/ 『さよなら、さよならハリウッド』
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『light as a feather』トップページに戻るさよなら、さよならハリウッド
原題:“Hollywood Ending” / 監督・脚本:ウディ・アレン / 製作:レッティ・アロンソン / 共同製作:ヘレン・ロビン / 製作総指揮:ステファン・テネンバウム / 撮影監督:ウェディゴ・フォン・シュルツェンドーフ,B.V.K. / 美術監督:サント・ロカスト / 衣装デザイン:メリッサ・トス / 編集:アリサ・レプセルター / キャスティング:ジュリエット・テイラー、ローラ・ローゼンタール / 出演:ウディ・アレン、ティア・レオーニ、トリート・ウィリアムズ、マーク・ライデル、デブラ・メッシング、ジョージ・ハミルトン、ティファニー・ティーセン / 配給:日活
2002年アメリカ作品 / 上映時間:1時間53分 / 日本語字幕:古田由紀子
2005年04月23日日本公開
公式サイト : http://www.nikkatsu.com/movie/sayonara/
恵比寿ガーデンシネマにて初見(2005/06/23)[粗筋]
ハリウッドの大手スタジオであるギャラクシー・ピクチャーズの会議室は目下紛糾していた。製作担当のエリー(ティア・レオーニ)が6000万ドルを費やすリメイク大作の監督候補に、ヴァル・ワックスマン(ウディ・アレン)の名前を挙げたせいである。スタジオの社長でありエリーの婚約者でもあるハル(トリート・ウィリアムズ)は苦い顔をし、取締役のエド(ジョージ・ハミルトンは困惑を隠さない。
ヴァルは確かに一流監督だった、十年前までは。事実オスカーも二度にわたって獲得しているし、根強いファンもいる。だが、芸術的と賞賛されて図に乗った彼は我が儘放題の要求をして出資者たちに煙たがられた挙句、神経症を理由に作品が未完成のまま監督を降板したことを契機に、以来一本もまともな映画を撮っていない。ちなみにそのお蔵入りした映画に出資したのは他でもないギャラクシー・ピクチャーズである。ついでに言えば当時ヴァルの妻だったエリーだが、冷め切った仲に嫌気が差してハルに浮気をし、さきごろ遂に婚約を決めた。
しかしそれはそれ、これはこれ。エリーはこの脚本を活かせるのはヴァルだけだ、と熱心に主張し、マンハッタンで生活している彼と彼のエージェント・アル(マーク・ライデル)のもとを訪問しオーディションするところまで漕ぎつける。
さて、当のヴァルはというと、脚本の魅力に惹かれたものの、自分の妻を寝取り、しかも結果的にだが彼の監督生命を風前の灯火にまで追いやったギャラクシー・ピクチャーズとハルからのオファーとあってしばし渋い顔をする。だが、たまに入ってくるCM撮影の仕事もロケ先で癇癪を起こして解雇されてばかりでろくな収入源のなかったヴァルは、50万ドルという、一流監督相手とは思えないけれどけっこう高額なギャラに目が眩み、ハルやエリーと久々の再会を果たす。積年の恨みはさておき、ひととおり自分の構想を――先方の様子を窺いつつ――開陳したヴァルのもとに間もなく、アル経由で監督採用の報が届けられた。このエージェントなかなかの腕前で、50万ドルの他に発生した利益の10パーセントを確保してしまった。
俄然やる気を出したヴァル――だったが、久々の現場はストレスの溜まることだらけだった。久々に逢えたのをいいことに、打ち合わせの合間にかつての素行に対する不平や愚痴をこぼしていたらエリーの態度がやや硬化してしまったし、贅沢を言って呼び寄せた美術監督はとんでもないセットのアイディアを提示し予算をまるで考慮しなかったために準備段階で首をすげ替える羽目になる。せがまれるままに現在同棲中の若い恋人ロリ(デブラ・メッシング)をこっそり出番は少ないが要になる役どころに据えてみればエリーに異議を唱えられる。関係を隠しておきたいヴァルの思惑を察しないロリは、撮影準備も大詰めを迎えたある日、偶然レストランで鉢合わせたエリーとハルのカップルにあっさり自分たちの関係を打ち明けてしまう始末。
いよいよ明日撮影開始という夜、とんでもない事態が勃発する。家族とパーティーを開いていたところから呼び出したアルにヴァルは、「目が見えなくなった」と言い出す。原因は何か解らないが、うたた寝して目が醒めたら、まったく何も見えなくなっていたんだ――
診断の結果、視神経や脳の働きに異常はなく、ストレスから来る心因性の失明状態なので、ストレスの原因になっている事柄を解決に導けばいずれ元通りに恢復する、と言われた。だが、原因の検討など皆目つかず、いつまで待てば元通りになるのかは誰にも予測出来ない。降板するしかない、と言うヴァルに、あろうことかアルはこのまま撮影を始めろ、と言う。この千載一遇の好機に、神経性の失明で降板したとなれば彼の監督生命は完全に閉ざされる。そうならないためには、誰にもばれないように、仕事を全うするしかない……[感想]
実はウディ・アレン作品初体験です。『アニーホール』や『ギター弾きの恋』など薦められたりいい評判を耳にして興味を惹かれたりした作品は多々あるのに、タイミングが合わず劇場でも映像ソフトでもまだいちどもお目にかかれたことがなく、いつか観たいいつか観たいと念じ続けていました。それ故、出来はさておき観られただけでも嬉しい。
