cinema / 『Mr.&Mrs.スミス』

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Mr.&Mrs.スミス
原題:“Mr. and Mrs. Smith” / 監督:ダグ・リーマン / 脚本:サイモン・キンバーグ / 製作総指揮:エリック・フェイグ / 製作:アーノン・ミルチャン、アキヴァ・ゴールドマン、ルーカス・フォスター、パトリック・ワックスバーガー、エリック・マクレオド / 共同製作:キム・H・ウィンザー / 撮影監督:ボジョン・バゼッリ / プロダクション・デザイナー:ジェフ・マン / 編集:マイケル・トロニック,A.C.E. / 衣装:マイケル・カプラン / 音楽監修:ジュリアンヌ・ジョーダン / 音楽:ジョン・パウエル / 出演:ブラッド・ピット、アンジェリーナ・ジョリー、ヴィンス・ヴォーン、アダム・ブロディ、ケリー・ワシントン / リージェンシー・エンタープライズ提供 / 配給:東宝東和
2005年アメリカ作品 / 上映時間:1時間58分 / 日本語字幕:松浦美奈
2005年12月03日日本公開
公式サイト : http://www.mr-and-mrs-smith.com/
日比谷スカラ座にて初見(2005/12/17)

[粗筋]
 運命的な出逢いから五〜六年後、ジョン・スミス(ブラッド・ピット)とジェーン・スミス(アンジェリーナ・ジョリー)の夫妻は結婚の危機を迎えていた。愛がないとは言わないが、すっかり倦怠期に突入し、性生活もおよそ充実しているとは言い難い。義理のためにカウンセラーのもとに通うけれど、建設的な話には結びつきそうもなかった。
 しかし、ふたりとも原因は薄々察している。お互いに、相手には語っていない秘密があったのだ。
 ミスター・スミスは建築設計事務所を経営し、それなりに儲かっていると見せかけているが、それは仮の姿。彼の本当の仕事は、殺し屋である。エディ(ヴィンス・ヴォーン)ら数名の部下がいるが現場には常に単独で赴き、臨機応変に任務を遂行する。出張仕事は、あくまで隠れ蓑に過ぎなかった。
 そして、ミセス・スミスもまたコンピューター技師というのは仮の姿で、意外にも彼女もまた、ある組織で暗殺を主に行う部署のトップ・エージェントだった――ジャスミン(ケリー・ワシントン)ら女性中心のスタッフと共に最新のテクノロジーを駆使し、緻密に立てられた計画をもとに的確に任務をこなしていた。
 ふたりはまったく気づいていなかった――同種の秘密を互いに隠し持っていることが、両者のあいだに大きな壁を作り、愛情で始まったはずの生活を虚構にしていたとは。だが、ある日の任務がそれを否応なく気づかせる。ベンジャミン・ダンズ(アダム・ブロディ)という工作員がミスから拘束され、砂漠を経由して護送される。その前に彼を始末しろ、という指令が、どういうことか、スミス夫妻双方に、別ルートから下されたのだ。
 互いに妨害し合ったことが原因でベンジャミンを取り逃がしたふたりは、妨害者の正体を探り、程なく一緒に暮らしている人間が暗殺者であることを知る。正体を知られた相手は、48時間以内に始末しなければ、逆に自分が組織から追われる身となる――かくしてミスター&ミセス・スミスの、過激極まる“夫婦喧嘩”の幕が切って落とされた……

[感想]
 冗談でも何でもなく、これは夫婦の話に過ぎない。確かに設定は異常だ。双方とも表の顔に隠れて、組織の命によって様々な工作を行う仕事に就いており、それが互いに知れてしまったために殺しあいを始める羽目に陥るのだが、その深刻さや周辺に齎す影響の大きさを考慮しなければ、やっていることは「お互いに愛想は尽きているはずなのに、離れようとしてもなかなか離れられない」夫婦の大喧嘩である。
 暗殺者という裏の顔を、浮気以外の秘密と考えれば解りやすい。それ自体は裏切りではないが、問題は互いに“隠していた”ということだ。やむなくだと解っていても、亀裂の原因となっていたと気づいてしまえば気分は害される。スミス夫妻の場合はそういう動機を、組織に所属する暗殺者としての掟が後押ししているので、ああいう派手な“喧嘩”に発展する、というだけなのだ。実に話が解りやすくていい。
 その解りやすい土台を、脚本や演出がまたしっかりと活かしている。お互いに正体を知った直後、初めて迎えるディナーの異様な緊張感。サスペンス映画さながらだが、その真剣さ加減が翻って妙なおかしみを齎す。夫のほうは暗殺される危険を想定し、手渡されたワインをこっそり鉢に捨てたり、肉を切り分けるナイフをさりげなく奪ったりするが、ワインと一緒に入っていた果実を妻はあっさり口にするし、何故かナイフは太腿にもう一本隠し持っていて、それで野菜を切ってみせたりする。後者なんかは、真っ当な奥さんならたぶん絶対にあり得ない行動であるはずなだけに、余計に可笑しい。互いに正体を知ったと確信した直後、車で逃走する妻を夫が追いかけるが、このときのやり取りは、命懸けであるにも拘わらずまるで単なる痴話喧嘩なのだ。転落する車の後部座席から、先に飛び出した妻に向かって「話し合おう!」と叫ぶ夫、なんて滅多にお目にかかれる構図ではない。
 以降の展開にしても、レストランにふたたび舞い戻った我が家、そしてホームセンターと激しいアクションを描くにしてはあまりに特異な舞台を用いているが、いずれもアクション映画でなければ、普通に家族や夫婦の話を描くときに選ばれる舞台である。意図的にそういう場所を選んで戦場にしているところからも、暗殺者同士の対決を描くアクションである以前に、極端なまでに動的で激しい夫婦の感情的なやり取りを描く作品にしようとしていることが窺える。
 従って話の流れも、アクション部分を意図的に軽視すれば、夫婦の関係を再確認し、絆を結び直していくという定番を踏まえている。いや、製作者も本編を単純にアクション映画として盛り上げることを第一に考えていないことは、クライマックスの推移からも明白だろう。アクション映画に必要なのはカタルシスに結びつく強敵だが、本編にそんなものは存在せず、ある意味唐突なかたちで戦闘は終結し、あっさりしたエピローグを挟んで物語も幕を下ろす。にも拘わらず、ああ良かったね、と思わせてあとに痼りを残さないことが、その本質を何よりも如実に証明している。
 実際には多くの血が流れ、無数の犠牲者が出ているはずで、それを映像の詐術で誤魔化しているのだが、それを姑息と感じさせないのも、主人公となる夫婦以外の部分を暈かして、名前のないものとして描写していることに起因している。観客に厭な印象を残さないためのそうした工夫も快い、一級の娯楽映画である。けっこう下品だし、観たあとで格別心に残るものもないけれど、約二時間を後腐れなしで楽しませてくれる、それだけで充分ではありませんか。

(2005/12/17)


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