cinema / 『銀河ヒッチハイク・ガイド』

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銀河ヒッチハイク・ガイド
原題:“The Hitchhiker's Guide to the Galaxy” / 原作:ダグラス・アダムス(河出文庫・刊) / 監督:ガース・ジェニングス / 脚本:ダグラス・アダムス、カレイ・カークパトリック / 製作:ゲイリー・バーバー、ロジャー・バーンバウム、ニック・ゴールドスミス、ジェイ・ローチ、ジョナサン・グリックマン / 製作総指揮:ダグラス・アダムス、ロビー・スタンプ、デレク・エヴァンス / 共同製作:トッド・アーナウ、キャロライン・ヒューウィット / 撮影監督:イゴール・ジャジュー=リロ / プロダクション・デザイナー:ジョエル・コリンズ / 編集:ニーヴン・ハウィー / 衣装デザイン:サミー・シェルドン / 音楽:ジョビィ・タルボット / 出演:マーティン・フリーマン、モス・デフ、サム・ロックウェル、ズーイー・デシャネル、ビル・ナイ、ウォーウィック・デイヴィス、アンナ・チャンセラー、ジョン・マルコヴィッチ / 声の出演:アラン・リックマン、ヘレン・ミレン、トーマス・レノン / ナレーター:スティーヴン・フライ / タッチストーン・ピクチャーズ&スパイグラス・エンターテインメント提供 / 配給:ブエナ ビスタ インターナショナル(ジャパン)
2005年作品 / 上映時間:1時間49分 / 日本語字幕:石田泰子
2005年09月10日日本公開
公式サイト : http://h2g2.jp/
VIRGIN TOHO CINEMAS 六本木ヒルズにて初見(2005/10/05)

[粗筋]
 その朝、アーサー・デント(マーティン・フリーマン)が地球上で自分がいちばん幸運な男になるとは露ほども思っていなかった。何せ、起きてみれば我が家の廻りを重機が取り囲み、バイパス建設のためとかで強制撤去を始めようとしていたのだから。ブルドーザーの前に寝っ転がって抵抗しようとする彼を、突然訪れた親友のフォード・プリーフェクト(モス・デフ)が「やってられない、飲みに行こう」と近所のパブへ引きずっていった。この友人が何を嘆いているのかと思えば、あと十数分で地球がなくなるからだというのである――ギルフォード出身だと言っていた彼は実際のところベテルギウス星生まれの所謂宇宙人であり、今朝方、銀河バイパス建設のためにヴォゴン人が地球へと迫っているのを知ったのだという。
 当然鵜呑みにせず、数分離れている隙に取り壊しが実行に移されてしまった我が家を前に悲嘆に暮れるアーサーであったが、次の瞬間、にわかに頭上を仰いで絶叫することになる。地球の空は、謎の巨大な飛行物体に埋め尽くされていた。やがて、あらゆる通信機器を介して、ヴォゴン人のメッセージが届けられた。
「太陽系を通過する銀河バイパス建造のため、ただいまからこの星を撤去する。計画は今から五十年前より、二万光年離れたケンタウルス座アルファ星に掲示してあった。今更慌てふためいたふりをしても遅い。――では、爆破を開始する」
 かくして地球は、その上に暮らす無数の生命体共々宇宙の藻屑と消えた――が、アーサーはすんでの所で難を免れた。銀河史上最大のベストセラーである『銀河ヒッチハイク・ガイド』の編集者であった親友フォードの知識と努力により、ヴォゴン人の建設船団の一隻をヒッチハイクすることに成功していたからである。とはいえ、家どころかそれを打ち立てるべき大地さえ喪い、つまりは帰る世界を奪われてしまったアーサーが、素直に幸運を喜べるはずもない。
 そのうえ、ヴォゴン人はヒッチハイカーを忌み嫌っている。船が破壊した地球のあった座標を離れると、フォードは早速別の船を捕まえようと試みるが、あっさりとヴォゴン人に見つかり、説得も虚しく宇宙空間に放り出される。肺いっぱいに息を吸い込んだ人間が、真空中で生き延びられる時間は三十秒程度――その間に別の船に拾われる可能性は、天文学的な確率しかない、はずだった。
 奇跡は起きた。まさにヴォゴン人の船団が去ったその直後、たまたまかつて地球のあった宙域を通りかかった一隻の宇宙船が、クルーの意思を無視して漂流するふたりを回収したのである。但し、アーサーにとって幸運と言えるかはまた微妙であった。何故ならこの船、夢の超推進力である無限不可能性ドライヴを搭載した最新鋭の宇宙船“黄金の心”号は、完成御披露目のその席で、銀河大統領であるゼイフォード・ビーブルブロックス(サム・ロックウェル)が私欲のために強奪、逃亡中だったのである。
 それだけではない。ゼイフォードはフォードの親戚であるばかりか、アーサーともちょっとした因縁があった。地球でアーサーが最後に参加したパーティの席上、彼といい雰囲気になった女性を「宇宙船に乗ってみない?」という地球の常識からしたら馬鹿極まりない誘い文句で横から攫っていったのが、たまたま地球をお忍びで訪ねていたゼイフォードだったのだ。そのうえ、誘われていった当人であるトリシア・マクミランことトリリアン(ズーイー・デシャネル)までが乗組員として同乗している始末。
 宇宙規模の頭脳を搭載しながら“極めて人間的な思考能力”を与えられてしまったばっかりに重度の鬱病を患っているマーヴィン(ウォーウィック・デイヴィス/声:アラン・リックマン)に、意味もなくフレンドリーな船のメインコンピュータ・エディ(声:トーマス・レノン)と珍妙な面々を道連れにしたこの放浪の旅、果たして行き着く先は何処やら……?

