cinema / 『マラソン』

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マラソン
監督:チョン・ユンチョル / 脚本:ユン・ジノ、ソン・イェジン、チョン・ユンチョル / 撮影:クォン・ヒョクジュン / 照明:イ・ジェヒョク / 美術:イ・グナ / CG:パク・ヨンジュン / 編集:ハム・ソンウォン、ナム・インジュ / 音楽:キム・ジュンソン / 出演:チョ・スンウ、キム・ミスク、イ・ギヨン、ペク・ソンヒョン、アン・ネサン / ショウ・ボックス&メディアプレックス提供 / シネ・ライン・ツー製作 / 配給:cinequanon+松竹
2005年韓国作品 / 上映時間:1時間57分 / 日本語字幕:根本理恵
2005年07月02日日本公開
公式サイト : http://www.marathon-movie.com/
シネカノン有楽町にて初見(2005/08/20)

[粗筋]
 ユン・チョウォン(チョ・スンウ)は10キロマラソンで総合三位という輝かしい成績を収めた。自閉症という障害を思えば、この記録は驚異的ですらある――だが、母(キム・ミスク)はそれ以上を望んだ。チョウォンの取材にやってきた雑誌記者から、彼の成績ならアマチュア・マラソンランナーの夢である、フルマラソンを三時間以内で走破することを目標とする“サブスリー”への挑戦も可能だと聞かされ、母の心は動いた。
 そんな折、チョウォンが通う福祉施設に、ソン・チョンウク(イ・ギヨン)がやって来た。かつてはボストン・マラソンで優勝するほどの名アスリートだったが、引退後は身を持ち崩し、さきごろ犯した飲酒運転の罰として200時間の社会奉仕を命じられたのである。母は施設側と交渉し、ソンに対して報償を支払い、かつ指導に費やした時間も社会奉仕に含めるという条件で、チョウォンにマラソンを教えて欲しい、と頼み込む。
 いちおうは引き受けたソンだったが、ろくに意思の疎通も出来ない教え子相手に情熱を燃え立たせることもなく、甚だ適当な指示しか出さなかった。すぐに他人の影響を受けるチョウォンの態度から、ソンの指導のいい加減さを察して後悔する母だったが、指導をソンに委ね、その場に立ち会わないと約束してしまった以上、手を束ねて眺めているしかなかった。
 言われるがままグラウンドを走り回りながら、そんなソンにチョウォンもすぐに心を開こうとはしない。だが、毎日時間を共にしているうちに、ソンはチョウォンの純粋さに気づき、少しずつ彼を理解していき、本気で指導をはじめる気になった。決定打となったのは、何気なくチョウォンを伴ってサウナを訪れたときのことである。飲み過ぎたアルコールを抜くためにもう少し時間が欲しいと、チョウォンに「100周走れ」と適当な指示をしたあと、自分は寝入ってしまった。夕方近くなってグラウンドを訪れると、疲労のために足をふらつかせながら走り続けるチョウォンの姿がある。慌てて止めに入ったソンを退けて、チョウォンは「あと一周」と言い――本当に走りきってしまった。翌日、休んでいるチョウォンについて施設の教員に訊ねると、マラソンを通して少なくとも彼は忍耐強くなった、という。辛いことがあるとすぐに手を噛む癖がすっかり治まったので、余計に母はマラソンに対して執着しているのだろう、と教員は語る。
 ソンはチョウォンをマラソンのサークルに紹介し、本格的な指導を試みた。自分で考えながらペース配分することの出来ない彼には、少しずつ教え込んでいく必要がある。自転車で併走し、或いはその手を取って一緒に走りながら、ソンはチョウォンの好きなアフリカの野生動物になぞらえてペース配分を指導する。最速のチーターは長い距離を走れない、ゆっくりと走って初めて長距離を制覇することが出来る――夕暮れまで走り、叢に倒れ込んだソンに、チョウォンは自分の持っていた水を初めて“コーチ”に手渡した。
 そうしてようやく打ち解けたふたりだったが、一方の母は、競馬場に連れて行ってビールを飲ませたり、といったソンのあまりに気ままに映る指導方針に不信を募らせていた。社会奉仕の期間は終了したが、以降も無償で指導を続けたい、と申し出るソンを母は拒絶する。しかしソンはそんな母の言動に反感を抱いた。彼女はチョウォンを、ひとりで生きていくことなど出来ないと思いこもうとしているのではないか。彼が手を離さないのではなく、あなたが手を離したくないのではないか――?
 ソンの指導を断り、ふたたび自分の手でチョウォンのトレーニングを管理しはじめた母だったが、しかしその態度はどこか虚ろだった――彼女自身気づいていたのだろう、ソンの言葉が図星を衝いていたことを。息子の手を離したくないがあまり、犠牲にしてきた様々なことが、それから堰を切ったように彼女の前に災難として降りかかってくる……