さておき、とは書いたがさすがに安定した支持を集めているだけあって、作品の質も極めて高い。
お話の基本線はさほど奇を衒っているわけではなく、落ち目の監督に突如訪れた大作のオファー、元妻や現在の恋人との関係、撮影初日にストレスから失明してしまう、といった大きなポイントを軸にして繰り広げられるストーリーはどちらかと言えばお約束のもので、中盤あたりまでの展開は概ね予想どおりになる。製作担当の妻との微妙な関係や恋人を作品のキャストに潜りこませるくだり、失明してからの話の流れも、突然目が見えなくなってそれを隠す必要に迫られた人間の可笑しさをどう描くか、という基本に忠実である。そのため、絶えず捻りを要求したがったり予想外の筋書きを求める向きや、お約束にあまり価値を見出さないような観客は肌に合わないと感じるかも知れない。
しかし、基本に忠実であるからこそ本編には安心感が漂い、だからこそ台詞回しや演出の的確さが光っている。たとえば序盤、ヴァルが監督することが決定した直後、まだマンハッタンに滞在していた元妻エリーとふたりだけで打ち合わせをする場面。一見殊勝に席に着いたかに見えるヴァルだが、普通に作品の構想を語っていたかと思えばいつの間にかかつてのエリーとの夫婦生活に関する不平を捲し立てている。やがて自分で気づいて反省して、相手に指摘されるより早く話を軌道に戻すのだが、でもやっぱり私生活の不満や愚痴がいきなり入り込んでくる。しまいには周辺のテーブルに着いた客にまでエリーの不行跡を訴えるありさまで、最後には「これはあなたの作品だから、あなたの好きなようにしたらいいわ」と匙を投げられる始末。このあたりの滑らかな、しかし決して下品に陥らない話芸の巧みさは絶品だ。言葉遣いに確かな才能の片鱗を匂わせるものの、どこかピントのずれたヴァルというキャラクターの、鬱陶しいけれど憎めない人柄作りが巧い。
周辺のキャラクターの決して突き抜けてはいないけれど現実味のある造型、そして露悪的に陥らない範囲での映画製作の内幕描写もまた、ヴァルの人間性と絡みあっていい効果を成している。本編の巧妙な点のひとつとして、ヴァルをハリウッドから隔たったマンハッタンの住人として、撮影も現地で行わせていることが挙げられる。だから、出資者のハルや製作のエリーも撮影現場に常駐できるわけではなく、序盤ではヴァルに任せきっており、それ故にヴァルの異変にも気づかない――正直、周辺のスタッフが途中で気づいてもいいはずだとは思うのだが、その辺も一種のお約束である。そういう場所に居住しているから、身近にいるエージェントのアルに対する依存心が強く、失明したとき最初に彼に救いを求めたために、彼の監督生命を守るという大義名分のもと隠蔽工作に走る、という客観的にあり得ない展開も正当化されている。特に終盤近くでハルと一対一の打ち合わせをするくだりの可笑しさは考え抜かれた設定の賜物だ。
果たしてこの話にどう収拾をつけるのか、と観ているこちらが不安になったところで、ある意味御都合主義的な、しかし皮肉たっぷりのオチが繰り出される。しかし恐ろしいことに、この降って湧いたような結末にも、途中の会話にちゃんと伏線が張ってあるのである。その直前、ちょっとホロリとさせる――しかしやっていることはかなり滑稽な一幕が挿入され、そういう方向で終わらせるのか? と思わせて意表を衝く呼吸の巧さもまた、結末の味わいを深めている。
本当に評価されている映画人に共通することだが、ウディ・アレンもまたハリウッドに蔓延する大作主義には苦々しいものを感じているのだろう。随所に皮肉を交えながら、しかし本編にあまり厭味なところがないのは、それでも主人公はじめ登場人物のすべてが洒脱さを損なっていないからだ。俗悪な人物と描写されていても、ヴァルの理解を超える若者であっても、その言動には他者に対する配慮と、暖かなユーモアがまつわっている。そして何より終盤、視力を回復したあとのマンハッタンの情景の美しさが、訪れる“別れ”に添える彩りは、ジャンルや意思を超えた映画に対する愛を感じさせて快い。
初めて観たウディ・アレン作品だが、評価の安定した高さも納得のクオリティである。旧作も含め、今後なるべくチェックしてみようかな、という気になってます、いま。本編の日本版予告編では、爆笑問題の太田光がナレーションを務めていた。映画にも造詣の深そうな人物なので、起用自体にはさほど意外性を感じなかったのだが、観たあとになるとこの上ない適役だったように思える。主人公ヴァルのキャラクターが、なんとなく太田光を彷彿とさせるのである。天才肌でどこか神経質な言動が目立ち、大きなことを言うわりには線が細い。実は奥さんがボス、というのも共通している。そういうところに目をつけてこの人を起用したのかも知れない。
最近ありがちな英題をそのままカタカナにしたものでもなく、直訳で済ませたわけでもなく、原題のニュアンスをきちんと残しながら「さよなら、さよなら」と繰り返して妙なおかしみをも感じさせる邦題も秀逸。この作品、日活がなかなかいい仕事をしている、という印象を抱きました。
ただ……公開館である恵比寿ガーデンシネマの特徴でもあるとはいえ、凝りすぎて扱いにくいプログラムだけはもうちょっと考えて欲しかった。ケースに平綴じの冊子と一緒に折りたたんだテーブルゲームを一緒に封入したかたちなんですが、きつすぎて取り出しにくいのです。中身も傷みやすいし。(2005/06/24)