/ 『幸福な食卓』
『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る幸福な食卓
原作:瀬尾まいこ(講談社・刊) / 監督:小松隆志 / 脚本:長谷川康夫 / 音楽:小林武史 / 主題歌:Mr. Children『くるみ』 / 出演:北乃きい、勝地涼、平岡祐太、さくら、羽場裕一、石田ゆり子 / 配給:松竹
2006年日本作品
2007年01月27日公開
公式サイト : http://www.ko-fuku.jp/
東劇にて初見(2006/07/20) ※モニター試写会[粗筋]
「父さん、今日で父さんを辞めようと思うんだ」
中原家では必ず、一家全員が揃って朝食を摂る。その席上で、父(羽場裕一)がこんなことを言い出すのはもう3度目で、佐和子(北乃きい)もナオ(平岡祐太)も今更驚かなかった。
中原家の様子がおかしくなったのはいつからなのか。それはじわじわと侵蝕していたらしいが、明瞭な形となったのは、父の自殺未遂だった。手首を切った父だが何の因果か生き長らえ、だがそれを契機にみんな何かがおかしくなった。
優等生で、名門西高で3年連続トップとなり伝説に名を残すほどだったナオは大学に進まず農業を始めた。母(石田ゆり子)は家を出て行き、パート勤めをしながら同じ市内のアパートで倹しくひとり暮らししている。父に至っては、折角の教職を退き、いまはまた、父という立場でさえ捨てようとしている。
それぞれが未だに思い合っているのに、明後日のほうに向かってまるで交差しない不安定な家庭にいて、いちばん幼い佐和子は行く先を定められずにいる。そんな状態で迎えた、高校受験を控える大切な一年のはじまりに、彼女のクラスに転校生が現れた。
大浦勉学(勝地涼)という風変わりな名前を持つ彼は、性格も一風変わっていた。隣の席に座った佐和子に屈託なく接してきた彼は、伝説となっている中原ナオのことを知っていて、その妹である佐和子をライバルとするため、友達になる、と宣言する。
少し突飛なものの考え方をするこの新しい同級生に、佐和子は少しずつ惹かれていく。ナオのように成績優秀ではなく、西高進学はやや厳しい位置にいた佐和子だったが、大浦の姿に励まされるように、彼女もまた本腰を入れて西高に挑むことにした。同じころ、父もまた受験生になることを家族に打ち明ける。
歪みを生じていた中原家は、そうして緩やかに新しいかたちを模索しつつあった。[感想]
鑑賞したのは2006年7月20日、モニター試写会という形である。この感想は当時に描き上げたもののため、実際に公開されるものとは表現や編集に違いがある可能性もあることをご了承のうえでご覧頂きたい。
しかし、とりあえずわたしが鑑賞した時点では、間違いなく本編は傑作である。当初、僅かな事前情報からは、やや特殊な発端を作った家族の話、というだけに捉えられ、日本における家族ドラマというのには少々合わないものを感じるわたしの食指を誘わなかったのだが、実際に鑑賞した本編はいわゆる“家族ドラマ”の枠に留まるものではない。
というよりも、本編の手触りはむしろ佐和子という少女を軸とした青春ドラマであり恋愛物語である。確かに発端こそ父の不安定な内面を伝え、歪な家族像をちらつかせるが、基本的にはそこに根を置きながら、将来が見えてこない自分に戸惑い不安を抱く佐和子の姿を描くことに力を注いでいる。
この青春ものとしての描写の瑞々しさと、並行して佐和子の家族を描いていくうえでの匙加減が絶妙だ。どちらに偏り過ぎもせず、やたらと感情的になることなく淡々と出来事や情景を積み重ねていき、その重なりのなかから世界観を膨らませている。やることの定まらない父に、家族を愛しながら家を離れてしまった母。そんな親よりもずっと地に足の着いているように見えながら、どこか言動が奇矯で、女性との付き合いが長続きしない悪癖を持つ兄。そうした家族全員の迷走ぶりが、佐和子の成長や変化につれて次第に道を取り戻していく。そのさり気なさがまた巧い。
佐和子にとってもうひとつ重要な存在となるのが、進学する年になって突如としてやって来た転校生である大浦勉学である。佐和子の家に比べるとずっと普通の意味で“崩壊”している家庭環境にいる彼は、もともと佐和子と親しくなりやすい条件を備えていたうえに、裕福な家に住むが故のお坊ちゃんぶりと真っ直ぐさが、どこか歪みを生じていた佐和子の支えとなり、安らぎとなっていく。その奇妙な友情ともつかない関係がじわじわと、格別なきっかけがあるわけでもなく静かに恋愛へと変化していく様子が、さりげなくも丹念に描かれる。
こうした青春物語としての骨格のなかには決して奇異なモチーフを投じることなく、ありふれたシチュエーションを導入している。それ故、人によっては月並みすぎる、という感想を抱くこともあるように思われる。また、そうした展開の帰結する先もかなり早い段階から察知できてしまうことも問題視する向きがあるだろう。
しかし、この解りやすさ、シンプルさはそれだけ本編の描写の深さと、有り体な展開の向こう側にある非凡な展開と締め括りをいっそう引き立てている。終盤で提示されるあまりに重い事実は、だが随所に鏤められた出来事や登場人物の言動によって和らげられていく。放り出されたままであれば容易く折れていたであろう心を、柔らかく受け止めて先に進むことを促す、その手管が自然で実に感動的だ。
そうする上での人々の行動に、いっさい押しつけがましさがないのもいい。誰もが謙虚で、物云いはとても弱々しく、だがそうした当初は別々の方向を目指していた人々が、たったひとつの悲劇を乗り越えさせるためにそっと手を差しのばす姿が清々しく、胸を打つ。
実際にはまだまだ困難は沢山先に待ちかまえているであろう、ということも本編は無視していない。まだ見舞われた災厄に心を囚われていることも。だが、それを見越した上で河原をただ一心に歩き続ける佐和子を撮すラストシーンが、深い深い余韻を齎す。ときおり振り返り、涙を滲ませそうになりながら、それでも前を向き、微かに微笑む様子が快い。
冒頭ではああしたことを書いたが、しかし本編は本質的に家族のドラマである。だが、それを意識させない筆運びと、家族の絆というものを押しつけず、だがしっかりとその存在を実感させる暖かさと安心感とは、まさに本当の“家族ドラマ”としての深みを感じさせる。いっさい期待などなく、予備知識も最小限であったからというのもあるだろうが、そうしたことを抜きにしても極めて良質の映画である。
タダで、しかもかなり早く観られたのは本当に僥倖だったと思う。感謝のためにも強く、この作品は推しておきたい。(2006/12/31)