでおらず、辻褄合わせもいい加減なのだ。たとえば序盤では如何にもホラー映画的な場面が幾つか用意されているが、それが終盤で明かされる事実とまったく符合しておらず、驚きどころか意外性にも結実していない。だいいち、あの人物にあれだけ様々な行動を起こす余地があったのだろうか。そして、終盤で明かされる拘りにはいったい何の意味があったのか。疑問が無数にある。
 更に言えば、登場人物たちの背景や行動にも訝しい点が多すぎる。学校の“寮”があんなに行き来の厄介な場所に建てられることがあるのか。事件の証拠となりうる8ミリをどうして秘匿できたのか。引き籠もりと言われていたタカコが忌み嫌われる理由は奈辺にあったのか。アイの性格設定からすれば、演劇部に対して撮影の内容を伏せたまま現地に連れて行くというやり方は無論、そもそもあんな8ミリに基づいた映画の撮影という話にも難色を示したと考えられるのだが、何故彼女は納得したのか。七年前の事件と無縁でなかったマキの姉・ヨーコが何故妹たちが現地で撮影を行い、それに同道することを承知したのか、そして何故そこへタカコを同行させたのか。そもそもの前提にも、矛盾や承伏しがたい点が多すぎる。
 詰まるところ本編は脚本・演出共にかなり拙劣なのだ。B級と呼ぶにも弾け方が足りず、いま一歩の印象は否めない。対して、女性ばかりで埋められた役者陣は比較的健闘している。一斉に登場するため名前と顔とを把握するのにやや手間取るが、それぞれに特徴を明確にしキャラクターをきっちり作り分けているので、早い段階から混同しなくなる。とりわけ、映研と演劇部とのあいだを器用に飛び回る要領の良さを見せるユウカと、場面によって印象の代わるタカコは、ガタガタの物語のなかでかなりの存在感を放っていた。お陰で、それぞれに華のある女の子たちが、物語が進むにつれて亀裂を生じ険悪な空気に呑まれていくさまはかなり巧く描かれていた。
 全体としては劇場で身構えて観るようなものではなく、弱点を承知のうえでそれをツッコんだり揶揄したりして楽しむべきタイプの作品だと思う。

 ちなみにこの作品、“おんなだらけのこわいはなし”という三部作の第一弾として制作されたそうで、本編の直後に次回作の予告編が上映されていた。夏の海にヴァカンスに訪れた女の子たちが惨劇に巻き込まれ――という構図は本編と同様で、そういう意味では仕上がりの想像はつくのだが、ラストでタイトルが表示された瞬間、度肝を抜かれた。
『ナイチンゲーロ』
 ……劇場のあちこちから失笑が漏れた。
 しかし困ったことに、私は却って興味を抱いてしまった。あの前振りから、どうやって海辺に佇む白衣の看護婦(敢えて旧称で記す)に話を絡めていくのか、無茶苦茶気になる。『グロヅカ』はプレゼントに当選して観に行ったが、こっちは金を払ってでも観てしまいそうです。そういう方向性だと解ってれば何が来ても怖くないしー。

(2005/10/27)


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