/ 『記憶の棘』
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『light as a feather』トップページに戻る記憶の棘
原題:“Birth” / 監督:ジョナサン・グレイザー / 脚本:ジャン=クロード・カリエール、マイロ・アディカ、ジョナサン・グレイザー / 製作:ジャン=ルイ・ピエル、ニック・モリス、リジー・ガワー / 製作総指揮:ケリー・オレント、マーク・オーデスキー / 撮影監督:ハリス・サヴィデス,A.S.C. / プロダクション・デザイナー:ケヴィン・トンプソン / 編集:サム・スニード、クラウス・ウェーリッシュ / 衣装デザイナー:ジョン・ダン / キャスティング:エイヴィ・カウフマン,C.S.A. / 音楽:アレクサンドラ・デプラ / 出演:ニコール・キッドマン、キャメロン・ブライト、ダニー・ヒューストン、ローレン・バコール、アリソン・エリオット、アーリス・ハワード、マイケル・デソーテルズ、アン・ヘッシュ、ピーター・ストーメア、テッド・レヴィン、カーラ・セイモア、ノヴッラ・ネルソン、ゾー・コールドウェル、マイロ・アディカ / 配給:東芝エンタテインメント
2004年アメリカ作品 / 上映時間:1時間40分 / 日本語字幕:松浦美奈
2006年09月23日日本公開
公式サイト : http://www.kiokunotoge.jp/
日比谷シャンテ・シネにて初見(2006/09/25)[粗筋]
もし妻が亡くなったその翌日、窓辺に現れた小鳥がこう言ったとします。「ショーン、私はアナ。あなたの妻よ」私はその言葉を信じて、その鳥と一緒に暮らすでしょう。――では、ジョギングしながら帰宅しますので、この辺で。
そう語った夫ショーン(マイケル・デソーテルズ)の死から10年。ようやく心の傷が癒えつつあったアナ(ニコール・キッドマン)は、長い間彼女にアプローチしてきたジョゼフ(ダニー・ヒューストン)からの求婚を受け入れる。母エレノア(ローレン・バコール)やショーンの親友クリフォード(ピーター・ストーメア)らが胸を撫で下ろすなか、まったく予測もしない出来事が彼らを見舞った。
エレノアの誕生パーティの日。見知らぬ少年(キャメロン・ブライト)が忽然と部屋に現れ、アナと話がしたい、と言った。キッチンで二人きりになったとき、少年はアナにこう告げる。
「僕はショーン、君の夫だ」
はじめは信用しなかった。アナ一家が暮らすアパートのドアマン・ジミー(マイロ・アディカ)と親しく、父コンテ(テッド・レヴィン)がアパートの住人の家庭教師を務めているということから、アナに憧れるあまり途方もない嘘をついて接近してきたように見えた。コンテ氏立ち会いのもと、ジョゼフが「二度とアナに近づかないように」と諭し決着したかに見えたが、アナが最後通牒を叩きつけ、立ち去ろうとしたそのとき、衝撃のあまり崩れるように気を失ったショーンの姿に、アナは夫が死んだときの有様を重ねて見てしまった。
ある日、留守番電話でアナを公園に呼び出したショーンが彼女を待ち受けていたのは、ジョギング中に夫が倒れ絶命したその場所だった。夫と親しかった者に、彼らだけが知っていたことを質問させればいい、という幼いショーンの言葉から、アナは姉ローラ(アリソン・エリオット)の夫で医師をしているボブ(アーリス・ハワード)にことを委ねた。
ショーンは確かに、異様なほどアナの夫に関する記憶を備えていた。出張先の話、家族の住まいのこと、そしてボブの家のソファでアナを抱いたこと……少しずつ、少しずつ、アナの心は疑念から確信へと傾いていった。
彼は、死んだ夫の生まれ変わりなのだ。[感想]
本編はアメリカでの公開時、ニコール・キッドマンが少年と愛しあう、というセンセーショナルな状況が話題となり、賛否両論を巻き起こした、と聞く。それ故に、却って関心を抱き日本での公開を待ち望んでいたが、実際に鑑賞した本編は、だいぶ予測していたものとは違っていた。
