cinema / 『愛についてのキンゼイ・レポート』

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愛についてのキンゼイ・レポート
原題:“Kinsey” / 監督・脚本:ビル・コンドン / 製作:ゲイル・マトラックス / 製作総指揮:マイケル・カーン、フランシス・フォード・コッポラ、ボビー・ロック、カーク・ダミコ / 撮影:フレデリック・エルムス,A.S.C. / 美術:リチャード・シャーマン / 編集:ヴァージニア・カッツ / 衣装:ブルース・フィンレイソン / 共同製作:リチャード・グァイ / 音楽:カーター・バーウェル / 出演:リーアム・ニーソン、ローラ・リニー、クリス・オドネル、ピーター・サースガード、ティモシー・ハットン、ジョン・リスゴー、ティム・カリー、オリヴァー・ブラット、ディラン・ベイカー、リン・レッドグレーブ / 配給:松竹
2004年アメリカ・ドイツ合作 / 上映時間:1時間58分 / 日本語字幕:林完治
2005年08月27日日本公開
公式サイト : http://www.kinsey.jp/
シネスイッチ銀座にて初見(2005/09/22)

[粗筋]
 アルフレッド・C・キンゼイ博士(リーアム・ニーソン)という、のちにアメリカ社会に“原爆級”の衝撃を齎した人物の背景にはまず、父親(ジョン・リスゴー)との確執がある。エンジニアであり、教会の日曜学校で講師を勤めていた父はあまりに厳格で、性に対して極めて禁欲的だった。アルフレッドと弟ロバートとを自分と同じエンジニアにするため工科大学への進学を勧めるが、幼いころから単独で生物の観察に勤しんでいたアルフレッドは生物学への傾倒を抑えがたく、密かにプールしていた奨学金でボードン大学に再入学、父と訣別した。
 生物学と心理学を修め、更にハーバード大学で分類学博士号を取得すると、インディアナ大学で教鞭を執るようになったアルフレッド・キンゼイ博士はタマバチ研究 に全精力を傾注する。最終的に10万匹に及ぶ個体を標本として採集し、その多種多様な生態を分析した博士は、タマバチ研究における第一人者としての地位を確立する。
 変人であったが学生と親しく付き合った博士は、Professor Kinseyを略した愛称プロックの名で呼ばれるほど学生達から慕われていた。やがてキンゼイ博士はそんな学生のひとり、クララ・マコーミック(ローラ・リニー)、通称マックと恋に落ち、結婚に至る。
 だが、そんなふたりに立ちはだかった最初の障害は、頑迷で旧弊に囚われたままのキンゼイの父――ではなく、セックスの問題だった。どうしても痛みを伴うマックに無理強いは出来ず、遂にキンゼイは「専門家に相談する」という、単純なようでいて、当時の価値観からすると革命的な発想に辿りついた。そうして性に関する問題を克服したふたりは、より深い絆で結ばれることとなる。
 タマバチの研究によって、一部から“退屈”と揶揄されつつも学会でその地歩を確立したキンゼイ博士だったが、同時に妻との新婚当時の経験から、同僚や学生達に性に関する相談を受けるケースが増えていった。タマバチの生態に代表される生物学的見地からも、性愛のかたちは千差万別で構わないのだと説き、また宗教的な価値観から来るモラルに影響された誤った認識が蔓延っていることを嘆くものの、そんなキンゼイ博士自身も他人の性生活、ひいては統計学的な標準についてまったく知らないことを自覚し愕然とする。
 そうして、インディアナ大学で前代未聞の講義が開かれることとなった。一定年齢に達した学生や婚約中・既婚者の生徒のみを対象に、性のあり方について説くという趣旨のものである。就任したばかりの学長ハーマン・ウェルズ(オリバー・プラット)ははじめ難色を示すが、偏見に満ちた衛生学がもはや時代遅れであることを理解すると、キンゼイ博士の提案を受け入れる。
 講義は好評であったが、相変わらず実態調査のためのサンプルが存在していないため、隔靴掻痒の感が否めない。そこでキンゼイ博士は受講者たちにアンケートを行い、それぞれの赤裸々な体験をデータとして提供してもらう。結果は衝撃的なものであったが、それ故にサンプルの絶対数が足りないことも確かだった。妻からは「テストのようで、緊張を強いては正確な結果が出せない」と指摘され悩む彼に、最初のジョシュであるクライド・マーティンは、インタビュー形式での調査を提案する。
 そうしてキンゼイ博士は、のちに世間を大いに騒がせることとなる『キンゼイ・レポート』の調査に本格的に乗り出すこととなった――

