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『light as a feather』トップページに戻るHINOKIO
監督・原案・VFX:秋山貴彦 / 製作代表:迫本淳一、結城徹、唯敷和彦、木村雪男、日下孝明、佐藤慶太、千草草一郎、石川富康、三箇和彦 / エグゼクティヴ・プロデューサー:久松猛朗 / プロデューサー:牛山拓二、上原英和 / VFXプロデューサー:隠田雅浩 / 脚本:秋山貴彦、米村正二、末谷真澄 / 撮影:岡雅一 / 照明:吉角荘介 / 美術:池谷仙克 / 録音:瀬川徹夫 / 編集:上野聡一 / 特殊造形プロデューサー:岡野正広 / 音楽:千住明 / 主題歌:YUI『Tomorrow's Way』(Sony Records) / 制作:ムービーアイ・エンタテインメント+イマージュ+オーヴァーロード・ピクチャーズ / 出演:中村雅俊、本郷奏多、多部未華子、堀北真希、小林涼子、村上雄太、加藤諒、原沙知絵、牧瀬里穂、原田美枝子 / 声の出演:林原めぐみ / 配給:松竹
2005年日本作品 / 上映時間:1時間51分
2005年07月09日公開
公式サイト : http://www.hinokio-movie.com/
丸の内ピカデリー2にて初見(2005/07/09)[粗筋]
事故に遭い、一緒に巻き込まれた母サユリ(原田美枝子)の死を目の当たりにしてから一年、未だ岩本サトル(本郷奏多)の心は鬱ぎ込んだままだった。リハビリも拒絶し、車椅子に乗ったまま自分の部屋に閉じこもっている息子に、父・薫(中村雅俊)が辛うじて託すことが出来たのは、H-603の識別名を持つ、一台のロボット。薫の勤務する会社オーヴァーロード・エンタープライズで製作している介護・医療用ロボットの一形態であり、何らかの事情によって動くことの出来ない人が通学や会社勤務を出来るように代理として操作し社会に送り出すために作られたものであり、既に少しずつ実用化されはじめている。学校へ行くことの意味を疑いながらも、技術者である父に勝るとも劣らないコンピューターの才能への自負もあってか、サトルはH-603を代理として、学校に通い始める。
当然のように、新しい同級生たちがまず向けたのは好奇の眼差しだった。軽量化のため素材に檜を用いている、という話をしたことから、すぐさまサトルの操るロボットは“ヒノキオ”の通称で呼ばれるようになる。
そして、いきなり手酷い洗礼を仕掛けてきたのは、工藤ジュン(多部未華子)を筆頭とする三人の悪ガキたち。階段にロープを仕掛け転ばせたり、神社におびき寄せて落とし穴に陥れ水鉄砲で狙ったり、とあからさまなイジメに走る。
だが、感覚は伝達しないせいもあってか、サトルはあまり拘らなかった――寧ろ、まだ彼の心はどこか非現実に属していた。部屋に閉じこもって父からの呼びかけに応えることもせず、会話はドアの下から潜らせるメモで済ませる。ヒノキオを学校に近いボロアパートで休ませたあとは、オンライン・ゲームの奇妙な隠し面『パーガトリー』に没頭するばかり。落とし穴のそばにジュンが落としていったリコーダーを、ゲームの中に登場した呪いを解くアイテム“風の笛”と混同したのも、きっとまだサトルにとってこの暮らしが現実味を帯びていなかったせいなんだろう。
だから、ヒノキオが落とし穴に引っかかる一部始終を見届けていた学級委員の高坂スミレ(小林涼子)がジュンたちのイジメを告発したときも、あっさり「別に」と応えていた。放課後、ジュンたちはヒノキオ越しにサトルに真意を質す。応えられないサトルに、ジュンはちょっと怪訝そうに問いかける――「お前、もしかして、俺たちの仲間になりたいのか?」
まったく思いがけない問いかけだった。だから、思わず「はい」と応えていた。
