cinema / 『イン・アメリカ 三つの小さな願いごと』

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イン・アメリカ 三つの小さな願いごと
原題:“In America” / 監督:ジム・シェリダン / 脚本:ジム・シェリダン、ナオミ・シェリダン、カーステン・シェリダン / 製作:ジム・シェリダン、アーサー・ラビン / 共同製作:ポール・マイラー / 撮影:デクラン・クイン / 美術:マーク・ジェラハティ / 編集:ナオミ・ジェラハティ / 衣裳:エミア・ニ・ヴォールドニー / 音楽:ギャヴィン・フライデー、モウリス・シーザー / 出演:サマンサ・モートン、バディ・コンシダイン、ジャイモン・フンスー、サラ・ボルジャー、エマ・ボルジャー、キアラン・クローニン / ヘルズ・キッチン製作 / 配給:20世紀フォックス
2003年アイルランド・イギリス合作 / 上映時間:1時間46分 / 日本語字幕:戸田奈津子
2003年12月06日日本公開
2004年07月02日DVD日本版発売 [amazon]
公式サイト : http://www.foxjapan.com/movies/inamerica/
日比谷シャンテ・シネにて初見(2003/12/23)

[粗筋]
 サリヴァン一家はカナダを経由してアメリカに入国した。国境を越えるとき、“休暇旅行”という嘘を見抜かれそうになったと気づいたクリスティ(サラ・ボルジャー)は、大切な“三つの願い事”のうちひとつを使ってしまった。
 マンハッタンに入った一家は、古ぼけたアパートを新居に定めた。住人はヤク中かゲイばかり、夏になると息も出来ないくらいに蒸し暑くなったので、父のジョニー(バディ・コンシダイン)は町中を引きずるようにして中古のクーラーを運んできた。けれど、クーラーはつけた途端にショートして、アパート中の電源を落としてしまった……
 代わりに一家は貯金を下ろして、映画を観に行った。帰り道、お祭りの屋台に景品としていま観たばかりのE.T.のぬいぐるみが飾ってあったのに次女のアリエル(エマ・ボルジャー)が気づくと、父は屋台のゲームに挑戦する。穴のなかに七回ボールを投げ込めれば成功、ただし失敗すると、再挑戦のたびにお代は倍に跳ね上がる。最初は二ドル、次は四ドル、八ドル、十六ドル……母のサラ(サマンサ・モートン)が家賃のために用意した封筒を開き、代金が二百ドルを超えたとき、クリスティはふたつめの願いごとを費やす。
 ジョニーは日夜オーディションに明け暮れて、必要な生活費は母が近所のアイスクリーム屋で働いて稼いでいた。足りないぶんの家賃を補うために、車はとうの昔に売り払ってしまった。ジョニーの役者の口は見つからず、あのお祭りの夜に新しい命を身籠もったサラもフルタイムでは働けなくなってしまった。やがて学校に通わねばならないクリスティとアリエルのために、父は夜勤を始める。
 クリスティとアリエルが通ったのはカトリック系の学校だった。アイルランド人である一家は他の人々から明らかに差別の眼差しで見られ、感受性の鋭いクリスティにとって居心地は良くない。ハロウィン・パーティーで手作りの衣裳を表彰されても、同情としか思えなかった。
 ハロウィーンがどんな習慣か初めて知った姉妹は、ジョニーの許しを得てアパートの住人相手に子供の権利を行使した。最上階の家族の部屋からひとつずつ降りていって、扉を叩きながら「トリック・オア・トリート!」と叫ぶクリスティたちに返事をする住人はいなかった。ただひとり、扉を開けてくれたのは、周囲から“叫ぶ男”と呼ばれていた変わり者の黒人マテオ(ジャイモン・フンスー)。最初こそかすかに警戒していたクリスティだったが、もうひとりの家族――一番下の弟フランキー(キアラン・クローニン)が引っ越してくる前に死んだことを告げたとき、涙したマテオの姿を見たときから、彼に心を許すようになる。
 サリヴァン一家の末っ子フランキー(キアラン・クローニン)は生前、願いごとには願っていいことといけないことがある、とクリスティに言った。そして願っていいのは三つだけ。クリスティはそれを信じた。残る願いは、あとひとつ……

