/ 『レディ・イン・ザ・ウォーター』
『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻るレディ・イン・ザ・ウォーター
原題:“Lady in the Water” / 監督・脚本・製作・出演:M.ナイト・シャマラン / 製作:サム・マーサー / 撮影監督:クリストファー・ドイル,H.K.S.C. / 美術:マーティン・チャイルズ / 編集:バーバラ・タリバー,A.C.E. / 衣装:ベッツィー・ハイマン / 音楽:ジェイムズ・ニュートン・ハワード / 出演:ポール・ジアマッティ、ブライス・ダラス・ハワード、ジェフリー・ライト、ボブ・バラバン、サリータ・チョウダリー、シンディー・チャン、フレディー・ロドリゲス、ビル・アーウィン、メアリー・ベス・ハート、ノア・グレイ・キャビー、ジョセフ・D・ライトマン、ジャレッド・ハリス、グラント・モノホン、ジョン・ボイド、イーサン・コーン / 配給:Warner Bros.
2006年アメリカ作品 / 上映時間:1時間50分 / 日本語字幕:古田由紀子
2006年09月30日日本公開
公式サイト : http://www.lady-in-the-water.jp/
TOHOシネマズ六本木ヒルズにて初見(2006/10/20)[粗筋]
フィラデルフィアにある、五階建ての古ぼけたコープ・アパートメント。ここの管理人として静かに暮らしているクリーブランド・ヒープ(ポール・ジアマッティ)は、最近アパートの中央部分にあるプールに、規則を破って夜7時以降に泳ぐ者がいることを気にかけていた。
ある晩、離れにいたクリーブランドは、プールのほうで物音を耳にして様子を観に訪れる。一瞬水面から目を離したとき、プールサイドの椅子に置かれていた物を持ち去った何者かの気配を察して、彼は着衣のまま水中を捜すが、肝心の“犯人”は見つからない。いったん諦めて出た彼は、だが濡れた足許を滑らせて気絶、そのままプールに転落してしまった。
目覚めたとき、クリーブランドは自分の部屋にいた。片隅には、彼のシャツを着て膝を抱える少女の姿がある。ストーリー(ブライス・ダラス・ハワード)と名乗ったその少女は、夜毎にプールに出没していたことを認めたものの、その理由ははっきりと口にしなかった――ただ、自らを“ナーフ”だと説明する。
クリーブランドは、よく本を借りている韓国人女子大生のチェ・ヨンスン(シンディー・チャン)に“ナーフ”というものについて質問する。詳しかったのは彼女ではなく、母親のチェ夫人のほうだった。“ナーフ”とはいわゆる水の精であり、かつて人間の世界と近しい水の国にいたが、いつしか離れていった――詰まるところ、お伽噺の世界の住人である。いまでは彼らは、何らかの啓示を齎すときにだけ、人間の世界に姿を現すのだという。馬鹿げている、と考えながらも、クリーブランドは何故かストーリーが本当にその“ナーフ”である、という直感があった。何故なら、彼女の傍にいるときだけ、クリーブランドの吃音が治るのだ。
“ナーフ”が無事に帰るためには、伝えねばならない宿命を持つ“うつわ”を捜すことが必要だという。だが、その使命を果たそうとする水の精は、地上に隠れ棲む天敵“スクラント”によって常に命を脅かされている。事実、クリーブランドが出逢ったときの彼女も、躰に傷を負っていた。しかし使命を無事に果たせば、もう襲われる危険はなくなり、1羽のワシが彼女を水の世界へと連れ戻してくれるのだという。
“うつわ”はアパートの住人のなかにいる。ストーリーの示した条件から、クリーブランドはひとりの人物に絞り込み、ストーリーに逢わせる。選んだ相手までは正しかった――だが、それでも“スクラント”の攻撃は止まず、ストーリーは帰る時機を逸してしまう。残る機会はあといちど――クリーブランドは、他の住人たちのなかにいるという、ストーリーの使命を手助けする人々を探し始める……[感想]
現在、ハリウッドにて活動する映画監督のなかで、恐らく最も作家性の高いなかのひとりがこのM.ナイト・シャマランである。『シックス・センス』でいきなり大ヒットを飛ばして以降、評価の差はあれど、独特の美学を感じさせる映像とカメラワーク、常に何らかのサプライズを用意するシナリオによって、独自の地位とファンとを獲得している。
『シックス・センス』から数えて4作目となる本編は、予告では新機軸を謳っているように聞こえたが、実際に観てみた印象は――寧ろ、これ以上ないほどシャマラン監督らしさの横溢した作品である。
相変わらずヴィジュアルの完成度は素晴らしい。題名通り、水の雰囲気をよく再現した艶やかな映像には穏やかな優しさがあり、距離や角度を活かしたカメラワークは緊迫感と心地好さとを巧みに切り替えて物語に緩急を添えている。
シャマラン監督の作品はおしなべて、キャラクターの個性が極端な形で際立っている傾向にあるが、本編でもその特色は変わらない。作品の性格上、これまでになく多くの人物が絡んでいるが、ひとり残らずキャラが立っている。そのまま物語に奉仕する設定もあれば、どんな意図があったのか不明瞭なまま残されるものもあり、過剰な印象も否めないが、だからこそ本編は特にシャマラン監督らしさが横溢していると感じられる。
もし旧作の先入観から驚きが少ない、と感じるようなら、それはたぶん監督作品のある傾向にのみ偏った作品ばかりを拾っているのだろう。本編は監督の、サプライズとは異なる別の資質によって支えられた物語だ。既に『シックス・センス』の時点から微かな萌芽を見せていたそれは、ある作品によって極地に達していたが、本編はその方向性をより深める意図で作られていたと感じる。終盤にどんでん返しらしきものこそ用意されているが、それは伏線そのものよりも観客の思い込みを利用しているために、多くの観客が期待するものとは異なる。もし拍子抜けの印象を受けたのなら、原因はそのあたりにこそあるのだろう。
本編の脚本の狙いは寧ろ、そうした“どんでん返し”が“どんでん返し”たる所以、つまり観客の思い込み、もうちょっときつい表現をすれば、思い上がり自体を利用し、揶揄し、射抜くところにある、と感じられた。そもそも、お伽噺に出てくる役割を登場人物に当て嵌めて展開を先取りしていく、という趣向はまるっきりフィクションとその鑑賞者という関係を象徴している。お伽噺をモチーフとした構造や、鏤められた伏線が醸成する感動、そうした部分の更に向こう側にある、シニカルな意図や諷刺性に目を向けて鑑賞すると、興味深く鑑賞できるはずだ。
至極冷静に評すれば、オリジナルの発想に基づいているというお伽噺の作りに無理があり、全般に話のために作ったような御都合主義の感が蔓延してしまっている点において、脚本の出来においては問題がある。ただ、そのある意味狙いの定まった脚本の裏表双方にある意図は興味深く、また個性のよく出た細かな表現には見応えがある。『シックス・センス』以降の作品群をいずれも何らかの意味合いで楽しむことが出来たという人、或いは何かしらこだわりと信念を感じさせる映画が好き、という方にはお薦めできる。
但し――シャマラン作品特有の“体臭”というものがこれまでになく濃密な作品、と言うことが出来るだけに、旧作にどこかしら強い嫌悪感を覚えたような方にはちとお薦めしづらいのも事実だ。翻って、だからこそシャマラン監督の作家性に惚れ込んでいる、興味を抱いている人であれば確実に楽しめること請け合いなのだけど。(2006/10/23)