cinema / 『マザー・テレサ』

『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る


マザー・テレサ
原題:“Mother Teresa” / 監督:ファブリッツィオ・コスタ / 脚本:フランチェスコ・スカルダマーリャ、マッシモ・チェロフォリーニ / 製作:ルカ・ベルナベイ / 製作総指揮:アンセルモ・パッリネッロ / 撮影:ジョヴァンニ・ガラッソ / プロダクション・デザイン:フランチェスコ・ブロンツィ / 編集:アレッサンドロ・ルチディ / 衣装:フルヴィア・アメンドリア / 音楽:ギー・ファーレー / 出演:オリヴィア・ハッセー、セバスティアーノ・ソマ、ラウラ・モランテ、ミハエル・メンドル、イングリッド・ルビオ、エミリー・ハミルトン / 配給:東芝エンタテインメント
2003年イタリア・イギリス合作 / 上映時間:1時間56分 / 日本語字幕:古田由紀子
2005年08月13日日本公開
公式サイト : http://www.motherteresa.jp/
日比谷シャンテ・シネにて初見(2005/10/08)

[粗筋]
 その慈善活動によってノーベル平和賞を受賞、列福(聖者に次ぐ福者に列せられること)にまで至ったマザー・テレサ(オリヴィア・ハッセー)の活動の原点は、1946年、インド・カルカッタの修道院に籍を置いて二十年を経た彼女が教師を務めていたカトリックの女学校での出来事にあった。
 門の外で発生したイスラム教徒とヒンドゥー教徒の抗争により負傷した人物を校舎に招き入れ治療を施したマザー・テレサであったが、そのことが修道院長マザー・ドゥ・スナークル(ラウラ・モランテ)の不興を買って対立、やがてダージリンへの赴任が命ぜられた。悄然と列車に赴いたマザー・テレサは道中至る所にいる物乞いの姿に胸を痛める。そして、ふと彼女が傍らに座り様子を看た男が呟いた言葉――「私は渇く」が、マザー・テレサの決意を促した。
 無断でカルカッタに舞い戻ったマザー・テレサは、貧しい人達のいるところこそ自らの生きるべき場所と定め、院外活動の許可を修道会に求める。大司教が難色を示すなか、意外にも彼女の味方をしたのは、やはり当初はマザー・テレサの活動に渋い顔をしていたエクセム神父(ミハエル・メンドル)であった。彼の進言により、判断はヴァチカンに委ねられることになる。返事を待つあいだ、マザー・テレサはパトナに移り医学及び治療法を実地で学ぶ。
 数ヶ月後、マザー・テレサのもとに届いた返事は、院外活動を認めるものであった。マザー・テレサは白地に青い線をあしらった、後年彼女の象徴となる新しい修道服に身を包み、貧民街での生活を始める。基本的に組織や団体からの支援を拒む彼女の活動は、子供達に教育を施し、彼らのために市場を巡り食料を分けてもらうこと――事実上の托鉢であった。修道会の品位を落とすとしてマザー・ドゥ・スナークルや教会の支援者は不快を示すが、一方でエクセム神父をはじめ、マザー・テレサに対して協力を申し出る者も現れるようになる。彼女の生徒であったヴァージニア(イングリッド・ルビオ)に至っては学校を退き、マザー・テレサとともに慈善活動に身を捧げる意を固めた。
 ヴァージニアを切り出しに、少しずつマザー・テレサの元に人が集いはじめると、彼女は貧しい人々や弱者を支援するための施設をひとつ、ひとつと作りあげていった。孤児を受け入れる施設に、医療費を払えぬ人々の治療を請け負う施設、または最早手の施しようのない患者たちが心安らかに最期を迎えることの出来る場所。そうしたボランティア活動の精神的な支えとするべく、マザー・テレサは新たな修道会《神の愛の宣教者会》の設立を提言する。簡単にはいかない、と彼女を諭すエクセム神父らだったが、マザー・テレサの決意は固かった。
 やがてヴァチカンから、彼女の申し出を精査するための使者としてセラーノ神父(セバスティアーノ・ソマ)がやって来る。当初、活動のあまりの忙しさ故にセラーノ神父との面談を拒むマザー・テレサに、神父は批判的な報告書を準備していた。だが、彼の真摯な言動に敬意を表したマザー・テレサは面談に応じ、セラーノ神父の問いにこう応える。
「私は、神が手に持つペンに過ぎません。文字を書くのは神ご自身です」
 その返事に本物の献身を見たセラーノ神父は、エクセム神父の目の前でもとの報告書を破り捨て、《神の愛の宣教者会》設立を進んで推し薦めた。そればかりか彼はカルカッタに留まり、マザー・テレサとともに慈善の道を歩むことを選ぶのだった。
 時は過ぎて1960年代、マザー・テレサは次なる活動拠点として、あらゆる弱者を受け入れる“平和の村”建設を目指す。しかし、この活動にはそれまで以上の困難がつきまとうのだった……