劇場にて展示されていた衣装など。[感想]
 本編の原作はSFファンのあいだではつとに名が知られ、音楽・小説・映画など様々なジャンルのアーティストの崇敬を集めるカルト的傑作である。もともとダグラス・アダムスがラジオドラマのために執筆した脚本を「それだけでは食えない」とノヴェライズして上梓したものが大ヒット、以降著者が2001年に49歳の若さで早逝するまでにシリーズ全五作が発表されるまでの大人気作となった。映画化に当たっては著者自らが尽力し、実に20年近く紆余曲折を繰り返した挙句、死後にようやくこうして実現の運びとなった。ファンですら映画公開の報に耳を疑った節さえあるようだ。
 毎度のことながら律儀に原作を読んでから本編に臨んだが、なるほど原作のほうは多くのSFファンやクリエイターを熱狂させたのが納得できる傑作であった。如何にもイギリス作家らしいシニカルなユーモアが随所に盛り込まれ、およそ既成のフィクションの枠に縛られない奔放なイメージの数々の放つ圧倒的な魅力。提示される数値から微かに匂ってくるいい加減さも、それ故に独特な愛嬌を醸しているようだ。そう強く納得できただけに、正直なところ却って映画版に些かの不安さえ抱いてしまったほどだが、しかしその点は無用な心配だったらしい。
 原作者自らが死の直前まで執筆していた脚本を下敷きにしているだけあって、原作の雰囲気を再現している点ではほとんど文句がない。序盤、ヴォゴン人の建設船団からアーサーとフォードが放り出される直前に、乗組員を説得しようとするくだりが省かれているくらいで、あとは台詞や描写の省略こそあれ、ほとんどの主要なエピソードを網羅している。
 そのうえで、映画独自の新たなキャラクターやモチーフが随所に盛り込まれているが、それがオリジナルの味をきちんと敷衍しているのがまた嬉しいのだ。特筆すべきは、宇宙がアークシージャのくしゃみから出て来たと信じているカルト教団の教祖に座ったハーマ・カヴーラであろう。映画観賞後に本編原作の続編にあたる『宇宙の果てのレストラン』を購入、冒頭を眺めるとそこにアークシージャの名前があり、カルト教団の設定そのものはそれを引っ張ってきたもののようだが、ハーマ・カヴーラのキャラクターは完全な本編のオリジナルである(はずだ、劇場用パンフレットの記述が誤っているのでない限り)。が、この物語世界への見事な溶け込みっぷりはどうだろう。登場シーンは決して多くないが、銀河大統領ゼイフォードのライバルとして、またゼイフォードの弱みにつけ込み物語終盤でかなり重要な役割を果たすあるものを登場させる要求を繰り出すなど、全体に影響を及ぼす位置づけにありながら、原作の方向性自体はまったく壊していない。この嵌り具合は原作者自らが造作を担当したが故であろう。
 当代きっての曲者俳優ジョン・マルコヴィッチをここに配したのも絶妙だ。終始弾けっぱなしでやもすると観客さえ置いてけぼりにするほど個性を炸裂させるゼイフォードを、アクの強いサム・ロックウェルが演じているだけに、対するハーマ・カヴーラの存在感の強烈さがうまい具合に物語のバランスを保たせている。