その日から、サトルの“ヒノキオ”としての生活時間が延びていった。悪いことをやらされたり鞄持ちに使われたりもしたけれど、他にすることもないからか、サトルは拒まない。仲間のうち平井健太(加藤諒)は『パーガトリー』に嵌り、細野丈一(村上雄太)は塾が忙しくなったせいもあって、ジュンとふたりきりで遊ぶ機会が増えていった。自分同様、数年前に父親を亡くしていたジュンと共感するところもあり、急速にふたりは親しくなっていく。
ただ、ある日を境に、その親しさは少し意味を変えることになる――ジュンが女の子だったということに気づいてしまってから。[感想]
一台のロボットを介して結ばれる少年と少女との友情あるいは恋心、そして親子の絆を新たに繋ぐ物語、という骨子である。その一見マニアックだが人間関係というものの核心を貫くようなテーマ、そしてその主題を構築するためのプロットはなかなかによく練られていて秀逸である。だが、如何せん細部に問題点が多い。
表面的にも実際的にも主題は前述の通りと思われるが、一方で本編にはもうひとつのテーマがその下に横たわっていると考えられる。ここ数年で急激に肥大し日常生活に根を下ろしていった、インターネットを介する匿名性の高いコミュニケーション形態と、そこから切り離すことの出来ないアイデンティティーの混乱、のふたつである。前者については、作品の大元であるヒノキオというアイディア自体が如実に代弁しているが、後者については決して声高ではないまでも、極端なモチーフが随所に鏤められている。
まず、ヒノキオを介してサトルとのあいだに暖かな感情を育んでいく少女・ジュンのキャラクターそのものである。当初、彼女はほとんど男の子のように描かれている。一人称は“俺”だし、男の子ふたりとつるんで悪ガキ三人組を構成している。性別を隠すところまでは狙っていないようだが、しかし自分の女という性を強く厭っている気配がある。
もうひとり象徴的に描かれるのが、ふたりの関係にそれとなく介入してくる同級生・スミレである。観ていて結構驚くネタもあるので詳述はしないが、作中彼女のキャラクターは最も複雑で混乱している。冒頭では真面目一辺倒な女の子のように見え、ヒノキオの登場に湧く教室でひとり冷静な態度を通し、ジュンたちがヒノキオにイジメ同様の悪戯をしているのを目撃するとすぐさまホームルームで告発する。だが、そもそもイジメを目撃する経緯を辿ってみると、彼女ははなからジュンたちを追跡していたように窺えるし、その後仲を深めていくヒノキオとジュンたちとを羨んだ彼女は中学生たちを嗾けて襲わせる、という極端な行動に出る。彼女のそうした二面性は、ヒノキオ以上に物語の主題を反映しているようにも見える。
ただ、そんな具合にテーマに沿ったモチーフが多く注ぎ込まれている一方で、それらの動きをうまく管理し切れていないのが問題だ。サトルとジュンのあいだにある想いが友情から恋心へとスライドしていく過程がいささか唐突に映るし、作中で現実とシンクロして重要な働きを為すオンライン・ゲーム『パーガトリー』の位置づけ自体が終始曖昧なままという点にも疑問を残す。終盤でサトルに破滅的な行動を起こさせる契機となった出来事について、後始末をつけていないのも気に掛かるところだ。何より、前述の通りほかの誰よりも象徴的なキャラクターであるはずのスミレの行動原理が不可解になってしまっているのがいけない。とりわけクライマックスでの彼女の変心はかなり唐突で、そこに至る心理的変遷がまったく描かれていないどころかその後の変化さえ描かれていないので、ひたすら意味不明に陥っている。全般に、どうしてそうなるのか想像は出来ても、過程を描いたり説明することがないので、やたらと放り投げっぱなしの印象が伴うのは、間違いなく低年齢層の観客をも捉えようとした作品の方向性と併せて考えると大いに問題がある。