[感想]
 まずこの作品で感心したのは、自閉症というものについてよく研究を重ねている点だ。それも、自閉症を抱える本人ではなく、その家族の姿が実にうまく描かれている。
 粗筋では反映するタイミングを逸してしまったが、母がチョウォンに入れ込むあまり、この一家は半ば崩壊の危機に瀕している。父(アン・ネサン)は仕事にかこつけて家を出たままあまり戻ることがなく、チョウォンの弟ジュンウォン(ペク・ソンヒョン)は兄にばかり構う母親を横目に好き勝手な行動を取っている。そして誰よりも生々しいのは、母のチョウォンに対する依存ぶりだ。世間には間違いなく自閉症に対する偏見があり、周囲の人間の庇護がある程度は必要となる。だが、彼女のそれはあまりに行きすぎて、完全に目的が転倒している。まさにソンが指摘したとおり、もはやチョウォンが母親なしで生きられないのではなく、母がチョウォンに依拠して生きている。
 こうしたことは決して珍しい状況ではない。我が子を世間の迫害から守ろうとするあまり、過剰な行動に出てしまう母親は多いのだ。母親は雑誌記者の「将来の希望は?」という質問にこういう答を返している。「希望は、息子が自分より一日早く死ぬこと」ここだけ抜くと残酷なようだが、しかしこういう覚悟は、周辺の介護が必要な子供を持つ親がよく抱く感慨なのである。きちんと取材が行き届いているからこそ、出てくる台詞だろう。
 ただ、本編はそうした繊細なリサーチを、大仰に振り翳すような描き方をしていない。あくまでドラマの裏付けとして使用している。それがよく解るのは、冒頭から張り巡らされた、ドラマとしての盛り上がりに奉仕する伏線の数々だ。アフリカの野生動物が好きで、その詳細についてよく記憶しているというチョウォンの行動は終盤近くまで繰り返し物語の展開のきっかけとなっているし、冒頭の短くも印象深い幼少時代の描写は作品の随所でエコーのように呼び出され、観る側の気持ちを揺さぶるように丁寧な計算が施されている。とりわけ動物園での一幕の扱いは、編集の巧みさもあってシンプルながらかなり効果的だ。
 そうした感動を呼び起こす演出を巧みに振り分ける一方で、爽やかなユーモアも忘れていないのが本編の美点である。それも、韓国映画にありがちな、やたらと笑いを引っ張ろうとするあまりダラダラとした展開になったり、品性を損なったりするものではない。いちばん笑いを誘うのはソンの指導が始まった最初の頃の描写だが、いずれも(ソンのキャラクターがキャラクターだけに)やもすると品性のない代物になりがちだが、それをいずれも軽く処理することで品性を留めており、製作者のバランス感覚の確かさを窺わせる。
 そして、そうして訪れるクライマックスの組み立てが実に美しい――終盤で用いられるイメージシーンに対して、いささかくどいと感じる向きもあるだろうが、あれもまた更に詰め込もうと思えば出来るところを巧いところで踏み止まっており、寧ろ理想的な配分だろう。過去のシーンとの呼応も印象的だ――とりわけ、イメージシーンに繋がっていく場面は、結末までまだ間があるにも拘わらず、涙腺の緩い人なら号泣しかねない。実際、劇場ですすり上げる声が聞こえてきたのはこのあたりからだった。
 場面によって視点人物が入れ替わり、特定の人間に感情移入しにくい、という点がいささか弱いとも感じるが、一方で観ているほとんどの人間が、チョウォンに構い過ぎる母にも、それに愛憎半ばする感情を抱く弟にも、居たたまれずに家に居つかなくなった父にも、やがてチョウォンを理解し母を批判したコーチにも――そして、クライマックスにおけるチョウォンの行動にも、等しく共感を覚えるはずだ。とりわけ、チョウォンの豊かな感受性をそのまま反映するかのような終盤の描写を通してすべてが結びつくさまは、静かで深い感動を呼ぶ。何より、この物語には文化の違いをほとんど意識させない普遍性があり、それが自然に心を揺さぶるのだ。
 ラストで見せるチョウォンの笑顔がいつまでも脳裏に焼きついて離れない、爽やかな傑作である。――人が言っていることを繰り返すのは癪だが、ただ流行の“韓流”という枠に嵌めて語るには惜しすぎる。

(2005/08/20)


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