[感想]
 五十年以上昔の話であるにも拘わらず、随所に現代を感じさせ、溜息を吐きたくなる場面が少なくない。とんでもないことである。
 コメントによれば、過去の物語と感じさせないために極力時代性は盛り込まないよう工夫していたらしい。事実、キンゼイ博士がインタビューのため各地を飛び回っていたのは1930年代後半から40年代にかけての、まさに太平洋戦争そのものを挟んだ期間なのである。時代色を反映するため、普通ならどこかしらに戦況なり、職場や家族への影響なりを心配する場面があってもおかしくないところを、一切排除している。服装や乗用車のデザインぐらいにしか時代は垣間見えず、台詞だけ抜き出したら現代の物語と見えてもおかしくないだろう。
 そういう表現の仕方を選ぶことで、このキンゼイ・レポートの出版から五十年以上を経た今も、アメリカのみならず世界中に性に対する偏見や無知が蔓延していることを、過去を描きながらも実感として伝えようとしている。ふだんさほど性表現や性の理解について考えない人であれば、キンゼイ・レポートの内容そのものに衝撃を受けるだろうし、或いは蒙を啓かれた感覚を味わうだろうが、何らかのかたちで世間一般の認識を知っていると、世の中がほとんど変わっていないことに愕然とさせられる。
 そんな具合に、観客のスタンス次第で衝撃の度合いを変える、というのを自覚的にやっている時点で、かなり志の高さを窺わせる。それは構成の点についても同様だ。キンゼイ博士の生い立ちを、単純に時系列に添って追っていくのではなく、いきなり助手のひとりワーデル・ポメロイ(クリス・オドネル)が、他でもないキンゼイ博士に対してインタビューを行い、そこから回想に入る、という格好で行う。キンゼイ博士の実践した調査法をこの時点で仄めかすと同時に、やがて性意識の研究へと向かっていく背景を短時間で簡潔に示してしまうこのくだりの巧みさは実に見事だ。
 もうひとつ賞賛しておきたいのは、そうして一般的なアメリカ人の性意識を随所に盛り込み、調査を通して変化していったキンゼイ博士と妻、それに助手たちとの関係を赤裸々に描きながら、全体の語り口が品性を損なっていない点である。そのことを如実に示すのは、中盤において行われる結婚講座初日の一幕だ。キンゼイ博士は写真を使って男性器と女性器が交わる過程を示し、エクスタシーに至る様子を解説する。一歩間違えば露悪的すぎて、受講生ならぬ観客でさえ目を逸らしかねない場面だが、実際には微塵の厭らしさも感じさせない。ごく純粋に資料として写真を扱い、当たり前のこととして射精や絶頂について語っているので、画面から滲み出ているのは誠実さだけなのだ。現実がそうだったのだから、と言えば簡単なことのように思えるだろうが、製作者が節度を弁えていて初めて出来ることである。
 そして、その果てに辿りつく結末がまた秀逸なのだ。現実ではキンゼイ博士は晩年、幾多のトラブルに遭遇し、客観的には失意のうちに亡くなったように見える。それ故に映画としての決着をどうするのかが鍵だろう、と鑑賞前から思っていたのだが、実に素晴らしい締め括りになっている。失意にありながらなおも研究に没頭するキンゼイ博士に示された彼の研究の“成果”は、寛容すぎたがあまりに彼の視界を覆っていた雲を文字通り薙ぎ払う。そうして、依然困難の予想される未来を前にしながら、穏やかな境地に辿りついた彼の姿を遠く追って物語は幕を引く。
 ラストシーンがかくも美しいのは、その情景の選択もさることながら、ナレーションや字幕で彼のその後を綴る愚を犯さず、そのうえキンゼイ博士自身にもその胸中をあからさまに語らせていないからだ。言葉を尽くした物語の果てにこの結末を選んだことで、“性意識の改革”を示唆した英雄について描いたものではなく、社会的なテーマをふんだんに盛り込みながらも、ひとりの男が迷走の果てに辿りついた境地を匂わせた、私的なドラマとして完結させることに成功している。
 語り口は平易だが考えさせるところが多く、しかし決着は明瞭でありながらも透きとおっている。時代を超えて通用するドラマ――には、ある理由からなって欲しくはないのだけど、現状を見る限りその可能性は低くないのだろうなあ。その事実が嬉しくもあり、大変嘆かわしくもある。

(2005/09/22)


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