もうひとつの大きな問題点は、台詞の扱いが無神経であることだ。モチーフは秀逸、雰囲気も非常にいいのに、ひとつひとつの台詞がこれといった吟味が為されることなく適当に並べられているだけであるために、印象が乏しくなっている場面が非常に多い。基本的にナレーションを省いているにも拘わらず唐突にモノローグを入れて中途半端に感情を説明させてしまったり、喋りすぎて艶消しになっている箇所が多いのは兎に角勿体ない。私が感心したのは僅か二箇所、遊園地でヒノキオとデートした昭島江里子(堀北真希)がコーヒーカップに乗っているときに投げかける、「本当のあなたはいま、どこにいるの?」という箇所と、ラストシーンのもっと饒舌にしてもおかしくない場面を敢えて最小限の言葉で片付けたことぐらいだ。だが後者に関しては、狙いとして台詞を絞ったのではなく、単純に何も思いつかなかっただけなのでは、と勘繰りたくなる――そのくらいに台詞の練り込みが甘い。特にそのラストシーン直前の台詞など、もっと繊細に言葉を選んでいれば余韻を強めることが出来たはずなのに、微妙な印象ばかりを残してしまっている。
と、問題点ばかり連ねてしまったが、では駄作かと言われると――そうは思わない。寧ろ、個人的にはかなり肯定的に捉えていたりする。
まず、視覚効果や特殊造形のセンスが素晴らしい。生々しいギミックを用意せず、敢えてオールドファッションな“ロボット”像に準えたヒノキオのデザインもさることながら、それが動いている様にまるで違和感を与えない技術力は、ハリウッドのそれに匹敵する水準にある。ヒノキオを実景に巧く馴染ませる一方で、必要に応じて過剰にファンタジックな映像を作っている匙加減も絶妙だ。特にクライマックス付近、お化け煙突のシーンは幾分作りすぎた印象のある映像だが、それ故にエピソードそのものの孕む生々しさや痛々しさを程良く抑えており――これでもうちょっと台詞が良ければ、という厭味はあるが、名場面に仕立てている。
人物の配置も素晴らしい。要となるサトルの両親に中村雅俊と原田美枝子というベテランを配して固める一方で、出番は少ないながらサトルの父に対してさりげなくアドヴァイスを齎す役についた牧瀬里穂が好演している。
本編における最大の慧眼は、メインとなる登場人物に、同じ年頃である12歳前後ではなく、やや上の15歳前後の少年少女(撮影当時)を起用した点である。このくらいの子役は役者としての技術的にも、演技以外の魅力という意味でも微妙な年代で、魅力はあっても甚だ台詞回しが拙かったり、反対に演技力ばかりが際立って鼻につくことが多い。大人中心の物語にそういう子役がひとりやふたり混ざっていたところで、主要な役柄でなければさほど気にはならないのだが、本編のように主要キャラクターが大半子供ばかりであると、演技力の差ばかりが目についたりするか、半端に巧すぎて生々しさばかりが際立つ結果を招くことが多い。そこへ敢えて、自らの持ち味が演技力であるのか雰囲気であるのかある程度把握している、すこし上の年齢の少年少女を配することで、そういった不自然さを最小限に抑え、作品に透きとおったイメージを齎すことに成功している。実際の12歳よりも性徴の明瞭になりつつある年齢であることも、作中のテーマに貢献していることは疑いない。
傑出した映像センスと、役者の演技力と個性とを慮った配役が織りなす透明感が支える、美しい映画である――それだけに、説明不足と台詞の無神経さが残念で仕方ない。可能なら台詞だけで構わないので私に書き直させて欲しいぐらいだ。兎に角メインとなる子供達がそれぞれに魅力的な本編であるが、キャラクターとしての面白さは高坂スミレにやや及ばずといえども、最も色気を放っているのが工藤ジュンを演じた多部未華子であることは間違いない。ほどほどに中性的な顔立ちをした彼女が、途中まであからさまに“男の子”を演じ、次第に少女へとスライドしていったことで、これより上の世代では決して表現することの出来ない色気を見事に表現している。
ただ――そこまでの演技が絶妙であったぶん、最後に登場するその姿が“無理に女装させられている男の子”っぽく見えてしまうのが残念というか気の毒というか。私が鑑賞したのは初日・舞台挨拶の回で、鑑賞直後に登場した彼女はごく普通に可愛い“女の子”だっただけに、なんだが尚更に気の毒だった。(2005/07/10)