cinema / 『メタリカ:真実の瞬間』

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メタリカ:真実の瞬間
原題:“Metallica : Some Kind of Monster” / 監督・製作:ジョン・バーリンジャー&ブルース・シノフスキー / 製作総指揮:ジョン・ケイメン、フランク・シャーマ / 撮影:ロバート・リッチマン、ウォルフガング・ヘルド / 出演:メタリカ(ジェームズ・ヘットフィールド、ラーズ・ウルリッヒ、カーク・ハメット、ロバート・トゥルージロ)、ボブ・ロック、ジェイソン・ニューステッド、デイヴ・ムステイン、クリフ・バートン、フィル・トウル / 配給:パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン
2004年アメリカ作品 / 上映時間:2時間21分 / 日本語字幕:小寺陽子
2005年07月30日日本公開
公式サイト : http://www.paramount.jp/metallica/
渋谷シネクイントにて初見(2005/08/17)

[粗筋]
 2001年、オリジナル・アルバム最新作の製作開始を目前にして、メタリカは危機に晒された。15年近くのあいだバンドにベーシストとして所属していたジェイソン・ニューステッドが、フロントマンであるジェームズ・ヘットフィールドとの意見の対立を契機にバンドを離脱してしまったのだ。
 ジェイソンの脱退以前から、バンドは深刻な膠着状態に陥っていた。意見を交わしているうちにお互いの個人攻撃が始まり、とりわけ最も付き合いの古いオリジナル・メンバーであるジェームズと、ドラマーのラーズ・ウルリッヒの対立は日増しに険悪の度を増していた。そこでメンバーとスタッフは心機一転、これまでの楽曲作りの体勢を根本から見なおすことにした。バスケットボール・チームの協調性改善にも一役買ったセラピストであるフィル・トウルを招いてグループ・セラピーを催し、対話の機会を作った。惰性を退けるためにサンフランシスコの金門橋近く、プレシディオにある今は使われなくなった兵舎を借り受け、壁や調度には一切手を入れず機材のみを持ち込んだ状態の、極めて不便な状況でのレコーディングを開始した。ドキュメンタリー映画の撮影も、彼ら自身が望んで企画されたことだった。
 最初のひと月ほどは順調だった。メンバーのアイディアをジェームズとラーズがまとめる、というやり方ではなく、曲作りの段階からミーティングを重ね、メロディも歌詞もアレンジもすべて三人に、ここ数年メタリカのレコーディングを支え続けているプロデューサーのボブ・ロックを交えた一同でアイディアを出し合いその場で纏めていく手法はしばらくのあいだ彼らの枯れかかっていた創作意欲に潤いを齎し、数曲を完成させる。
 だが、レコーディングが進行するにつれて、ふたたびジェームズとラーズの感情的な対立が露骨になっていった。メンバーの意思を尊重しながら、余所での活動を許容することが出来ず遂にジェイソンを放逐してしまったジェームズの煩悶。そんなジェームズの“フロントマン”としての責任感と苦悩を知りながらも、自らの意見を退けられがちだと思わずにいられないラーズ。主張を抑えているリードギターのカーク・ハメットにしても、ふたりの対立に胸を痛めている。
 アルバム製作開始からひと月以上が過ぎた頃、新たな事件が起きた。デビュー以来の宿痾だったアルコール依存症治療のためと称して、ジェームズが姿を眩ましてしまったのである。バンドの顔であるヴォーカルが雲隠れしてしまった以上、アルバムの製作を継続することは出来ない。そしてこれを最後に、メタリカの面々がプレシディオに戻ることはなかった。
 ジェームズの帰還を信じながらも、残されたラーズ、カーク、そしてボブの苦悩は続く。ラーズはセラピスト・フィルの提案で、かつてカークの前に二年だけ在籍していたベーシストであるデイヴ・ムステインに会いに行くが、そこで痛感させられたのは、遥か以前から彼らのあいだに対話が足りなかったということであった。また、ボブと共に赴いた、ジェイソンがバンド離脱以前から活動していたプロジェクト“エコーブレイン”のライブでは、メタリカが少しずつ時代から置き去りにされている現実を悟らされる。
 アルバム製作の停滞は、それからおよそ一年に及んだ――

