cinema / 『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』

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メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬
原題:“The Three Burials of MELQUIADES ESTRADA” / 監督:トミー・リー・ジョーンズ / 脚本:ギジェルモ・アリアガ / 製作:マイケル・フィッツジェラルド、リュック・ベッソン、ピエランジュ・ル・ポギャム、トミー・リー・ジョーンズ / 撮影監督:クリス・メンゲス / プロダクション・デザイナー:メリディス・ボズウェル / 編集:ロベルト・シルヴィ / 衣装デザイン:キャスリーン・キアッタ / 音楽:マルコ・ベルトラミ / 出演:トミー・リー・ジョーンズ、バリー・ペッパー、ドワイト・ヨーカム、ジャニュアリー・ジョーンズ、メリッサ・レオ、フリオ・セサール・セディージョ、ヴァネッサ・バウチェ、レヴォン・ヘルム / ヨーロッパ・コープ=ハヴェリナ・フィルム製作 / 配給:Asmik Ace
2005年アメリカ・フランス合作 / 上映時間:2時間2分 / 日本語字幕:松浦美奈
2006年03月11日日本公開
公式サイト : http://3maisou.com/
恵比寿ガーデンシネマにて初見(2006/03/30)

[粗筋]
 メキシコとの国境に面したテキサス州。日々アメリカへと越境してくる不法入国者に国境警備隊が目を光らせるこの街の原野で、メルキアデス・エストラーダ(フリオ・セサール・セディージョ)は屍体となって発見された。230メートル近い距離から射殺され、絶命までに15分ほどを費やしたと推測される――
 メルキアデスはメキシコからの不法入国者であった。それ故に事件を担当した保安官ベルモント(ドワイト・ヨーカム)も熱意に乏しく、現場検証も犯人捜しも、埋葬までが大雑把に処理されてしまった。
 カウボーイとして生計を立てていたメルキアデスは、英語こそ話せなかったものの、スペイン語に堪能な同業者ピート・パーキンズ(トミー・リー・ジョーンズ)に心を開き、友情を培っていた。かつてメルキアデスから、「自分が死んだらメキシコにある自分の故郷ヒメネスに葬ってくれ」と頼まれていたピートは、遺体の確認に保安官事務所を訪れたときから、解剖の終わった遺体を手渡してもらうようベルモントに頼む。だが、約束は無視され勝手に埋葬され、捜査にもまるで熱意の籠もっていない現状に、ピートは苛立ちを隠さなかった。
 そんなピートに、食堂で夫と働きながら不特定多数の男達と公平な肉体関係を持つ女・レイチェル(メリッサ・レオ)が思いもかけない事実を知らせてくる――警察は既に犯人を特定しているというのだ。メルキアデスを射殺したのは、国境警備隊に最近赴任してきたマイク・ノートン(バリー・ペッパー)という男。職務中、誤解から撃ち合いとなり誤って射殺してしまったらしい、と国境警備隊の男は説明し、大事にしないで欲しい、という頼みをベルモントは受け入れた。
 その晩、ピートはマイクの自宅に押し入った。彼に手錠をかけ、ピートがまず連れて行ったのは、メルキアデスが葬られた墓地。拳銃を突きつけながらピートはマイクに、遺体を掘り返すよう命じた。それから、アメリカでメルキアデスが暮らしていた家へと彼を運び、躰を清め、腐敗を遅らせるために塩で処置を施し、布で包むと、馬の背に乗せさせる。
 ピートは、約束を守るつもりだった。友人を、彼が語っていた郷里ヒメネスに葬るため、彼を殺害した犯人もろとも馬に跨り、国境を越える……