上記のシチュエーションからもっと感情的でドロドロとした筋書きを想像していたのだが、逆に本編での感情表現は全体にあっさりとしている。終盤近くで何人かの登場人物が少年の行動に逆上する場面はあるが、全体に彼らの対応は終始落ち着いて理性的だ。夫の死の衝撃からようやく立ち直り、結婚の約束を受け入れた女の前に忽然と現れ、夫の生まれ変わりを主張する少年を、ごく常識的にあしらっている。
ただ引っかかるのは、それだけ常識的であったわりには、少年の主張をみな簡単に受け入れてしまっている点だ。少年がちらつかせる記憶や“象徴”に幻惑されていく妻アナはまだいいとして、他の登場人物による検証が全般に甘い。無論、大半の人物は少年が夫ショーンの生まれ変わりであることに否定的なのだが、通常あそこまで妄想じみたことを言い出す人間、しかも子供を、人は否定するより受け流すものだろう。あの描き方では、早い段階で少年の物云いが“本気”である、或いは“その可能性がある”と捉えてしまっているように感じられる。また、そう感じられるほどに人々の発言や意識があまり描かれていないために、ドラマとしてはいささか重厚感に欠ける印象を齎すことも指摘しておきたい。
だが、そのぶん表現に対するこだわりと、個々の場面の冴えが強烈だ。まず冒頭からして、夫の死に至るジョギングの風景を背後から淡々と追う。その静けさと濃密な死の匂いに、まず圧倒される。間もなく10年後に話が及ぶと、ようやく心の傷の癒えたアナの婚約披露パーティの幸福ながらもしみじみとした様子と、その背後で進行する奇妙な出来事を、繊細かつ謎めいた筆捌きで描く。このあたりの描写が後半できちんと活きてくるあたり、感情的な丁寧さを理詰めの構成で巧みに補っていると言えよう。
また映像の組み立てがシンプルながら美しい。アナに突き放され、立ち去られたときに失神する少年ショーンの姿と、直後に彼の言葉が真実だったのでは、という思いに囚われて、コンサート・ホールにいながら演奏に気持ちが集中できないアナを延々とアップで映し続けるさま。音声にも配慮した空間作りは終始、作品に詩を思わせる知的なセンスと美術的な雰囲気を齎している。
何より本編に、描写の緩さを補ってあまりある深みを齎しているのは、観終わっても観客が受け止める結論が決して一様にならないように仕組まれている点だ。観客の物の考え方や主義主張によって、最初に見出す結論はわりと絞られてくるが、しかし検証すればするほど、それが真実なのか疑わしい材料が出て来てしまう。話としてはいちおうの決着を見ているが、それが登場人物の語る通りなのか、更に深い意図が隠されているのではないか――幾らでも勘ぐれるのだ。
この表現の奥行きに貢献が最も大きいのは、夫の生まれ変わりかも知れない少年ショーンを演じたキャメロン・ブライトであることは間違いない。観ていて果たして本当に彼は夫ショーンの転生した姿なのか、或いはそういう妄想を抱いているのか、意図的に虚言を弄しているのか、判断のつかない絶妙なバランスを見事に保ったまま最後まで貫いている。時として異様に大人びた口振りをし、他方ではやたらと子供っぽく脆い言動が垣間見える、その両者の調和が実に見事だ。彼に惑わされ、困惑の淵に陥り、やがては意を固めていくニコール・キッドマンの切なくも純粋な想いを体現する様も秀逸だったが、それすらキャメロン・ブライトあってのことだ。
人間心理を描きこんだドラマとしてはやや食い足りない。過程の描き込みが弱く、表現に執着したあおりで流れがぎこちなくなっており、少々退屈な印象も齎している。しかし表現そのものの奥行きと手応えは、映画好きの琴線をかなり確実に響かせるはずだ。
特に秀逸であるのはラストの数シーンである。最後にショーンがたったいちどだけ見せる笑顔と、アナの吐息の音から波の打ち寄せる音へと移行していくラストシーン。作中の出来事をどう解釈するかによってまったく印象の変わるこの2シーンが、そのまま本編を象徴していると言えよう。
この『記憶の棘』は、観客の心にも突き刺さって、いつまでも戸惑いと痛みとを齎し続ける。圧倒的な傑作ではないが、観たあとで確実に心に変容を齎す、忘れがたい作品である。(2006/09/28)