cinema / 『リバティーン』

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リバティーン
原題:“The Libertine” / 監督:ローレンス・ダンモア / 脚本・原作戯曲:スティーヴン・ジェフリーズ / 製作:リアーヌ・ハルフォン、ジョン・マルコヴィッチ、ラッセル・スミス / 製作総指揮:チェス・ベイリー、スティーヴ・クリスチャン、マーク・サミュエルソン、ピーター・サミュエルソン、ラルフ・カンプ、ルイーズ・グッドシル / 撮影監督:アレクサンダー・メルマン / 美術:ベン・ヴァン・オズ / 編集:ジル・ビルコック,A.S.E.,A.C.E. / 衣装:ディン・ヴァン・ストラーレン / ヘア&メーキャップ・デザイン:ピーター・オーウェン / 音楽:マイケル・ナイマン / 出演:ジョニー・デップ、サマンサ・モートン、ジョン・マルコヴィッチ、ロザムンド・パイク、トム・ホランダー、ジョニー・ヴェガス、ケリー・ライリー、ルパート・フレンド、ジャック・ダヴェンポート、リチャード・コイル、フランチェスカ・アニス / 配給:media suits
2005年イギリス作品 / 上映時間:1時間50分 / 字幕翻訳:佐藤恵子 / 字幕監修:青井陽治
2006年04月08日日本公開
公式サイト : http://www.libertine.jp/
新宿テアトルタイムズスクエアにて初見(2006/04/08)

[粗筋]
 17世紀のイギリスは、チャールズ二世(ジョン・マルコヴィッチ)の治世のもと、急速に科学技術が発達し、また芸術が励行され文化的に大幅な発展を遂げたが、同時に退廃が進み悪徳が蔓延り、性に対する意識が極端に開かれていった時代でもあった。チャールズ二世はその親しみやすい人柄と開放的な政策から人気は高かったが、同時に慢性的な財政難に喘ぎ、ドイツやフランスとの関係維持に日頃から悩まされてもいた。
 そんな退廃の最も蔓延する都・ロンドンに、ひとりの男が三ヶ月ぶりに帰還した。第二代ロチェスター伯爵、ジョン・ウィルモット(ジョニー・デップ)である。才能に優れた詩人であったが、宮廷にて国王に急遽詩を読んで欲しい、と言われた場で、猥褻な言葉による政策批判とも言える内容を謳ったために追放されていた彼だったが、恩赦によって呼び戻されたのである。
 行きつけのバーで友人たちに追放に至る経緯を武勇伝として披露したあと早速、ジョンは彼にとって最も尊ぶべき道楽である観劇に赴く。やはり観劇に訪れた国王に、長年の友情からそろそろ威厳を示せ、と諭されながらも、劇場に辿り着くまでのあいだに、主君の懐から小銭をくすねて殺されかかっていた男オールコック(リチャード・コイル)を気紛れに雇ったり、舞台裏では馴染みの娼婦ジェーン(ケリー・ライリー)と戯れたり、とジョンの態度は変わらない。
 やがて舞台の幕が上がると、ひとりの女がジョンの目を惹いた。消え入るような声で台詞を喋り、抑揚も不充分なその女は観客の顰蹙を買い、さんざん物を投げつけられた挙句に袖に退いたが、ジョンは彼女の演技に才能の片鱗を感じ、芝居がはねたあと、座長から即日解雇を言い渡されたその女を一座に留めるよう進言する。
 その女――エリザベス・バリー(サマンサ・モートン)は決して優れた美貌の持ち主ではなかったが、ジョンに通じる反骨精神を備えていた。その当時の常識として、躰を開くことを望んでいると解釈したエリザベス・バリーだったが、ジョンが申し出たのは、自ら演技指導をすることだった。
 マンツーマンによる演技指導の結果、エリザベス・バリーは目覚ましく成長した。ジョンの肝煎りで行われた公演で彼女が演じた『ハムレット』のオフィーリアは観客の絶賛を浴びる。最初の公演では誰ひとり見向きもしなかった彼女のもとに、貴族たちが色目を使い始めたが、エリザベスが待っていたのはただひとり、ジョンだった。だが、ジョンは芝居がはねるなりさっさと引き上げてしまった、という――エリザベスは失意のまま、ひとり家路に就く。
 エリザベスに対しても妻(ロザムンド・パイク)に対しても等しく愛情を抱きながら、天の邪鬼な本質が邪魔をして率直に示すことも出来ず、また昔からの放蕩ぶりも相変わらず収まるところを知らないジョンの身辺はかつてないほど荒廃していく。そんな彼の才能を誰よりも認める国王は、財政維持の鍵を握るフランス大使を接待するための演劇を、ジョン・ウィルモットに一任した。奮起したジョンは、文字通り渾身の作品を用意する――