[感想]
 まず最初に申し上げておく。私は、メタリカの音楽をほとんど聴いたことがない。その名前や断片的な音を聴いたことはあっても、アルバム一枚はもとより、一曲を通して聴いたという覚えもない。
 そんな私が、この映画を観ているあいだ、“知らない”ということを意識させられることがなかった。
 理由は幾つかあげられる。まず本編には持って回った音楽理論を振り翳したり、メタル・ロックの歴史を説いて観客を煙に巻くような箇所が一切ない。話を追う上での必然として、メンバー同士の会話にそうした持論やロック史に対するバンドの位置づけに触れることがあるが、それが描写の主題になることはない。あくまでカメラが捉えているのはメタリカのメンバーそれぞれの意思や価値観の相違であり、そこから生じる歪みだ。
 ドキュメンタリーとしての本編の主眼は、メンバー同士が軋轢を解消していき、崩壊寸前となったバンドを再構成していくさまを捉えることに絞られている。その割り切った組み立てが、本編にメタリカやメタル・ロック愛好家に対する単純なプロモーションとしての役割を超えさせた。
 特に象徴的なのが、製作途中にアルコール依存症治療のためと称して一時的にリタイヤするジェームズの苦悩である。ジェームズは間違いなくバンドを愛し、メンバーやボブらスタッフを家族とさえ考えているが、一方で音楽活動のためになおざりにしてきた本当の家族に対する負い目も抱いてきた。治療から復帰したジェームズはリハビリと称して、当分のあいだ正午から午後四時までに区切って新しいスタジオで製作に携わるが、その他の時間をすべて子供や妻たちのために費やす。長いあいだ製作の再開を待ちわびていたラーズやボブは、ジェームズが帰ったあともその日収録した音源に耳を傾け意見を交わす。しかし、製作のすべての面で関わっていきたいジェームズには、その行動がどうしても気に食わず、また衝突を繰り返す。ラーズもボブも、ジェームズを蔑ろにしたいわけではないし、彼の事情も音楽に対する情熱も理解しているのだが、それに束縛されていることに対しては苛立ちを隠せない。スタジオの廻りをジョギングしているあいだじゅう、ジェームズに対して“ファック”と言う場面しか頭に浮かばない、とさえラーズは吐露する。傍らで眺めながらほとんど口を挟まないカークも苦渋の面持ちをしている。
 この過程、まさに崩壊を免れようとそれぞれに藻掻いている家族のさまを想起させる。ただ普通の家族と異なるのは、全員が極めて個性的で別々の考えを持っており、或いは本当の家族とのバランスの保ち方などに苦慮している点である。そうした悩みを解決していき、或いは折り合いをつけ、少しずつ新しいあり方を模索していくさまは素晴らしくドラマティックだ。
 この劇的な展開を後押ししているのは、撮影そのもののライブ感覚である。何せメンバー自身、アルバム製作がこれほど長期化するとは予測していなかったはずで、序盤はどちらかというと脳天気な言動も目につくが、ジェームズが行方をくらまし製作が停滞すると、ラーズがバンドのあり方を再確認するために過去のメンバーに会いに行く場面にも立ち会い、更にはドキュメンタリー収録の中断に言及するところまで撮している。随所で挿入されるその時その時のメンバーの述懐にも、彼らの迷いが見え隠れし、バンドの迷走が明確になっていく。どこへ行き着くか解らない感覚が、映画全体に緊張感を齎し、観客の興味を逸らさない。
 ある点では妥協し、ある点では高みを目指し、ある部分では見切りをつけながら、遂にメタリカは最新アルバムを完成させる。最終的にオーディションを経て新たなベーシストを起用(奇しくも同じくロックバンドの雄であるオジー・オズホーンとコンバートする結果となった)、アルバムの発表後に久し振りとなるライブに赴いたところで物語は幕を引く。ただメタル・ロックをやかましい音楽としか考えていない人間でも、途中でジェームズやラーズが語った胸の裡と呼応するかのような観客の反応に、共鳴を覚えずにいられないはずだ。
 観終わったあと、メタル・ロックにさほど興味のない人でも、彼らの最新作『セイント・アンガー』を聴きたいという気分にさせられるだろう。つまり、本編は恐らく本来の役割のひとつであったであろう、アルバムのプロモーションとしても充分に成功しているのだ。
 広報目的でも成功を収めつつ、極めて正統派のドキュメンタリーとしても完成された本編、メタル・ロックに興味のあるなしに拘わらず、充分に映画としてのカタルシスが味わえる傑作である。冗談抜きに、近いうちにレコードショップへ『セイント・アンガー』を探しに行ってしまいそうな私が、今ここにいるのだから。

(2005/08/18)


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