[感想]
 作中の服装や車の印象、わざわざ家族揃って『E.T.』を観に行き、帰りの露店でぬいぐるみを取り扱っているあたりからして、1980年代ごろの出来事と推測できる。やや遡るものの、現代の「移民」をテーマにした作品と捉えていいだろう。
 ハンディカメラを主体とした、ときおり手振れの混ざったリアリティのある映像にクリスティ=サラ・ボルジャーのナレーションを添えて、時間をこまごまと飛ばしながら約一年ほどの出来事をドキュメンタリーのような雰囲気で綴っていく。
 だが、ドキュメンタリーと違うのは、サリヴァン一家の背景や生活事情をあまり説明しすぎていないことだ。時折、クリスティが愛用しているハンディカメラの映像を援用して、家族の内側からの眼差しを取り入れることで、説明するよりもスムーズに観客の視点を家族のなかに溶け込ませる。細かな台所事情が説明されなくとも、非常に切羽詰まった状態で日々を送っていること、両親――特に母親の方が必死に幸せを装っていること、子供達ふたりがそんな両親の苦しみをよく理解しながらも決してへこたれようとしないこと、などが切々と、しかし暖かく伝わってくる。
 話の展開は全体に唐突で、細部をたびたび端折っているせいかところどころ、特にクライマックスでの描写など御都合主義的に感じられる箇所もある。だが、なまじ小賢しい伏線を貼っていないぶんだけ、瀬戸際であるがゆえのリアリティをも備えている。
 妻に働かせて自分は実にならない役者の仕事に執着し、子供たちとの交流もお座なりにしがちだった父ジョニーが下手をするといちばん悪人に見えるが、しかし本質的には誰ひとり――終盤のある人物を除けば、この状況を打開する術を知らず手をこまねくしかない、力のない人々だ。そこにマテオという、たぶんこの家族が知らなかった価値観を備えた人物が割り込んでくることで、初めて彼らの世界が動き始める。この交流と変化の自然な描写が、終盤の説明のない言動に力を与えている。特に、象徴として幾度も登場する『E.T.』のモチーフとしての使い方が巧い。
 終始わざとらしさのない描写が支える、骨のある家族愛の物語。中盤、発表会でクリスティが歌う“デスペラード(絶望する者)”と、過去を振り切って前を見ようとするラストシーンがこの上なく沁みます。

 ただ、ちょっと疑問に思うのは、クリスティが愛用するビデオカメラのこと。
 彼女が様々なものをビデオで撮影し、それを日々の慰みにしているという設定があって、随所でこのカメラの液晶画面から事象を映したり、回想場面の代わりとしたりと様々な形で作品世界を膨らませる手助けになっている。
 が、思い出していただきたい。感想の最初に述べたように、本編の時代設定は80年代と想定されるのだが――その頃、折り畳み型の液晶画面を備えた、ハンディタイプのビデオカメラというものが、裕福とは言い難い家庭の女の子が所持して様々な記録を保管しておけるくらいに普及していただろうか?
 資料が見つからないので充分に検証できず、或いはさほど不自然な問題でもないのかも知れない。寧ろ、映画という手法のなかで、少女の視点をうまく作品に織り込むための媒介となっており、意図的に時代背景を無視してこのアイテムを導入したとも考えられる。意図的であったとすれば、相当野心的な試みだと思うのだが――はて。

 ちなみに、あとでプログラムを観て驚いたのですが、本編のマンハッタンは大半、アイルランドに作られたセットなのだそうです。アイルランド・イギリスのスタッフにより製作されていることは知っていたが……

(2003/12/23・2004/07/01追記)


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