[感想]
 本編の脚本を執筆したギジェルモ・アリアガは、メキシコから活動を開始し世界的に注目を集めるようになったアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥの『アモーレス・ペロス』『21グラム』の二作品を手懸けた人物でもある。彼が本編にも携わっていると知った時点で、同系統のものを想像していたのだが、その意味では若干裏切られた。
 わたしが鑑賞したのは『21グラム』のみだが、出世作となった『アモーレス・ペロス』でも用いていたという、時系列を分解し複雑に物語を繰り転げていくその手法は本編でも使われている。だが、沈鬱かつ重厚なドラマ性はややなりを潜め、本編は悲壮感を漂わせつつもどこか滑稽で、しかし凛々しい。
 たとえば『21グラム』においては、説明的な台詞を避けながらも、登場人物それぞれの生活背景や思想をまず丹念に描き出し、それぞれが縺れて複雑に絡みあい、最終的なカタルシスへと物語を牽引していた。だが本編は、基本的に友人を埋葬する旅へと赴く男・ピートの視線を軸として綴り、時系列の輻輳や幾つかの視点の混入はあるが、照準がぶれることはない。その一方で、ピートが何故これほど頑なにメルキアデス・エストラーダとの約束を守ろうとしているのか、その信念を貫く理由は一切描かれていない。彼自身の家庭環境についてもほとんど同様だ。
 だが、だからこそ執着的に約束を貫こうとするピートの苛烈さが際立っている。わざわざ屍体を発掘し、腐敗を軽減する措置をしてまで連れて行こうとするさま。遺体の顔に這い上がった蟻を追い払うために火を用いたり、途中立ち寄った家で塩の代わりに不凍液を用いて腐敗防止と防虫との処置を施したりと悪戦苦闘する姿には、同行させられたマイクならずとも、「どうかしている」と訴えたくなるだろう。
 しかし、そうしてなりふり構わず、ただ一心に約束を守り通そうとする姿は、次第に崇高にさえ映りはじめる。犯人であるマイクに対しては峻烈だが、無関係な人々を虐げることは決してしていない。無防備なようでありながら注意は巡らし、時として自分が追われる身であることを認めてしまう不思議な度胸が、奇妙なほど観る側を惹きつける。
 本心を包み隠したまま、信念に基づいて目的を果たそうとする真摯さと、それに伴う容赦のない一面。動きにいっさい澱みはない。ピートのそうした肉付けや描き方は、まったくハードボイルドそのものである。ドラマ性以上に彼の格好良さが際立つのも当然なのだ。
 そんななかで、ピートは一瞬だけ、心の揺らぎを覗かせる行動をしている。ラストシーン、ある人物が投げかける言葉に、返事もせず去り行く姿が凛々しくも哀愁を帯びているのは、そのひと幕が彼の深い孤独を窺わせるからだろう。このあたりのエピソード配分も巧みだ。
 一方で、他のキャラクターの掘り下げも丁寧で、決してピートの造型のみに頼っていない。まず、いちどの過ちによってピートに虐げられる羽目に陥るマイクである。もともと彼は表面的な男であり、よき社会人、よき夫の顔を装いながら万事真面目さに欠く人物として描かれている。妻を気遣っているように見せかけて実際には無関心であり、慣れぬ土地での暮らしに孤独を感じる彼女の訴えにもろくに耳を貸さない。そういう男だからこそ、かなり凄惨な仕打ちをピートから受けている姿にも悲壮感は乏しく、観客はいっそ爽快感を味わっていられる。だが同時にしばしば強烈な嘆きを見せて観る側を動揺させ、更には次第に人間として成長していくさままで覗かせる。とりわけ終盤近く、目的地に近づいたあたりでのある出来事は、滑稽にも映るが彼の胸中の変化をも窺わせて絶妙である。
 そんな彼になおざりにされた挙句、置き去りにされた妻ルー・アン(ジャニュアリー・ジョーンズ)や、近隣の複数の男達と大っぴらに関係を持つレイチェル、真剣な捜査を求めるピートと対立しながらも彼が独断で行う“正義”に消極的な理解を示すベルモント保安官、そして旅の中盤に登場する盲目の老人など、点綴される人物像の個性的ながらも共感を与える描きぶりがいい。
 何より、ピート以上に物語の中心にあるメルキアデス・エストラーダというキャラクターの厚みが秀逸だ。朴訥で純真な言動を繰り返し、心を開いたピートに対して自らの死後を託した男だが、そんな彼にも秘密はある。最後まで明かされぬその真意と、それを知ったうえでのピートの行動とが、いっそう物語を奥深くしている。
 結局のところ、本編はハードボイルドを目指して作られたのではないか、と思う。ミステリの一ジャンルとしてではない、その精神性を色濃く受け継いだ、正統派のハードボイルド・ドラマとして。その生き様が観る側の心にしっかりと刻み込まれる本編は、その名に恥じない名作と言えよう。

(2006/03/31)


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