 またこのキャラクターの登場とその要求が、原作に足りなかった冒険活劇の要素をほどよく加味していることにも注目したい。個々のモチーフがあまりに奔放で魅力的なため、原作では危機感を煽ったり謎解きを盛り込むなどして読者を引っ張る技をほとんど駆使していないが、尺や台詞の長さに自ずと制約がかかってしまう映画ではそうしたものを子細に説明している余裕はなく、必然的に別のかたちで物語を牽引する必要がある。その牽引車としての役割をこのキャラクターと、原作よりも露出を増したヴォゴン人とが実にうまく果たしており、物語のスピード感を向上させているのだ。
 また、原作においては抽象的にしか表現されていない様々なモチーフのヴィジュアルを、原作の味わいを損ねずに再現していることも評価したい。いまいちその理屈が解りづらい“黄金の心”号の推進力・無限不可能性ドライヴを、実行するたびに宇宙船やその乗員が妙なものに化けるという格好で映像化しており、そのお陰で終盤のシュールな展開も正当化されている。ドライヴの実行中、乗員が毛糸製になってしまったり、花になった余波で元に戻っても口許に花びらがくっついたままになっているあたりなど、もう並大抵の想像力で生み出せるものではない。終盤に登場する超巨大コンピューターの形状などにもそのセンスは遺憾なく発揮されている。とりわけ、他のどのキャラクターよりも存在感を発揮し、恐らくファンから最も愛されている鬱病のロボット・マーヴィンをああも愛嬌のある外観にした発想が素晴らしい。
 と、ほぼ満点をつけてもいい仕上がりなのだが、ただ惜しいのは、どうやらダグラス・アダムス亡き後に付け添えられたらしい、ロマンスの要素が少々不自然に感じられることだ。ロマンスの絡んでくるキャラクターたちはいずれも原作から登場しているものであるし、背景も変えてはいないのだが、それ故にほとんど同じ筋の中で関係の密度だけが増しているのが奇妙に感じられるのだ。恋愛に絡む味付けは“告白”のタイミングのお陰で、ある人物の必死さと物語全体の解りやすい締め括りを提示する役に立っているものの、全編を覆うシニカルな味付けと並べるとやはりアンバランスの感は否めない。それに絡んだ終盤の展開も、物語本来の価値観をやや崩し気味なのが引っかかる。
 とはいえ、このくらいは寧ろご愛敬というところだろう。映画化されるにあたって多くの脚本家や製作者の手が加わり無惨なまでに崩壊してしまう作品が多い中で、比較的ありがちな、妥協できるレベルの潤色しか施さずに済ませたことは賞賛に値する。そうして作りあげられた映像は、特撮技術の向上した現代にあっても唯一無二の味わいを備えており、原作を知らなくともその圧倒的魅力が堪能できる出来になっている。
 いささかブッ飛びすぎた発想の数々は一部のかたには受け入れづらいかも知れないが、基本的にはSFに造詣がなくとも笑い楽しめることが出来、最後にはかなりの衝撃を味わうことの出来る、極上のエンタテインメントSFであることは間違いない。
 何より、原作に惚れ込んだ身としては、作中でも特に印象的な挿話である“地球上で2番目に知性的な生命体”イルカの逃走を、ああいう形でヴィジュアル化(というよりミュージカル化か?)してくれたことを心から賞賛したい。魚をありがとう!

(2005/10/07・2005/10/09劇場展示物の写真を追加)


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