cinema / 『MAY―メイ―』

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MAY―メイ―
原題:“May” / 監督・脚本:ラッキー・マッキー / 製作:マリアス・パルチュナス、スコット・スタージョン / 撮影:スティーヴ・イェドリン / プロダクション・デザイナー:レズリー・キール / 音楽:ジェイ・バーンズ・ラケット / 出演:アンジェラ・ベティス、ジェレミー・シスト、アンナ・ファリス、ジェームズ・デュヴァル / 配給:Art Port
2002年アメリカ作品 / 上映時間:1時間34分 / 日本版字幕:永峯涼子
2004年04月24日日本公開
2004年09月24日DVD日本版発売 [amazon]
公式サイト : http://www.maythemovie.jp/
シアター・イメージフォーラムにて初見(2004/04/24)

[粗筋]
 メイ(アンジェラ・ベティス)には友達がいない。小さい頃は、斜視を矯正するためにかけていた眼帯のせいで仲間はずれの目に遭い、ほかの子供達に接近することも出来なかった。少し成長したメイに、母は自分が小さい頃に作った人形を友達代わりにプレゼントした。ガラスのケースに収められたその人形に、メイはスージーという名前を付けて、ことあるごとに語りかけた。
 長じて、ひとり暮らしをするようになっても、メイに友達らしい友達はいなかった。動物病院で働きはじめ、先生の特徴的な言葉遣いを理解できて、凄惨な状況にも物怖じしないメイは重宝された。受付係のポリー(アンナ・ファリス)ともそれなりに親しく話は出来るようになったけれど、相変わらず腹を割って話せる友達は“彼女”だけだった。当然、恋人が出来た試しもない。
 そんなメイが、職場の近所にある修理工場で働くアダム(ジェレミー・シスト)という青年に恋心を抱いた。気遣いに満ちた言動と繊細な内面を顕すような表情と、何より綺麗な手に一目惚れしたメイは、どうにか彼と接点を持とうと懸命の努力をする――と言っても、昼食を摂りに出かけるアダムと交差点で偶然を装ってすれ違ったり、休日に彼のあとを追うくらいが精一杯だったけれど。
 喫茶店で雑誌に目を通していたアダムは、いつしかそのまま眠り込んでいた。何気なく彼に近づいていったメイは発作的に、掲げられていたアダムの手に頬ずりしてしまう。途端にアダムが目を醒まして、焦ったメイはその場から逃げ出した。
 後日、コインランドリーで再会したアダムは、メイに気さくに話しかけてきた。それをきっかけに、メイはアダムと少しずつ親しくなっていった。アダムの趣味はグロテスクなアクセサリーを集めたり、スプラッタ・ホラーを見たり作ったりすることで、本人はちょっと気にしているようだったけれど、メイにはまったく問題じゃない。彼もまんざらの様子ではなく、有頂天になるメイだったが……

[感想]
 ホラーであることは間違いない。が、こういう手触りと、こんな不思議な余韻を齎すホラーはちょっと珍しいのではなかろうか。
 冒頭、一瞬だけ不気味な映像が差し挟まれる以外は、さほど強烈な場面はない。斜視の治療のために子供の頃から健康な目に眼帯をつけさせる、というのはどうやら一般的なことらしいし(成長してからコンタクトレンズをしているのも同様)、その結果いじめられて友達が出来ず、内向的な子供に成長する、というのも状況としては有り体だ。そんな子供を慰めるために、親が小さい頃に作ったという人形を“友達”としてあてがう、というのも、育て方としては少々間違っているが、不思議なことではない。
 だが、この人形が登場したあたりから物語は不気味な影に覆われ始める。成長して獣医となったメイは、幼少時の内向的な言動と、ややデザインのマニアックな裁縫を趣味としている以外は、それなりに社会に適応した生活を送っている。だが、自宅に帰り、スージーと名付けた人形に向かって語りかける場面だけが異様な不気味さを帯びている。またこの人形のデザインが、およそ女の子が小さな頃から愛玩していたものにしてはデザインが薄気味悪い。頬がこけて目は異様に大きく髪は波打って黒く、服もまた黒一色。それがカラスケースに収まっており、直接触れられない――表面的には、少々陰気ながらもどこにでもいそうな女の子の日常を描いているのだが、この人形が後半の悪夢を見事に予見させている。スージーの扱いの巧さが、製作者のホラーに対する造詣をまず窺わせるのだ。
 物語としての焦点は、後半においてヒロイン・メイが実現に移す醜悪な行動に至るまでの心理的変遷にある。序盤から“スージー”を中心に不気味な象徴を鏤め、中盤から少しずつ回収し、終盤で怒濤の如く悪夢の出来事に結集させる。かなり異常な成り行きを描いており、醜悪さは感じさせても不自然さは一向に感じさせないのは、メイという女の子が経験する出来事と、のちに移す行動とのあいだがちゃんと関連づけられており、両者を繋ぐメイの心理が実に無理なく描かれているからだ。メイを取り巻く環境は変わっているけれど、先に説明したとおり、決して飛び抜けて特異な訳ではない。こういう状況もありうるよな、と思わせながら、自然に狂気へと導いていく手捌きが非常に巧い。人によっては彼女に感情移入してしまっても不思議ではないだろう。
 クライマックスでのメイの行動は無茶苦茶で、このくだりこそが本編をホラーたらしめている訳だが――不気味とか怖いとか感じるのと同時に、見ていて妙な切なさを覚えたことも書き添えておきたい。切ない、というより痛ましいと言うべきか。
 もしかしたらごく普通の、繊細な女の子になっていたかも知れない少女の“悪夢”であり、あまりに切ない“悲劇”。狂気の頂点とも言えるラストシーンに何故か慰めをも見出させてしまう、本当に奇妙なホラーである。いわゆる“ゴスロリ”というファッションスタイルを導入し、フェティシズムの極北を体現した物語として鑑賞するのもまた一興。

 作中、アダム青年はメイに初めて誘われたとき、用事があるからそのあとで、と断っている。そのときの用事というのが――映画『トラウマ』を観に行く、というもの。
 この段階でなんとなく予感はあった。だが、確信に変わったのは本編の観賞後、パンフレットにある監督の次回作を紹介する一文を読んだときである。
「次回作は、1965年の森に囲まれたある私立女子校を舞台に不可思議な事件が起こるミステリー・ホラー『The Woods』」
 この人、間違いなくダリオ・アルジェント監督のファンだ。どこの配給会社でも構いませんこの次回作が完成次第日本に持ってきてください意地でも観ます観ずにおくかちくしょお。

(2004/04/26・2004/09/22追記)


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