cinema / 『地下鉄(メトロ)に乗って』

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地下鉄(メトロ)に乗って
原作:浅田次郎(講談社文庫/徳間文庫・刊) / 監督:篠原哲雄 / 製作:宇野康秀、気賀純夫、島本雄二、早川洋 / エグゼクティヴプロデューサー:河井信哉、遠谷伸幸、林紀夫、亀山慶二 / 企画:小滝祥平、三宅澄二、高松宏伸、梅澤道彦 / 脚本:石黒尚美 / 脚本協力:長谷川康夫 / 録音監督:橋本文雄 / 撮影:上野彰吾,J.S.C. / 照明:赤津淳一 / 美術:金田克美 / 編集:キム・ソンミン / 視覚効果:松本肇 / 助監督:中西健二 / 音楽:小林武史 / 主題歌:Salyu『プラットフォーム』(Toy's Factory) / 出演:堤真一、大沢たかお、岡本綾、常盤貴子、田中泯、笹野高史、北条隆博、吉行和子 / 配給:GAGA Communications×松竹
2006年日本作品 / 上映時間:2時間1分
2006年10月21日公開
公式サイト : http://www.metro-movie.jp/
科学技術館サイエンスホールにて初見(2006/10/02) ※特別試写会

[粗筋]
 服飾業界で財を成した父・小沼佐吉(大沢たかお)と袂を分かち、母方の姓を名乗り下着メーカーで営業をしている長谷部真次(堤真一)は、いつも通り地下鉄を経由して家に帰ろうとして、駅を出た。だがそこは、現代ではなく東京オリンピック開催に湧く昭和39年、しかも彼が生まれ育った中野だった。
 異様な事態に困惑するが、その日がちょうど彼の兄・昭一(北条隆博)の死んだ日に当たると気づいた長谷部は、当日父と諍いを起こし、ひとり気晴らしに遊んでいた昭一を見つけると、長いこと海外に滞在していた親族を装い、今日は何もせずに家に帰るように言う。そうして、昔自分が住んでいた家に昭一が戻るのを見届けると、長谷部は立ち去り――気づけば、現代に戻っていた。
 長谷部はこの奇妙な体験を勤め先の上司・岡村(笹野高史)や、密かに交際を重ねている軽部みち子(岡本綾)に打ち明けるが、岡村は出来事を疑いこそしないものの、他の者には話さないほうがいい、と諭す。
 しかしその晩、みち子の部屋で寛いでいた長谷部は、ふたたび時間を超える。今度辿り着いたのは、終戦間もない頃。通りすがりに無理矢理靴を磨いて金をむしり取ろうとした若者たちに抵抗し、長谷部が持っていた当時ではあり得ない金銭に彼らが動揺しているところへ、ふらりと現れたのは――若かりし日の父・佐吉であった。
 満州で終戦を迎え、無事に帰国した父は酒場を経営、“アムール”と周囲から呼ばれ、闇市ではちょっとした顔になっていた。当時としては異様に整った身なりと持ち物から、長谷部が米軍とも通じる人間だと早とちりした佐吉は、自分の酒場に長谷部を招き、関心を惹こうとする。
 そのとき、酒場の外で騒ぎが起こった。何気なく様子を見に出て、長谷部は愕然とする。赤線の摘発によって連れ去られていく娼婦たちのなかに、何故か彼の恋人・みち子が紛れ込んでいたのだ――

[感想]
 直木賞受賞作『鉄道員』ほか、叙情的で感動を誘う小説の書き手として知られる浅田次郎が、その作風を完成させ本格的に名前を知られるきっかけとなったのが、本編の原作となる長篇である。あいにくと私はそちらを未読であるため、きちんと比較して検討することは出来ないのだが、しかしそれでも断言できることがある。
 この映画版、現代の設定が10年以上間違っている。
 そもそも原作の刊行は1994年であり、作中の時代設定もそれより若干遡る程度だろう。その時代設定であれば、本編の登場人物たちの設定にもさほど違和感を覚えない。
 だが、この映画のなかでは地下鉄は都内の路線が一本化され、“東京メトロ”の名称とロゴで統一されている。初めて過去に遡った場面では、主人公・長谷部が携帯電話を使おうとして電波が届かず嘆いているくだりがある。いずれも10年ほど前にはあり得なかった光景であり、このふたつの条件から、物語が2005年前後ぐらいに設定されていることが解る。
 しかしそうすると、過去の出来事と登場人物の見た目や社会的位置づけから類推できる年齢とが一致しなくなってしまうのだ。作中における小沼佐吉は、終戦間際になって急遽満州へと派兵された、というくだりがあり、そのことを考えると昭和20年当時には10代後半ぐらいであったと考えられる。つまり、1925年から1930年ぐらいの生まれ。現代における佐吉は未だ事業家として現役ながら病に伏せっているが、75歳ならばまだ辛うじて許容範囲ではある――が、80歳はちと辛いだろう。
 もっと問題なのは主人公と、ある主要登場人物の年齢だ。佐吉の年齢やそのほかの描写から類推していくと、どう考えてもその社会的地位や周辺の状況が十歳ほど若く設定されている。それもこれも、原作の設定や物語を留めようとしながら、撮影に全面協力したと思しい東京メトロの風景などを描こうとした弊害である、と想像される。だが、ちょっとでも注意力のある人間ならあっさりと気づいてしまうズレであり、やはりここは原作に添った1990年代に現代を設定するべきではなかったかと思う。
 だが、こうして推測を重ねていくと、原作を読まずともある程度は忠実に描こうとしていると察しがつく。そのあたりの姿勢には好感を覚える。現代の設定に違和感はあれど、過去の時代考証が概ね丁寧であるのもいい。
 また何より、純粋にドラマとして優れ、繊細な感情描写が美しい作品でもある。主人公・長谷部の父や兄弟たちに対する微妙な感情、家族と恋人・みち子とのあいだに曖昧に漂う胸中、そんな彼を気遣いながらも寄り添ってしまうみち子の心境。過去における、果たしてこれが本当に同一人物なのか、と思うほどに言動に違いが感じられながら、しかしそこにきちんと芯を通していく父・佐吉の描写がまた素晴らしい。すべての年齢を大沢たかおひとりが演じているのはさすがに奇妙ではあったが、それ故に彼の傑出した演技力が光ってもいる。
 唯一、終盤におけるサプライズともなる、ある人物の行動にいまいち心理的な説得力を欠いているのが残念だが、しかしそのあたりも話の細部を丁寧に汲み取っていけば理解できる。意外であると同時に、しかしこういう成り行きが用意されていたからこそ、すべての物語が始まった、とも捉えられる。あの筋書きがあったからこそラストの切ない余韻を強調しているわけであり、やはりあの流れは必然だったのだろう。
 そう激しく感動させられる、ということはないものの、確かに深く胸に染みいる端整な物語である。一部を除いて丁寧にその精神を再現し、映画として昇華させた手腕は見事だと思う。上ではだいぶねちねちと記したものの、そのあたりの矛盾を大した問題ではない、と許容することが出来るなら、間違いなく豊潤な体験のできる良質な映画として楽しめることだろう。

(2006/10/06)


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