[感想]
 マザー・テレサの名前を知らない、という人はかなり珍しいだろうが、その業績を説明しろ、と言われると答に詰まる人のほうが多いだろう。本編はその足跡を極めて簡潔に、解りやすく伝えている、と感じる。詳しくないのは私も同じなので、研究者の目からするとまだまだ足りない、という可能性も拭えないが、少なくとも知らぬ目からは必要充分な言及ぶりと感じられる。二時間の尺にあって、詰めすぎとも長すぎとも思わせない配分がなされているのは確かだ。
 ただ、それ故に波乱が小刻みになり、困難と苦悩に遭遇した、という印象をあまり受けなくなる、という弊害を生じている。結果として平坦な印象を与える作りが、まるで作品をテレビ番組中の再現ドラマのように感じさせてしまっているのだ。貧民街の様子を中心に極めて生々しく再現しているのだが、その全体像をあまり見せていないことも一因だろう。全体の凄惨さとそのなかでマザー・テレサの行動が齎す救いというものを映像的に示している箇所がないので、断片のみを蓄積していく再現ドラマ的な組み立てばかりが際立ってしまっている。たとえばダージリンに向かう列車に乗る直前でマザー・テレサが啓示を受けるくだり、物語の後半で道端に倒れた老人と神について短く語り合う場面、そして終盤において病に倒れた彼女の回復の代償として神に召されたかのようなエクセム神父の死のくだりなど、映画的な見所は鏤められているが、実際の行いと比較して訴えかける力は弱い、と言わざるを得ない。
 しかしこれは映画をしょっちゅう見ている人間故の繰り言であって、前述の通り、マザー・テレサの功績、ひいては彼女の人柄や信念は充分に伝えており、役割はきちんと果たしている。いちばんの勘所である、功名心からの慈善ではなかったことを、本編を観たあとで疑ってかかる人はいないだろう。
 その点で、本編の真価は彼女の生前の姿を描いたくだりではなく、それらを受けたうえで、死後におかれるほんの数分間のシークエンスにある。出来ればこれから映画を御覧になる方には、ここに至るまでに登場する多くの人々の顔と名前を忘れずにいていただきたい。そうすることで、本編が何よりも切実に放ちたかったメッセージを、きっちりと受け取ることが出来るはずである。そしてそれこそ本編が、マザー・テレサを語るうえでいちばん描きたかった側面に違いない。
 全体に映画として冒険している部分がなく、無難な組み立てをしているのだが、それはつまり誰にとっても受け入れやすい表現を選択しているということでもあり、その括りにあるからこそあのラストシーンは光芒を放っている。決して華々しくなく、困難に遭遇しながらもその姿勢は常に穏やかな物語であるが、だからこそマザー・テレサという人物を象徴的に綴った、理想的な出来映えであると思う。

(2005/10/08)


『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る