[感想]
 まさしく、ジョニー・デップのためにある作品、という趣である。
 とは言うものの、決して「彼のために」書かれた作品ではなかった。1994年にイギリスで上演された舞台が原作であり、アメリカで上演された際に主人公ジョン・ウィルモットを演じたジョン・マルコヴィッチが映画化を提案したものだという。
 だが、それでも本編のジョン・ウィルモットという役柄は、ジョニー・デップのために誂えたような赴きさえある。自他共に認める豊かな才能の持ち主でありながら、生来の反逆児であり、酒色に耽って素面でいることを避け、愛されることを厭い自ら望んで人間関係を破綻させていく――あり得ないほど破滅的な生き様であるが、その姿は自然で途方もなく魅力的だ。およそこういう人物像を厭味もくどさもなく、自然体に近く演じられるのは、少なくともスクリーンのなかにおいてはジョニー・デップをおいて他にいるまい。
 話の構造にはあまり纏まりがない。いっそ破綻している、と言ってもいい。妻とのあいだに生じる溝と執着心のバランス、彼が発掘した格好となった新人女優エリザベス・バリーとの信頼関係と比例するように高まりながら敢えてその愛情に目を背けようとする態度、また国王に信頼され、自らも親愛の情を抱きながら生来の反骨精神ゆえに期待に背くような行為に出てしまうさま、そうした幾筋もの軸が無秩序に現れては消えていき、ひと筋に収束することはない。ために、物語として作品を追いかけようとすると観客はしばし困惑させられるだろう。
 しかしそのプロットとしての破綻ぶりが、却ってジョン・ウィルモットという人間の虚無的で崩壊した人生観を生々しく感じさせる。なまじ筋道が通っていては作りものじみてしまうところを、実際にロチェスター伯爵が辿ってきた人生を過剰に弄ることなく点綴することによって、虚構では削られがちな人生観の歪さ、微妙な統一感の乏しさを描き出している。
 そうした作品の雰囲気作りに貢献しているのが、歴史ドラマとしては珍しいカメラワークである。通常こうした作品はセット・デザインやエキストラの衣裳にも工夫を凝らしているためか、ロングショットやレールを用いたカメラの移動で全体を映すことが多いのだが、本編はハンディ・カメラを用いたり、焦点を頻繁に動かすといった技巧を用いており、映像の印象からして少し趣が違う。ジョンと妻が静かに言い争う場面では、手前にいるジョンと後方にいる妻と、話し手が変わるたびに焦点を切り替えるということを繰り返し、終盤の見せ場である演説のシーンではカメラを自在に動かし彼の動きを追いながらしばしば焦点をずらし、一種の臨場感のような空気を構築している。コスチューム・ドラマにありがちな、よく作られた舞台を見せられているような感覚とは一線を画し、登場人物の間近にいるような錯覚を起こさせる表現手法を選択しているのである。完全に成功している、とまでは言わないが、その意欲的な試みに好感を抱かずにいられない。
 そうして極めて近い視点から見せるジョン・ウィルモットの破天荒さと無軌道さは、確かにプロローグで“彼自ら”が語るようにやもすると嫌悪感を呼び起こす。しかし、同時に強烈な存在感と、抵抗しがたい魅力をも見事に描き出している。まさに、ジョン・ウィルモットという人物を表現するためにすべてを費やした作品と言っていい。このキャラクターに、当代随一の役者的な存在感を放ち、またメイン・ストリートに安易に与することを潔しとしないジョニー・デップを配したことで本編は八割方成功を約束されていた、とさえ言えるだろう。
 ゆえにほぼジョニー・デップの独壇場だが、しかしジョンに見出され開花した女優を演じたサマンサ・モートン、彼の才能と曲げようのない本質を理解しながらも最後までその愛を渇望する妻を演じたロザムンド・パイク、悪人を自覚ししばしば主を(彼が望んだ通りに)蔑ろにしながらも結局終生仕える従者を演じたリチャード・コイル、自由な気風を国土に広めながらもロチェスター伯爵の扱いに苦しみ外交に頭を悩ませる国王チャールズ二世を演じたジョン・マルコヴィッチなど、脇役も優れた役者、味わいのある演技で巧みに固めている。とりわけ、作中作とも言える舞台上の演技で多様な台詞の使い分けを披露し、女優の成長を短時間で表現したサマンサ・モートンの印象が強烈だ。
 しかしそうした脇役も結局のところ、ジョン・ウィルモットという男の嫌悪感を催させながらも近くにいる者を惹きつけずにおかない奇怪な魅力を表現するために費やされている。
 ジョン・ウィルモットという男の本質を何だかんだと言ってよく理解していたのは、恐らく国王であろう。彼に名を上げるための舞台を与えながら裏切られ、逃げるようにロンドンを離れたジョンを発見した国王が彼に与えた“罰”が、ジョンの痛いところを最も鋭く射抜いている。反骨精神を貫きあらゆる者から嫌悪される道を選んだ男だが、しかし望んでいたものは結局のところ、全世界の関心を集め、注目されることだったのではないか――まさしくそのために必要な才能を備えた彼だからこそ、国王の与えた罰はささやかだが有効だった。
 ジョンが最後まで追い求めたものは、プロローグとして設けられた前口上と、それに対比する形で置かれた別れの口上とによって、より如実に示されている。昏い情熱と触れた箇所から凍ってしまいそうな虚ろさとが、これらの口上を通じて切々と胸に響いてくる。
 如何せん主人公も表現しようとしている内容も癖が強い。そのうえ作中には舞台の大道具として巨大なディルドーが登場したり、ジョンが手すさびに猥褻なイラストを描く場面があり、何より彼の綴る詩が既に淫靡だ。ロチェスター伯爵の人間性以前にそうした特徴ゆえに万人にはお勧めしづらいが、詩的でありながら挑発的な本編、観る人によっては凄まじいまでの衝撃を受けることだろう。傑作と呼ぶには躊躇いがあっても、問題作と呼ぶのにこれほど相応しい作品もそうはない。

(2006/04/10)


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